列王記上18章20〜39節 「決断を迫られる」

2015年3月8日 説教 石井和典牧師

圧倒的に不利な状況へ

 太刀打ち出来ない力によって、不利な状況へと追い込まれる。こういうことが様々な場所で起こります。人の歩みはいつも何かのパワーバランスによって成り立っているという部分がある気がいたします。何かの犠牲になったり、何かを犠牲にしてしまっていたり。エリヤという預言者がいました。彼も大きな力の犠牲になった人です。アハズという王がおりましたが、この王が神の民イスラエルの王であるにもかかわらず、造り主なる主ではなく、バアルという偶像の神を拝みはじめました。そのことにエリヤは反対を述べる預言者でありましたので、迫害されました。命を狙われて荒野を旅しなければなりませんでした。

王に命を狙われる

 王に命を狙われるということは、当時の状況ではもはや命は無いと覚悟しなければならないということを意味します。しかし、驚くべきことにエリヤのことを支えてくれるやもめがいた。彼女には力がなかったけれど、神が彼らを支えました。しかもこのやもめはバアル信仰が盛んな地域に住んでいる人でありました。危機的な状況に変わりないのですが、考えられないような奇跡がつぎつぎと起こり、エリヤは辛くも命をつないでいくのでした。

 辛くも命をつなぐ状況でこそ、エリヤは神の業を目の当たりにしてききます。やもめの家には食べ物がほとんど無い状況でしたが、神の守りによって不思議と食べ物が尽きることがなかった。さらにそのエリヤは復活をも目の当たりにします。

 あるとき、世話になっていたやもめの子供が死んでしまった。やもめはエリヤを責めながらいいました。あなたがこの家に来たのは、息子を死に至らしめるためだったのですかと。しかし、エリヤが息子のために祈ると、息子が生き返った。これも信じることができないほどに大きな奇跡です。神の業が起こるときには、もうこれは信じられないというようなことさえも起こる。神に従う人には神の業を神がお見せになられるということです。

 エリヤがこの奇跡を目の当たりにしたのは、まさにエリヤの命が強大な力によって狙われ、一歩間違えばすぐにでも命を落としても不思議ではない、その崖っぷちの状況において彼は神の業を目の当たりにしたのです。

諦らめ、は無くなる

 最後の段階、もう終わりだというところで神の業が起こりうるのだということを聖書を通して知っているのですから、状況がどうあれ、諦らめというものは無くなる。神の介入を信じるしぶとさ、最後の奇跡を信じるしぶとさ。私はキリスト者はとにかくしぶといと思います。命尽き果てるその時、四面楚歌のその時、あきらめを知らないのですから。

地下に潜っている年月

 三年もの間、地下にエリヤは潜って、陽の目を見ませんでした。目立つ所に行きますとすぐに王に見つかって命を絶たれるからです。その期間は三年間だといいます。しかし、この三年の間ずっと旱魃が続いていました。自然災害ですから、その被害をすべての人が被る。食べ物に事欠き、飲水に事欠くはずだったのです。しかし、エリヤをかくまったやもめの家には食べ物がありました。神が奇跡を行い続けてくださっていたからです。不思議と小麦の入った壺は尽きることなく、油の入った瓶の油も無くなることはありませんでした。

 3年たったその時、神の言葉がエリヤにのぞみました。18章1節。

 多くの日を重ねて三年目のこと、主の言葉がエリヤに臨んだ。「行って、アハブの前に姿を現せ。わたしはこの地の面に雨を降らせる。」エリヤはアハブの前に姿を現すために出かけた。

 三年も静かにして何もせずに、1軒の家にとどまっていたエリヤ、その生活はいつしかだらだらとしたものになり、神への思いもどこかへ、などということが起こりうる年限でありますけれども、彼はそうならなかった。だから、神の声を聞くことがゆるされました。

 人間は、状況や環境に左右されるものですから、神への礼拝から身が遠のくといつのまにか神がどうでもよくなってきます。どうでも良いとまで言わなくても、神の言葉を聞くことができなくなります。なぜできなくなるのか、神が語っていないからではありません。その人が耳をすますことがなくなるからです。神の言葉というのはか細く、こちらが耳をすまして、聞こうという態度でいないと聞こえてくるものではありません。まさに、静まって黙想するというそのときが無い限り聞こえてこないのです。礼拝という場に自分の錨をおろしてそこを生活の拠り所としていないと、黙想から体は離れます。そして、いつしか、神がどうでもよくなってしまうのです。

 しかし、エリヤは3年もの間家に閉じこもっているような生活をしていながら、その心は神に向かっていたということがわかります。それは彼が神の言葉を聞いたというところから明らかです。彼は、日毎に神との関係を更新し、新しく常にしていたのです。

飽きない唯一のこと

 恥ずかしながら、私は非常に飽きっぽい性格だと思っています。釣りが趣味でありましたけれども、最近は寒くて全然行けていません。読書や映画鑑賞に励む毎日です。去年は、冬場でも休みとなれば、嬉々として釣り場でブルブル震えていました。しかし、今年はそこまでの熱がありません。あぁ、いつも通り冷めてきたなと感じてしまうものです。常に何かに感心をもっては飽きを繰り返している。しかし、ただひとつ飽きないのは、やはり神との関係です。礼拝に錨をおろして、礼拝につながっているこの生活です。これは決して飽きない。なぜかといえば、神から新しい語りかけを常にいただくからです。

 この礼拝における人間関係、交わり。これらすべてから学びを受けます。新しい発見を与えられます。どんな小さなかかわり合いであったとしても、私に神の言葉、神の示しというものが響いてくる。そういう生活になる。

 信仰生活というものだけは、マンネリということにならない。神の言葉に耳を傾けようとしている限り。どこからでも神の言葉が響いてくる。神の言葉が聞こえてこないのは聞こうとしていないからなのだと言うことができます。

苦しい状況でこそ

 苦しい状況になった時にこの信仰生活の真価が発揮されるはずです。その時にこそ、神の働きを見つけることができる。エリヤは神の声を聞きました。しかし、その神の声というのはエリヤにとって都合の良いものではありません。むしろ、こんなことしてしまったら自分の立場が危うくなる。というか、自分はこれをしたら殺されてしまうのではないかというぐらいに厳しい試練を神様はエリヤにさらに与えられます。しかし、不思議とエリヤは恐れてはいません。18章1節。

 「行って、アハブの前に姿を現せ。わたしはこの地の表に雨を降らせる。」  

神の言葉に従うと、、、

 神の言葉に従うということは、エリヤにとっては恐ろしい現実に乗り出していかなければならないということを意味しました。一歩乗り出していきますと、エリヤを見方してくれる人が現れる。神の業にその身を捧げるひとの特徴というのは、勇気があり、前に進んでいくということもさることながら、その人を支える決定的な支え手が与えられるということです。この人がいなかったら自分は何もできなかった。そこまで言わしめるような、超重要人物が神によって送られてきます。それがエリヤにとってはオパドヤという人でありました。

アハブに会わなければならないが、、、

 エリヤは神の命令によってアハブ王に会わなければなりませんでした。しかし、ただアハブと対面したのでは、すぐにでもエリヤは殺されてしまっていたでしょう。預言者を捕まえてきて殺すというのが、アハブ王のやり方でした。アハブ王が信頼している家臣でオパドヤという人がいた。この人はイスラエルの神を信じる人でありました。この人は、預言者を王に見つからないようにかくまったり、預言者に味方してくれる人でありました。エリヤはまずアハブ王に会う前にこのオパドヤと会うことができ、その衝撃緩衝材のようなオパドヤのおかげで、アハブ王と対面したとき即座に殺されてしまうということはなかったのです。オパドヤを通してアハブと、エリヤは対話することができ、それによってエリヤと偶像に仕える預言者との戦いの場面というものが準備されるということになりました。

環境や状況を恐れるが、実はそれを整えておられるのは神

 このように見てきますと、エリヤは神様がご準備してくださった状況にただ乗っているだけです。試練も神が準備され、助け手も神が準備され、エリヤが王に殺されてしまわないそのきわどい状況も神が準備されて、その結果神の導きだけによってエリヤはカルメル山で偶像に仕える預言者850人と対峙することになっていったのでした。

 さらに重要なことは、エリヤとこの偶像の預言者たちとの戦いの場面には、イスラエルの民も同席することになり、バアルにつかえていた人々が神の力を思い知ることになるそのところに皆が導かれて行ったのでした。

 神様がエリヤをアハブのもとに遣わされたのには理由があります。それは、神の民を真の神の民とするということです。エリヤに試練が与えられたのはエリヤその人のためだけではなくて、エリヤの周りの神の民を救い出すためでもありました。真の信仰に皆が帰ることができるようにと、エリヤの環境が準備されたのだということなのです。信仰へと人々を導くために、これまでのすべてが準備されてきたと言ってよろしいでしょう。

自己実現というもの

 私たちは自分の存在意義、生きている意味というものを確かに得たいと願っているのではないでしょうか。また、自己実現をしたい。自分がなにかこの世にあるというその意味を自分で付けたい。そのために何かを成し遂げたい、自己実現をしたい。これは誰もが思うことかもしれません。決して悪いことではありません。しかし、聖書を知る私達は、この自己実現ということの中に、神の業の一部とさせられて、私を通して神の業が起こるようにと願えるようにあったら、これこそ神に用いられるに違いないと思います。聖書の中の民は、そのように神の業の一部とさせていただきたいと願っていたものは、神の業に確かに巻き込まれて用いられていきました。

 神が誰かに手を伸ばす。誰かを信仰へと導く、神へと導くそのために自分が使われていく。その視点を持つことができたら、これ以上に人として幸いなことはありません。神の荷姿に神に造られたその欲求がそこでこそ満たされるからです。誰かにとって自分が神の手となるということです。自分が神の手とさせていただいたということほどに大きな喜びはありません。

目の前の状況を変えられないものは神ではない

 カルメル山でバアルとアシュラの預言者850人と全能の神の預言者1人との対決がはじまります。バアルとアシュラの預言者は目の前にある生贄に火をつけることはできませんでした。

 バアルというのはそもそも何かといえば、農耕の神と考えられていました。雨を降らしてくれる神です。夏になると旱魃の神モトという神によって殺され、秋には復活して、雷の槍でモトを殺して、その結果雷がなり雨が降るというものです。自然現象をある種擬人化して、その擬人化された神々を拝めば自然がしたがってくれるという発想です。

 それは明らかに人がつくりだしたものでありましたので、やはり力がなく、状況を変化させられませんでした。力をみせつけるにも、その力をふるう主体が無く、実態が無いので、なんの力も及ぼすことができなかった。

 しかし、イスラエルの神は違いました。生贄を水浸しにしてあえて火がつきにくい状態にしても、神の火はくだり、生贄が焼かれたのでした。状況を変化させることがおできになる主です。実際に力を及ぼすことができる。それが私達が信じる主だというのです。

 そして、民は信仰に至りました。18章39節。

 これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。

 何も反論できないほどの圧倒的な神の現臨によって人に望み、信仰に至らしめられます。

状況をご自分でおつくりなさる主

 神という方は、驚くべきお方です。ご自分を現すために環境をお作りになられますが、預言者や信仰者を導いてその環境をお作りになられてご自分を証しし、この方が神だということがわかるようになさいます。

 聖書そのものがその環境です。聖書はキリストが横たわっている飼い葉桶です。聖書を読むとキリストがわかる。しかし、不思議なことにこの聖書はAD90年頃に旧約聖書は確定されて受け継がれますが、書かれたのはもっと前BC600年前後ではないかと言わ れています。さらに書かれている内容はそれ以前のものも含む故に、アブラハムはBC2000年ごろではないかと言われていますので、この聖書の中にはおそらく2000年前後いや正確に考えていくともっとかもしれませんが、気の遠くなるほどに長い年月が投入されている。その執筆には何人の人が関わったかわかりません。しかし、それでも創世記から読んでいきますと、これらがすべてキリストに向かっているということを読み解くことができます。のぞみ教会の祈祷会でも旧約聖書を読み続けてまいりましたけれども、キリストへの眼差しというのを信仰によって感じとりながら、読み続けてまいりました。そして、現代の私たちキリスト者にとっても創世記、出エジプト記はまさに、信仰の書物、私達の信仰生活そのものが書かれているということがわかるのです。

 神様は、ご自分の心を確かにこの聖書に記して、この聖書と対話することによって私達が神様と対話することができるようにという環境を整えてくださっているということがわかります。神はご自分を表されるときに、どんなものをもお用いくださる。神はご自分でご自分を表す環境をご準備なさるのです。カルメル山で火としてその力をお示しになったように。

 ご自分を表すために、神は皆さんの環境を変えられます。絶対に起こりそうもないことが起こるかもしれない。しかし、それこそが生きておられる神が、神である証拠でありましょう。あなたを神の道具とするため、神の業を示すため、あなたによって誰かが救われるため、あなたを神の手として用いるため、環境を神が造られます。いくら悲しいことがあっても、もう泣く必要はない、それらは神がご自身を表すためにご準備された環境なのかもしれません。

 エリヤのように、神の言葉に従いたいと思います。アーメン。