エステル記 4章11-17節 「この時のために」

2015年2月22日 説教 石井和典牧師

こうであったらと嘆く

 もし自分の人生がこうであったらなぁ。と嘆くことも多いかもしれません。一般的に、人は無いものねだりをしやすい存在ではないかと思います。ないからこそ、手に入れたくなるという傾向も強いものです。しかし、聖書が私達に教えてくれます世界観というのは、無いという状態は決して悪いものではないということです。というよりも、むしろ、その現状を用いられて神様が御業を行うということです。無いものを満たそう満たそうと考えますけれども、自分で満たそうとしてもそれは難しい、しかし、主なる神がその満たされないものを通して御業を行うのです。  エステルという人がいました。彼女は父母を失っていました。もうこの時点でとても大きなハンデキャップを背負ってしまっていると言ってよいかもしれません。両親を失うということが子供にとってどれだけ心細いことであり、不足を感じることでありましょうか。もしかして、人生の中でこれ以上の不足はないというぐらい大きなことかもしれません。しかし、彼女がモルデカイという養父のところに預けられたということは、そのこと自体で、イスラエルの民の救いという大きな出来事につながっていくための道備えであったとも言うこともできるのです。実際そうです。彼女の境遇が用いられて、イスラエルは滅ぼされずに済んだのです。彼女がモルデカイのところに預けられていなかったら、もしかしたらイスラエル民族は滅んでいたのかもしれないのです。それほどモルデカイという人にとっても、イスラエル民族にとってもエステルという人は大切な人でありました。

嘆きは神の業のためかもしれない

 皆さんの人生の中に与えられている嘆き。私はなぜこうなのか。というものは、神様の御業のために将来使われるものかもしれません。大きな病を背負っておられるかた。家族の境遇が恵まれていないと思っておられる方。いま現状に全く満足がいかないという方。そういう方に対して神は働かれるかもしれないのです。神様を信じて神様とご一緒させていただくということは、自分がこうだと考えていたものが180度まったく別のものだったのだと感じることでもあります。エステルも親をなくしたことを悲しんだのは当然、その状況を嘆いて、与えられている運命を呪ったかもしれません。しかし、それらを用いられるのが神様です。

エステルが王妃として迎え入れられる

 エステルはユダヤ人でありました。イスラエルの神を信じる民です。この民はペルシアという国においては少数派でありました。イスラエルの国は滅ぼされて、バビロンという国の奴隷となっていた時期があります。その後にペルシアが支配国のバビロンを滅ぼして、ユダヤ人たちはこのペルシアの支配のもとに下りました。しかし、ペルシアの王はユダヤ人に対して寛容な政策を取り、かなりの自由が認められていました。自由にユダヤ人たちは祖国に帰ることもできました。しかし、この国に残ったものたちもいました。残った人たちの中に、本日登場しますエステル、またモルデカイがいます。だから、彼らは少数の民族で固まって生活をしていました。しかし、王はしっかりと彼らの生活を守っていた。  ペルシアの王がどれほど力強かったのか。権力が絶対的なものであったのかということは、クセルクセス王が180日の宴会を行ったというところからして明らかです。一年の半分が宴会ですよ。それだけ国が安定していましたし、その支配する力というものは絶大なものがあった。誰も王には逆らうことはできませんでした。王が一声かけたら絶対です。  そんな宴会のさなかに、王のもとに王妃ワシュティを連れてくるようにという命令をうけますけれども、王妃はそれに従いませんでした。王妃は王妃で、女性のための宴会というものを開いていて、そちらのほうがもしかしたら楽しくて抜け出すことを拒んだのかもしれません。とにかく王がこうせよということに従わなかった。その結果、たった一度王の召しに応えなかったということだけで、王妃の位から退けられてしまいました。それだけ王の力が強かった。退けられたということだけならまだましなほうで、こういうことをしたら殺されても仕方がありませんでした。しかし、クセルクセス王は寛大なところがありまして。退けるだけですみました。この王の寛大さも後に用いられることになります。  退けられた王妃の代わりに、本日のこの書物の名にもなっていますエステルという人が召しだされました。

ゾロアスター教を信奉する王や社会の中で

 ゾロアスター教を王もまた社会も信奉していました。だから、イスラエルの神を信じるエステルが迎え入れられるということは本来ならば考えにくいことでした。ゾロアスター教というのは善悪二元論、善と悪、その他の事柄もハッキリと割りきれて説明されるものでありましたの非常に論理的でありわかりやすい教えです。どちらかと言ったら左脳的といいますか、理知的といったらいいでしょうか。人間の理性の中で物事を理解する宗教です。  ユダヤ人の神もその善に分類される神としてゾロアスター教は捉えることができたはずですので、ペルシアの王によってユダヤ教は排除されませんでした。しかし、ユダヤ人は少数派であることにかわりはありあせんでした。  そんな中どういうわけかエステルがすんなりと受け入れられて、王妃として生活を始めることになりました。というのも飛び抜けてエステルが美しかったからです。王の目にとまるほどに。これも彼女にすでに与えられていた境遇といえば境遇なのです。  ユダヤ人が王妃になるということは考えられないことでありました。しかし、この状況このエステルに与えられた賜物、またゾロアスター教という土台。これらすべてが整えられていたからこそ、エステルは王妃として迎え入れられることができたということができましょう。偶然のようにみえて、そこには必然がある。神の導きがあるということです。

あるとき不幸が

 しかし、ある時高官の、位の高いハマンという人に、エステルの育ての親モルデカイが目をつけられてしまいます。というのも、ハマンに対して簡単にモルデカイは迎合することをせずに、ハマンの前で跪いて敬礼しませんでした。なぜモルデカイがハマンに跪くことを拒否したのかその理由が聖書には書かれていませんが、おそらくハマンがまるで王にでもなったかのように権威を振りかざしていたのでありましょう。そのことに対する無言の反抗をモルデカイは行ったのです。ユダヤ人というのは神を信じる民でありますので、誰に力があるのか、本当に力のある人はあなたではないということがよく見えていたのです。  しかし、このことが災いしましてユダヤ人を殲滅しようという恐ろしい策略をこの高官ハマンは考えるようになってしまい実行しようとしました。かつての社会において権力者に逆らうということはすなわち死を意味するものであります。ハマンという高官に無言で敬礼しないという逆らいをしてしまったモルデカイをハマンは狙い。その結果、策略にはめて、ユダヤ人全体を殲滅しようとすることさえできたのです。これは絶対絶命のピンチと言ってよろしいでしょう。

八方ふさがりの現実

 ハマンがユダヤ人を皆殺しにするという策略をねり、その結果まんまとクセルクセス王はのせられてしまって、ユダヤ人を皆殺しにするということをハマンに任せるという決断をしてしまいます。ハマンが王に進言したことは次のような内容でありました。エステル記3章8節です。  お国のどの州にも、一つの独特な民族がおります。諸民族の間に分散して住み、彼らはどの民族のものとも異なる独自の法律を有し、王の法律に従いません。  これは明らかに言い過ぎです。ユダヤ人は王の法に従わないというわけではなかった。しっかりと遵法精神をもっており、上に立てられた権威にしたがっていたのです。しかし、真の主を信じておりましたので、神は唯一なる神を崇めていた。独自の法をまた持っていましたので、それはモーセの律法でありましたけれども、これがあるからといってペルシア王に反することをしていたということではありません。しかし、濡れ衣を着せられてユダヤ人を殲滅しても構わないとまで、王に嘘をついて思わせるわけです。何しろ、王は絶対的な自分の権力が少しでも妨げられるのならば、それを処罰する王でありましたので、このように王が決断してしまうことは容易に予測できます。ハマンは自分の立場を利用して、敬礼しなかったモルデカイへの鬱憤を晴らそうとしていまいした。多くの人々の命を犠牲にして。

命がけの進言

 ハマンがそうしようとすれば、それが通ってしまう。そういう現実の中にあって、モルデカイやユダヤ人たちは、もはやなすすべがない。どうしようもない。万事休す。そういう状況でありました。しかし、たった一つだけ希望がありました。それはエステルという王妃、この王妃エステルが王に取り入ることができればもしかしたらなんとかなるかもしれない。しかし、王はユダヤ人が王の権力に従わないという現実に対してユダヤ人を殲滅するという決断をしているので、それを覆すのはとてもむずかしいこと。現実的に考えて、お先真っ暗です。しかも、エステルは王妃といえども、王を自分の思い通りにすることができるわけではない。会うことさえ自分の意思によっては難しいものでありました。エステル記4章11節。  この国の役人と国民はだれもがよく知っているとおり、応急の内庭におられる王に、召しだされずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、との法律の一条定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。  王にエステルの方から会うためには、命がけ、もしも王の気分が乗らなければ、殺されてしまう。それがペルシアの法だというのです。

命がけの行為をするためには、命をかけて祈る

 エステルにとってはこれは命がけのかけでありました。王の一声で自分の命が、同胞の命が守られるか、すべて奪われてしまうか。そのためには、肉体的な欲求をすべて捨てて、祈りに専心し、神に向き合う。そして祈りによって物事が前に進むということを経験する。祈りに専心するために断食を皆がしました。

祈りに専心していると神の側から

 祈りに専心し、皆が心を一つにしているとどうなったでしょうか。エステルが自分から王に声をかけたというわけではなくて、王の方からエステルに声をかけてくださったのです。神が働いて、取り計らってくださって、王があってくださるのではないか。神が応えてくださるのではないか、そういう前提で期待して祈り、実際に行動を起こしました。  実際には、エステルにできることというのは、王にあったら失礼にならないようにという配慮ぐらいです。服装を整えて、王の方をいつも向いて、すかさずに王がお話くださったら反応しようと思って待っているのです。すると実際に王が金の笏を持ちだしてきて、エステルに金の笏を差し出してくれた。  この出来事以前、三十日もの長い間、王はエステルと会おうとはしていませんでした。その王がちょうどタイミングよくこの時に声をかけてくださいました。更に、王は上機嫌でエステルが準備する宴会に出席してくれるという約束までしてくれた。さらに、渦中の人物ハマンも呼びます。  一日目の宴会は、イスラエルを救うというそのエステルの願いが達成されるということはありませんでした。しかし、またエステルは王様が自分のところに来てくださるようにと言うと、王はまた来てくれるように約束してくださった。

ちょうどタイミングよく

 そして、その時ちょうどタイミングよく、王が夜眠れない時に、宮廷日誌を見ているとユダヤ人モルデカイの記事があって、王を暗殺しようとしていた宦官を捕まえたという記事が目にとまりました。なんというグッドタイミング、ここしかないというタイミングで奇跡的に神が働かれました。このモルデカイに褒美を栄誉を与えなければいけないと王様は思いだした。その結果、モルデカイに栄誉を与えます。  さらに、モルデカイがしたことというのは恐ろしいほど大きな王への忠誠の行為でありましたので(王を暗殺者からまもるという)、王はモルデカイをとても信頼するようになるのです。

予測した通りにではなく

 第三者から冷静にみるのならば、エステルが王様に直訴して、ユダヤ人殲滅作戦をやめさせるということは不可能なことです。王はユダヤ人が王に従わず別の法を掲げているということで、処罰しようとしているのですから。現にエステルは、王と会うことはできましたけれども、そのあと王に何か自分から物申したということではありません。現実はエステルの力では変えられないのです。ほとんどユダヤ人の救いに関することは口にしていません。王に「その判断を思い直してください」などというものならば、王の決断に反するのかやはりユダヤ人は王に従わないおかしな民だと言われれて皆殺しになってしまうのがオチでしょう。だからエステルは何も言えなかったのです。

何をしなくても

 エステルは直接ユダヤ人を救ってくださいと言わなくても、王様の視点はモルデカイに行き。これは神様の導き以外の何物でもありませんが、モルデカイがどれだけ王に貢献したかに王は自然と目がいったのです。モルデカイこそが、自分を暗殺しようとしているものを見つけ出した功労者であると気づいた。タイミングよく。この時とばかりに王はモルデカイの存在に気付かされたのでした。  そして、あれよあれよとモルデカイ、エステル。この二人のいうことを王様は聞いてくださるようになって、エステルとモルデカイの民であるユダヤ人殲滅の作戦を中止させるに至るのです。そして、殲滅作戦を目論んだハマンは王によって処刑されてしまいます。

神は救いの神

 私達の信じる神は、主イエス・キリストの父なる神です。この御方は、私達が救いを求めるときに、あらゆる手を用いてくださって。手を差し伸べてくださるお方です。十字架の主を私達にお送りくださるお方です。十字架に神の子をかけるというものは最終手段であり、そんなことまで人のために、しかも神のところから自分から抜け出た人類のためにする義理はないと思うのです。しかし、主はすべての方策を使ってといいますか。何がなんでも私達を救い出すことを考えてくださる。その結果が十字架でありまして、この十字架にすがるものは誰一人例外なく救いを得るのです。  最も尊いキリストの血をもって私達をあがなってくださるお方です。このお方は叫び求めるものに救いを賜ることばかりを考えてくださるお方です。絶対にこの状況からは無理だというような、このタイミングでなければうまくいかない。これはまるで奇跡だ。と思えるような仕方でもってしても祈りに応えてくださるお方。  ここにおられる方、導かれた皆様。皆様の祈りに主はお応えくださいます。耳をそばだてて祈りを聞いてくださいます。もう無理、生きているのがつらい、もう何もしたくない。何もできない。そのような状況も覆すことさえできる。それが神の力。エステル記が私達に伝えることです。アーメン。