列王記上17章1〜16節 「奇跡により開かれる」

2015年3月1日 説教 石井和典牧師

信仰によって生きるとは

 信仰によって生きる道を求めて、私達はここに集まっています。信仰によって生きるとはなにかといえば、平たくいえば「神と共に生きる」ということです。神と共に生きるとどうなるのかといえば、思い煩いから解放されます。新約聖書の中に、イエス・キリストの言葉があります。マタイによる福音書6章31節以下。

 「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父はこれらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはくわえて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 神を信じると思い悩む必要がなくなる。なぜなら、天の父はそれら必要なものすべてをあなたに与えることを考えていてくださるからだというのです。とはいえ、それは本当なのか。今日必要なものが与えられるのか。いや不足を感じながら生きている人がいるじゃないか。欠乏の中でどうにもならなく、命を失っていく人がいるではないか。確かにそういう現実を抱えています。その満たされない現実の中で、私達が神を求めて、神を体験していく。そのことが現代の私達に与えられている神様からの一つの試練だと思います。

 この満たされない現実の中で、まことに神こそがそれを与えてくださる。神に立ち返ろう。その信仰によって生きるのかどうかを神様は見ておらえるでしょう。また、私達がキリストの体として他者の欠乏を満たす努力をし、動き出すかどうかをも見ておられるのだと思います。  

 旧約聖書の民は、この欠乏の中をどのように生きたのかというその事例として非常に有意義な参考例と言ってもよいでしょう。私達の先達としてその道筋を見せてくれています。エリヤが神によって養われたという記事は、その最たるものではないでしょうか。エリヤはカラスそれから、やもめ、寡婦によって助けられたということが書かれています。

エリヤは命を狙われていた

 エリヤというのは預言者の一人です。私達の教会の前任牧師は村上恵理也先生ですが、間違いなくこのエリヤからつけられたお名前でありましょう。エリヤの役割、そしてなぜ命が狙われているのかということは、この列王記がどのようにして書かれたのかということと関係があります。列王記というのは、反省の書物です。バビロンで捕囚状態となってしまっているイスラエルの民が、どうして私達の国は滅ぼされてしまったのか。どうして、神殿までが壊されてめちゃくちゃになってしまったのか。その原因は私達の先祖が、主なる神により頼むことをやめてしまったから。私達の信仰がいつの間にか唯一の神であるヤハウェではなくて、土着の神バアルを拝む信仰に変わってしまったから。だから、国が滅んでしまったのだ。そういう視点がこの書物の背後にはあります。その反省のもと、一体何がいけなかったのかハッキリさせて二度と同じ失敗を犯すことがないようにと記されたのが、この列王記であると捉えていただくと、この書物は読みやすくなると思います。

預言者は批判者

 神から言葉を授かった預言者というのは、ですから、いつもイスラエルの国に対する批判者として現れてきます。エリヤもそうでした。旧約聖書の中でモーセと並ぶ偉大な預言者とされていますので、その登場の仕方も非常に劇的といいますか。苦難から彼の預言者としての歩みははじめられていきます。もう既にアハブというイスラエルの王さまによって命を狙われているという前提から始まるのです。イスラエルの王様はアハブと言いましたが、イスラエルの王といいましても、もはや神さまを信じているとは言いがたいことを行っていました。そのアハブ王に関する記述が列王記16章30節以下に記されています。  

 オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。・・・シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシュラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った。  

 最も悪い王が支配するその時代に、最大の預言者と呼ばれる人が神様から遣わされてくるのです。神様はその時々に必ずふさわしい人を送り、信仰を復興させる方向に物事を進めてくださる。人間の不信仰がいかに深かったとしても、そこに手を伸ばしてくださるお方であります。

アハブの信仰

 アハブのバアル神信仰というのは、いうなればご利益信仰といいますか、とにかくバアルというのは農耕の神であり、このバアルにより頼んでいれば雨がふってその地域の食物が確保されるというものでした。人間が創りだした神々というのは、必ず人間の世界がこうあってほしいという欲望とつながっています。各分野があってその分野で人間のために動いてくれる神。その神々に対して、否を唱える存在。それが預言者であり。エリヤでありました。エリヤはアハブ王に対してこう言いました。17章1節。  

 「わたしの仕えているイスラエルの神は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露もおりず、雨も降らないであろう。」  

 バアルの神の力を無効化することができる。生きておられる神は、何をご自分でなさるのかということを変えることができる。この地域は雨に恵まれて食べ物を得ることができていた。これも神の恵みだ。しかし、これはからは生ける神が動かれて別のことをなさる。すなわちこの地域に旱魃が起こるのだということを言ったのです。  

 この地域は乾燥していて、秋冬に雨が降らなかった場合、食べ物を得ることができずに餓死する人がでる。そういう地域だったのです。ですから、雨が降らないということは人の生死に関わる恐ろしいことだったのです。その思い煩いから逃れるために、なんとか自然を思い通りにしたいという欲求からバアル神が生まれてきたのでした。その力を無効にするとエリヤが言ったものですから、王はエリヤに目をつけて、エリヤを殺そうとしたのでありましょう。エリヤはもはや表に出ていることができずに、逃げなければならなくなりました。

アハブをバアル信仰へと

 王であるアハブをバアル信仰へと導いたのは、妻のイゼベルでありましたが、この妻のイゼベルがしたことというのは卑劣きわまりないものでありました。18章の4節を見ますと。  

「イゼベルが主の預言者を切り殺したとき、」  

とありますように、預言者が何かバアル信仰に対して楯突くようなことを言った場合には斬り殺していたのだということがわかります。例外にもれず、エリヤもその対象になったに違いありません。  

 命を狙われながら、エリヤは逃れていきます。そのときに神様がおっしゃられたことはにわかに信じがたい言葉でありました。17章3節。  

 「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしの烏に命じて、そこであなたを養わせる。」  

 川の水を飲むというところまでは普通ですが、そのあと、からすがエリヤを養ってくれる。こんなこと普通はすぐに信じることなどできないと思います。しかし、エリヤは神様がおっしゃられたとおりになると信じてそこに行く。さらに驚くべき記述が17章6節。  

 「数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んできた。水はその川から飲んだ。」  

 烏が肉とパンを持ってくるなどということは起こりえません。しかし、それが起こった。神様に命じられて烏が従った。そのような烏の奇跡がここに書かれているとそのまま読んでもいいのですが。ある読み方によると、この烏というのはヘブライ語でクリビームというのですが、読み方によってはアラビームすなわちアラブ人と読むこともできるということです。ですから、アラブ人がエリヤを守ったのではないかと考える人もいます。いずれにせよ、イスラエルの国の王に追われている人。権力者に対して戦いを挑むような気概を持っている勇気ある人間をその地の人々が守ったのではないかと考えることもできます。神様はどこからでも助けを起こすことができるのです。水が枯れるまでエリヤはその地にいて、水が枯れてしまうと別の土地に移りました。

別の土地は。。。

 神は移動するときもエリヤに命じてこの土地に行きなさいと言われます。しかし神が行けと命じられた場所というのは、あまりエリヤにとって都合の良い場所ではありませんでした。17章9節。  

 「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」  

 シドンというのは、エリヤの命を狙っている王アハブの妻イゼベルの出身地です。この土地から、バアル信仰がイスラエルの王アハブのところに入ってきたと言ってもよろしいのです。ですから、いうなればエリヤにとっては敵の本陣で生活をしなければならないということを意味しました。しかも、その土地で力の無いやもめのところに世話にならなければならないという厳しい状況が神様によって準備されてしまったのでした。

厳しい現実の中で本音が出る。

 厳しい現実の中で、人間の心のうちにある本音というものが出てきますし、結局何により頼んでいくのかということがハッキリとしてきます。安全で平安な時には、そういった本音というのはどちらかといったら曖昧になるというか、どうでもよくなってしまうのかもしれません。

訪問

 私も礼拝に出席することができなくなってしまった信徒の皆さんのご自宅に訪問させていただくのですが、誰もが口をそろえて言うことは、やはり神様を求めざるを得ない現状というのが人間には与えられる。それは不足ということをもって、老いという現実の中で、自分ができることが日々少なくなっていく。体ももう思い通りに動きはしない。しかし、この時にこそ神を求めないと生きていけない。自分が元気でバリバリと働くことができていた時は、誰かのお世話になるなどという発想が出てこなかったし、神様に頼ろうなどという思いはなかった。でも、この今こそ神の前に行かなければ、厳しい現実の前にあって思い通りにならない現実があるからこそ、神を求めるのですとおっしゃられた方がいます。

現状から何ができるかではない。神が何をなさるのか。

 圧倒的不利な状況。エリヤにとってはバアル信仰の本拠地に入っていくような思い。いったいこんな場所で誰が自分のことを助けてくれるのだろうか。ブルブル震えながら小さくなって誰とも関わらないでいきていくという選択肢もあるでしょう。しかし、エリヤは思い煩わない。恐れません。やもめという社会的に弱い立場にあり、経済的に裕福ではない、そのような人からも神は神の業をおこし、私が生きる道を造ってくださる。  

 神の御業ということを考えるときに、現状分析とその延長にものごとを捉えることはできません。よく会計でこういう問題にぶつかるんですが、会計規模がこうです。だから、これしかできません。この会計規模の現状にすべてあわせて教会の活動を制限するべきであります。これは堅実で確かな意見です。そういう考え方を無視するわけにはいかないでしょう。私達の現状がどうかということと神の業は無関係ではありません。しかし、神が何をなさりたいのか。神が今何をなされるのか。そのことが現状分析よりも先でありましょう。  

 エリヤを取り囲む現状というのは、前に進めるような状態ではありません。彼を助けてくれるというやもめ。このやもめは壺に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかばかりの油しかなかったのです。  

 現状分析からすれば、これでエリヤを養うわけには全くいきません。エリヤを養ってしまえばこの家は終わりです。破綻です。家には子供もいるのですから、エリヤに分けている場合では全くありません。エリヤの相手をしている場合ではありません。エリヤなんかほっておいて働かなければ生きていけないのです。しかし、神が命じられるのは、現状分析からなる現実的なラインではなくて、神が何をなさりたいのか。ということなのです。エリヤを用いてエリヤによって真の信仰を伝える。  

 神の力に頼るということはどういうことか、神の力に頼らないとはどういうことか、この記事は私達に伝えています。

神の業=奇跡?

 神の業というのは、当然そこに奇跡が含まれてきますので、人間には受け入れがたいかもしれません。烏によって生活が支えられる、食べ物を持たないやもめによって、食べ物が与えられる。などということは奇跡以外のなにものでもありませんので、信じがたいことです。想定内のことではなくて、想定外のことです。しかし、信じがたいことが神の業によって起こされる。いや、人間は神の業がこうなるなどということは予測できない。こうなったからこうなるではないことが、考えられないことが起こる。それが神の業でありましょう。奇跡が起こるとおもっていたら、平凡な方法で、平凡さしか期待していなかったら突然奇跡がおこる。それが生ける神に従うということです。  

 こうなったらこうなるというふうに断定できるのは、まさしく偶像礼拝。人間の思い通りになる神を創りだして、それを信じているということにほかなりません。そういう自分通りになる神がほしいからバアル信仰が生まれたのです。

しかし、神が命じられたら

 神が命じられたとおりに行ってひどい目にあった。などという人はいません。神の命じられた通りしないでひどい目にあったというひとはたくさん聖書に溢れています。しかし、命じられた通り行って、神への期待、願い。そういったものが裏切られたなどという人はいません。エリヤに神の言葉を告げられてそのまま行ったやもめがどうなったか。それが17章15節に記されていることであります。  

 「やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。」

すでになっていること

 「御子を信じる人は永遠の命を得ている」(ヨハネ福音書3章36節)  

 神の約束の言葉によって信仰により永遠の命が私達のうちに入ってきてしまっているのですが、しかしその絶対的な安心、平安の中を生きている人は少ないのかもしれません。神の言葉どおり生きた寡婦やエリヤは、その時はなぜこのようなことが起こるのか、理解できないし納得できなかったかもしれませんが、信じて神の言われるように生きたのです。すると誠に恵みを体験しました。主イエスの言葉通り、信じて今日を生き始めるおときに、神の業を経験します。今日この礼拝堂をあとにするとき、その一歩から神はお守りくださり共にいてくださることを信じて歩み出したいと願います。アーメン。