列王記下2章1〜14節 「手渡し、受け継ぐ」

2015年3月15日 説教 石井和典牧師

順境の時も、逆境の時も

 人の本心というのは、逆境の時に露わにされるものでありましょう。

 神と教会、キリストと教会というのは婚姻関係になぞらえられます。本当に愛するということは、相手が良い時も、悪い時も、健やかなる時も病める時も共に励まし合い、支えあう関係です。自分にとって役に立つときだけ、ついてきて、そうでなくなると離れる、それは愛の関係ではありません。

 これが結婚関係における大きな問題でありましょうし、婚姻関係のみならず、会社、家庭、社会、教会。あらゆる人間関係が問題になる場所で問われていることでありますし、キリスト者としていつも直面する問題であろうと思います。

 すべての人に対して、婚姻関係のようになるわけにはいきません。しかし、私達は親密な関係に入るときに、いつも約束の言葉を交わします。それが書面になるにせよ、ならないにせよ。私達はお互いに約束するわけです。あなたのために生きますと。それが破綻するか、関係が深まるのか、それはお互いに信頼を捧げあうかどうかにかかっています。信頼しているということを言葉に表し、行動に表していくのです。

 その信頼の行動というのは、私はたった一言でもかまわないと思います。しかし、このたった一言を言うか言わないか。そこで鍵であろうと思います。信頼の言葉には重みがあります。

ある体験から

 信頼の言葉をありがたいことに頂いたことがあります。それは本当にたった一言でありました。「先生が書いた原稿、教会に来ていない娘に見せたんですよ」という言葉を頂いたことがあります。そのとき、私は嬉しくて涙が出そうになりました。ご自分の娘さんにおすすめにならるということは、それは良いものと理解し、またそれをご自分でも味わい、そしてご自分が一番大切にしているお子さんにお見せになりたいと願ってくださった。たった一言だったのですが、私は自分がしている苦労がすべて報われた思いがいたしました。たった一言でいい。たった一言に信頼が現れる。それを深く感謝とともに受け入れたことがあります。

 どんな仕事でも、やはりそこには思いが投入されていると思います。徹夜する日々もあるでしょう。思い悩み、心を痛めることもある。それが原因で心病み、体まで壊すということも起こる。幼稚園のお父さん友達の話を聞くと、昼も夜も無く研究しプレゼンテーションの準備をしているというようなお父さんが多いです。その苦労は、恐ろしいほどに重いものだと思います。

 しかし、その苦労はすべてたった一言の誰かの信頼の言葉で報われるはず、疲れがすべて吹き飛ぶのです。子育てをされているお母さん方だって、徹夜の日々を送ることもあります。自分を捧げて子育てに励んでいるのがよくわかります。それだって、誰かの「よくやってくれてありがとう」というたった一言で報われるのだと思います。

 こういった人間の姿はやはり神さまの似姿に造られた人間の姿ではないかと思います。たった一言でいい、心からの信頼の言葉がほしい、他には本当になにもいらない。それがあれば、これまでの苦労がすべて吹き飛ぶ。神様が私たちに求められていることは究極的にはこの信頼の言葉ひとつなのです。まず、それがこの神様との関係の基礎の基礎。それを捧げ続ける私達に神様は確実に愛をもってかかわってくださるのです。

イスラエルの王アハズヤ

 イスラエル民族の王、アハズヤという人が出てきます。イスラエル民族というのは、ヤハウェなるアブラハム、イサク、ヤコブの神を信じる民です。この民を、信仰によって導くべく神様が任命されたのがイスラエルの王です。この王はイスラエルの民をヤハウェ、唯一なる、造り主なる神への信仰へと導かなければなりません。そうしないかぎり、この民はまとまりを欠き、国としての未来が無いのです。だから、神様はこの王に対しては特に厳しい態度で望まれます。言うなれば、神との関係においてすべてをなすと約束して王となるのがイスラエルの王。しかし、その王が信仰に生きなくなってしまった場合には、そこには神様からの裁きが下るということなのです。

 例えば、この教会はキリストの教会。イエス・キリストが神として崇められるキリスト教会です。この教会の導き手である牧師が、突然こう言い出したらどうでしょうか。「いやイエスは神ではない。」

 この教会のリーダーからすぐにでも降ろされて、放逐されなければならないと思います。なぜなら、この牧師がそのようなことを言い出したらこの教会はキリストの教会ではなくなってしまうからです。牧師はどんな政治的な、社会的な立場をとってもそれはゆるされるかもしれない。しかし、キリストを神とするその信仰から離れたらもう、その牧師はその教会の牧師とは呼べないし、もしそこに自ら居座ろうとするのならば、なんとかしてその牧師をその教会から排除しなければなりません。

 いうなれば、イスラエルの王がバアルを拝みだすということは、そういうような状況であるということです。牧師がキリストを信じなくなってしまうようなものです。そのイスラエルの王には裁きがくだります。

たった一言で不信が暴露される

 イスラエルの王アハズヤが言ったたった一言、そこには神に対する信頼、信仰ではなくて、不信、二心であらわされていました。アハズヤが言ったたった一言によって神様の裁きがくだります。2節。

 「アハズヤはサマリアで屋上の部屋の欄干から落ちて病気になり、使者を送り出して、「エクロンの神バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るかどうか尋ねよ」

 唯一なる、創造主なる神ではなく、農耕の神、豊穣の神、雨を降らせる神、そのバアルに所にいってお伺いを立てよと使者に頼んだのです。困ったとき、逆境の時、そのときに人間の本音が出ると先ほども申し上げました。アハズヤは困ったわけです、病になってしまって、そしてなんとかしたいだから、バアルに聞いてみようと。

偶像とは、バアル神とは

 バアル・ゼブブという言葉が本日の箇所にはあります。先週から見てきましたけれども、あの偶像の、バアル神のことです。バアル・ゼブルというバアルに対する呼び方がありまして、これは「皇太子バアル」という意味なのですが、バアル・ゼブブとなると「ハエの王」という意味になります。ですから、この聖書記者はバアルには力がないのだということを言いたいがために、バアル・ゼブブとわざと間違えたのです。

 バアルというのは、雨を降らせる神として人によって造られました。中東の乾燥地帯は、雨が降らないと農作物が全くとれなくなりますので、雨が降るか降らないかということに命がかかっていた。だから、いつでもその雨を思い通りにできるという神がいてくれて、それが自分たちの手元にあって、像としてそこにあったらなんと便利だろうかということで、バアル神が創りだされて、偶像としてまつられていたのです。

 バアルというのは人間がつくりだした神です。人間の思考回路の中にある、欲望が表にでて、形になったものです。自然現象のことを人はよく知っていました。雨がふり、乾燥する時期があり、また雨が降って自分たちの命が保たれている。バアルという神が雨が降っている時には活躍し、旱魃になると、エトという神が雨を降らせるバアル神を倒して殺し、しかし、バアル神は復活し、再び雨が降る時期が来る。すなわち人間の目に見えているそのことに神という名をあてはめて、擬人化するようにして物事を理解しようとした。そして、その擬人化された神に祈りを捧げ、捧げ物を捧げることで、思い通りにコントロールできない自然を思い通りにコントロールできるかのように思い込んでいった。それが偶像です。

 全能の父なる神を信じるのかどうか、それはすなわち私達の思い通りにできない、私達が信頼と服従をもって従い、しかし、神は御心のままに人間を愛する決断をして行動を起こしてくださる救いの神を信じるのです。それは、私達の思い通りに自然を動かしたり、物事を動かしたり、誰かを動かしたり、何か欲望を実現するために動いてくれる神ではありません。神は神の御心のままにすべてを行われる。だから、私達はその方を信頼し、その方を讃美し、その方にお従いする。私達自身は決してその神よりも讃美されることはないし、高められることはないし、私達が神を従わせるなどということは起こりえない。

普段思っていること

 普段思って人前で口にしていることというのは、もしかしたら心の底から思っていることと違うかもしれません。しかし、いざ自分の命が危ないということになると、本音が出る。先月共に読みましたエステルという王妃がいました。彼女は自分の命とイスラエルの民の命が危ないという時に、断食して自分をコントロールして身を清めながら、神の前に祈りをささげました。彼女が普段から主を信頼していたことが命が危ないという場面で出てきました。そして、それこそが彼女の心の奥底にあった思いでありました。その思いに主なる神は確実に応えてくださり、そこで奇跡的な出来事が起こっていったのでした。

 本日出てきました、イスラエルのアハズヤという人はあのエステルと全く逆です。危機の時に、こころのそこではイスラエルの神など全く信頼していなかったことがあらわになってしまった。その心の奥底にあるものが見ぬかれてしまった。エリヤはこう王に宣告します。3節。

 「あなたたちはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして出かけているが、イスラエルには神がいないとでも言うのか。それゆえ主はこう言われる。あなたは登った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。」

 王の心は、自分の危機、すなわちこの怪我によってあらわにされ、さらにそれが原因で神に裁かれるというのです。

そして命を狙われるエリヤ

 王が死ぬなどということを王に対して言ってしまったエリヤ。もはや彼の命は無い。それだけ王の力が強い時代です。しかし、この危機においてエリヤはゆるぎません。全能の神はあらゆることを用いて自分をお守りくださる。そう確信しているエリヤは恐れない。何人もの兵隊が彼のところに来て捕らえようとしますが、神様がエリヤを守られました。天から炎がくだり、兵隊は焼かれてしまいました。エリヤは神への信頼を語り、実際に神がお守りくださることを固く信じました。神はそのエリヤに働かれました。神への信頼の言葉を口にする時、またその通りに行動するとき、空から火が降るような、人間のちからでは全く成し遂げることができないような神の業が起こる。神への信頼を告白し続けることこそが、私達の鍵なのだということがよくわかる出来事です。

しかし、エリヤを天に上げる時が

 神様という方はこちら側の思い通りにならない方。エリヤを天に迎え入れるときが来た。そのタイミングというのはエリヤのタイミングではありません。神様のタイミングです。ですから、エリヤにとってはそれは寝耳に水といったらよろしいでしょうか。アクシデンタルな出来事。しかし、人間が神のもとに召されるときなどというのは、そういうものです。自分の考えのままにものごとが進むはずがない。それが神を信じる神の道を歩むということでもあります。エリヤが神のもとに、死なずに迎え入れられるなどということは、それがなぜ起こるのか、そしてそれはどういう意味があるのか、などということは人間には告げられない。エリヤ自身にもその意味がわからない。しかし、それを神は迫られるのです。

エリヤの弟子、エリシャ

 エリヤの弟子、エリシャはその師匠であるエリヤに徹底的に従う決意をしていきます。エリシャにとってみれば、どうしてこの時、このタイミングで、しかもエリヤという大預言者をこの世から取り去られるのか。それが理解できなかったに違いありません。このイスラエルがヤハウェなる神を信じなくなっている今こそこのエリヤの存在が決定的に大事なはずなのに、このタイミングでエリヤは神のもとに行かなければならないのです。その状況を、「嵐によって」というふうに聖書は表現しています。

神の業は嵐のように

 神の霊が注がれるときに、風がふくとも表現されます。風はどこからともなくやってくる、嵐も同じです。風よりも、嵐のほうが全く人間の思い通りにならない圧倒的な力として私達の前に突如その姿を露わにします。そして、それはエリヤにとっても、エリシャにとっても必ずしも都合のよい出来事であるとは限りません。エリヤは天にあげられる、それも生きたまま神のもとに行くというのですから、まだ良いのかもしれません。

 しかし、圧倒的な預言者としての信仰と力とを持っていたエリヤという師匠を失うということは弟子のエリシャにとっては都合の良い出来事ではなかったと思います。しかし、この都合の悪い出来事を通してエリシャはまた神の前に信仰を引き出されて、神への態度が新たにされていくのです。

三度従うか問われる。

 三度エリシャはエリヤに、「ついてくるな」と言います。しかし、エリシャは神の働きがエリヤとともにあることを知っていますので、離れないといってついていく。神の業がここにありと信じたらそこから離れないでとことんついていく。

 この出来事は新約聖書のイエス様と弟子とのやりとりを連想させます。復活の主イエス・キリストがペトロに現れて、「わたしを愛しているか」と三度問われたあの姿を思い起こさせます。ペトロはその三度聞かれるなかで、さまざまなことが心に去来したに違いありません。イエス様したがうといいながらもしたがい得なかったその自分の姿と向きあわざるを得なかった。しかし、そのペトロを愛によって包み込んで、赦して、真の弟子として送り出そうとしておられるイエス様のご愛に触れたのです。

 三度問われた時、ペトロにとっては見たくない自分自身、神の愛の不徹底、そういった自分の不甲斐なさ、弱さと向き合う時でありましたけれども、それはいわば試練でありますが、その中で彼は神の愛を知り、もはや死さえも恐れないキリストの使徒として世界に出て行きました。

自分はダメだんだと気付かされる

 自分はもしかしたらダメなんじゃないか、神に対する信仰に生きることからあまりにも離れてしまったのではないか。もうキリストについていくべきではないのではないか。そういう問が与えられるとき、それは神様が特別に皆さんを招いて、使命を与えられる時です。逆境が与えられ、自分の思い通りに行かない出来事が目の前にあらわれ、そしてその問題と向き合いながら自分自身を問い直さざるを得ない。そのときこそ神のお取り扱いの時です。

 あまりにも自分が不甲斐なくて、もうこの神を信じて希望するこのことから離れるべきなのではないか。神に自分はついていくことなどできるだろうか。そういう問いかけが心の中にふつふつと湧いてくるようなとき。その時にどうか、主の招きへと目を向けてください。そこからこそ、主に従うということを願って、厚かましくも(笑)主についていっていただきたい。

信仰者というは厚かましい

 信仰者というのは、聖書を読む限り神に対してしがみついて、すがりついて、自分の罪をみとめながらも、なお祝福されるまではなれません。というようなある種の厚かましさというものを神に対してもつべきです。エリヤに三度ついてくるなと言われてて、しかし、必ず神の業があると信じたエリシャ。彼はまるで人間エリヤの言葉は無視するかのように、神にのみ従うことを考えて、しつこく神についていくことを決意しているのです。さらに最後はエリヤに向かって列王記下2章9節後半。

 「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください。」

 とまで言いました。これは、当時の社会で長男は他の兄弟の二倍の相続を受けたからこういう表現になっているのだという人がいます。しかし、エリシャに関する奇跡の伝承というのは、実は非常に多くの奇跡が記されていまして、まさに、エリヤの倍の奇跡を行ったという伝承も残っているほどなのです。だから、これは、すなわち神の前に神の恵みであふれるほどに、賜物であふれるほどに、能力であふれるほどに、私を祝福してください。そう願ってエリシャは神に願い出ていると言ってよいと思います。私達もこのエリシャに見習いたいのです。

 この箇所もそうですが、アブラハム、イサク、ヤコブ、神の前に神にすがりついて憐れんでくださいと叫ぶもの、新約聖書においてもそうです、神が恵んでくださるのならばそれをすべて受けたいと願ったものは、皆その期待以上のものを受けたと伝えられています。神様は、この祝福を心から願い、神に信頼し、信頼の言葉を口にするものたちをそのままではお返しにはならない。溢れるほどに人間が考えた以上のものさえ与えて送り出してくださる。それが私達の父である神様。イエス様が私達に教えてくださった父なる神の姿です。アーメン。