ルカによる福音書23章32〜38節 「すべてを決する祈り」

2015年3月29日 説教 石井和典牧師

命を捨てる覚悟

 主イエスの言葉にこのような言葉があります。ヨハネによる福音書15章12節です。

 わたしが、あなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

 教会に集められているものは、この主イエスの言葉に共鳴し、自分もできることならばこのように生きたいと願っているものであろうと思います。実行できるかどうかはその場面にならない限りわりません。しかし、主がおっしゃられたことを「志す」ということでは一致している。この覚悟によって教会が世界に影響力をもつのだと信じております。主イエスの言葉を実際に行う。命をかけて、この人生をかけて。できなかったとしても、あきらめずに追いかけ続ける。そういう共同体であれば、誰かが私たちと歩みを共にしてくださるはずです。

しかし、誰もこちらを向いてくれなくても

 誰かが歩みを共にしてくださるはずですといいました。が、しかし、もしも「友のために命を捨てる」ということに誰も共鳴してくれなくても、それでも主の言葉だからと実行し続けようとするのが、真のキリスト者でありましょう。誰一人教会に関心がなくなってしまっても、それでも、1人でもこのキリストの言葉から世界を建て上げていこうとする人。その人を主は求めておられます。

世界をかえる、主イエスの言葉

 主イエスの言葉は世界を変えます。ご自分を犠牲にされるその言葉。命を注ぎだされる言葉。人々に寄り添う言葉。嘲られて蔑まれても変わらない愛のことば。この主イエスが発してくださった言葉が世界を変える。

 私自身もこの言葉によって人生の方向が変えられて、いまもお取り扱いを受けながら歩ませていただいている。主イエスの言葉。その決定的な言葉はルカによる福音書23章34節の御言葉です。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 体から血が流れ、手足に釘を打たれ、貫通し、痛みにより麻痺しもはや自分の体が自分の体ではないような状態にまで傷めつけられていく。意識を失いかけている。そんな状況でありましょう。しかし、その中でも主イエスはご自分の痛みや苦しみではなくて、目の前にいる人々のことを心配しておられたのです。この姿に、私は神を見ました。この方こそ神であると。この方こそ神であると信じつづけてきたのが教会です。本当に大切なのはこの一点であると言い切っても良い。

 教会が引き継いできた神学の中に「三位一体論」というものがありますが、これは教会の根幹の根幹とも言うべき神学でありますけれども、この三位一体論で大事なのはキリストが神であり人であるということです。この世を歩まれて、この地上を歩まれて、私達にふれられたあの方が神であったのだということです。このこと一点を信じるがゆえに、このキリストの教会は成り立っているのです。キリストを神としなくなったら、もう教会ではなくなります。

岡町にあるこの教会

 大阪、豊中、岡町にある教会がここにある意味は、この聖書の中に記されているこのキリストが、私たちの神さまなんだということを伝えるというただその一点であると言って良いのです。それが伝わればそれでいいのです。神であられるあのお方が人のために命を捨てる。それゆえ、私達もキリストにしたがって友のために命を捨てるのだと。

「父よ、彼らをお赦しください」を生きる

 実はルカによる福音書23章34節には〔 〕がつけられているのが、聖書を見ていますとわかると思います。これには意味があります。この言葉はもともとのルカ福音書には書かれていなかったけれども、あとで書き加えられたのであると考えることができる部分だということが言われている箇所なのです。たしかに、歴史的に見たらそうなのでしょう。あとから書き加えられたということがあるでしょう。

 それゆえ、イエス様がその十字架の場面においておっしゃられたのかどうかわからないという人がいる。この言葉は無かった。後の教会の創作であると捉える人もいます。しかし、私はそのようには思えません。それはなぜかというと、このイエス様が十字架で叫ばれたこの内容と同じ言葉を、キリストの弟子であるステファノが使徒言行録において、同じように叫んでいるからです。使徒言行録7章60節。ステファノが処刑されてしまう場面です。

 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまづいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って眠りについた。

ステファノはイエス様の後を追いかけていた

 ステファノは、イエス様に自分自身が赦されて、あの十字架こそが自分のためであったこと。キリストを裏切り、十字架にかけ、しかし、神への裏切りをしながらも神は私を救うことをご決断くあさった。私のために祈り、私の救いを求めてくださっていた。

 あの十字架の姿が心に刻まれているからこそ、自分が命尽き果てるそのときに、キリストの言葉「主よ、この罪を彼らに負わせないでくださ」と大声で叫ぶことができたのです。これはまさに、見えない主の霊がステファノに宿り、ステファノはキリストの言葉を死の間際に語ったとも言うことができる。キリストを彼は生きていたのです。「父よ、彼らをお赦しください。」と民のために叫ぶ存在こそ真のキリスト者です。

真の信仰者と、そうではないもの

 イエス・キリストと、イエスを十字架にかけろと叫んだもの。これは大前提でありますが、両方とも神を信じ神に従っていると思っていました。しかし、イエス様を十字架にかけたものたちは、神様のことがわかっていなかったし、真の信仰者ではなかった。神を信じるという時に、真の信仰か、そうでないかで大きな隔たりが出てくるのだということをこの十字架の場面をみるとわかります。

 イエス様を十字架にかけていったのは、いわゆる最高法院であります。最高法院が地方総督ピラトのもとに処刑するようにと申し出ていった。ピラトは群衆の暴動を恐れてキリストを十字架にかけてしまうわけです。もともとイエス様を十字架にかけようと叫びだしたのは、律法学者とファリサイ派と呼ばれる人々でありました。というのも、イエス様が名指しで批判していたのは、このイエス様と同じ神様を信じる律法学者とファリサイ派でありました。

イエス様がどのように律法学者とファリサイ派を批判したのか。

 ルカ福音書を見ていきますと、イエス様が神を信じる律法学者、ファリサイ派をどのように批判したのかということがわかります。ルカ福音書20章45節です。

 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。

 イエス様が批判しておられる、イエス様を十字架にかけていった律法学者はどんな人だったのかということが書かれています。律法学者というのは律法の学者、聖書の学者でありますから、聖書に関する知識はありましたし、人を教えることができた。雄弁でもあったでありましょう。皆がだまってその声に耳を傾けるような、尊敬の対象となる人でありました。だから、広場で皆から挨拶をされることも多かったし、会堂では前に座ってください、宴会においては上座に座らされてまるで主役のようにいつも扱われることが多かったのです。

 そういった民からチヤホヤされて自分が高められるということを望み、自分が利益を得ること、利益を得るために弱いものから搾取することさえいとわないような、心を失ってしまっているもの、それがイエス様の時代の律法学者だったのだということです。相手の幸いを願うのではなくて、自分がどれだけ重んじられて、どれだけ利益を受けることができるか、そのために誰かを食い物にすることを厭わない。そんな知識人をイエス様は敵にして真っ向から批判の対象としていきました。

ファリサイ派は

 今、律法学者に関する記述をみましたので、今度はファリサイ派の人に対してイエス様がどのような思いをもっていたのかということを見たいと思います。まず、ファリサイ派というのはどんな人かといいますと、ファリサイというのは、「分離したもの」という意味で、自分たちは聖書の律法を守らないやつらとは分離したもの、違うんだという発想をもって、律法を守らないものを蔑んでいた。そういう人たちです。その人達に対するイエス様の言葉ですがそれがルカ福音書18章9節に記されています。

 自分はただしい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。1人はファリサイ派の人で、もう1人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のようなものでもないことを感謝します。(徴税人はローマ帝国の犬、暴利をむさぼるものというユダヤ人の中での理解があった)わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる。」

律法学者とファリサイ派に共通することは

 結局このイエス様が敵として批判された律法学者とファリサイ派に共通するのはなにかといえば、自分が高められるために誰かをダシにするというか、犠牲にしてそれでも構わないと思っているという点です。

 自分が清く見られるためならば、誰かの過失やいたらなささえ指摘して利用して、自分を高めようとさえする。自分がものごとの中心になることを求めて、普段はいっぱしの宗教理論を語っているかもしれない、先生と呼ばれているかもしれない、尊敬をだれかから受けているかもしれない。しかし、苦しんでいる人のことなど全く意に介さず、自分が宴会の中心にいることばかりを願っている。

 イエス様は全く逆の歩みをされた方です。愛する民のためであるのならば、自分が滅びてもかまわない。苦しんでいるものの心によりそい、その心にこそ共感し、励まし、慰め、そのもののために命を捨ててしまうのです。

イエス様は恥ずかしいおすがたに、、、

 イエス様が十字架にかけられた姿というのは、無残なお姿です。「ユダヤ人の王」と頭の上に掲げられて、茨の冠をかぶらされました。王ではないのに王であることを自称した人なのだという蔑みの表現です。

 それから、十字架にかけられたのは三人でありました。イエス様とそのほか両サイドに重大犯罪人。これは、悪玉の王がまるでその悪い家臣を引き連れているかのような光景です。

 これもやはりイエス様を馬鹿にするためにこういうシチュエーションをつくりだしたのです。悪の大王なんだろう、王なら王らしく堂々とせいよ。いったいどれだけ悪事を行ったんだ。もし本当に力ある神ならば、そこから降りてこい。という群衆の声が聞こえてくるようです。その中で、王と罵られているそのイエス様は震えるようにしながら血をながし、痛みに耐えておられるのです。侮辱の極みですから、怒り、呪い、いろんな感情が去来してもおかしくありません。

 しかし、それでも何もなされない。そんな一見弱々しいイエス様の姿をみて皆がさらに馬鹿にしながら言います。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

 悪意という刃をむき出しにしながら、切りかかってくるもに対して、イエス様はおっしゃられるのです。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかしらないのです。」  と。

キリストの祈りがすべてを決する

 私はこのキリストの祈りがすべてを決すると信じております。この祈りを心に抱いて、この祈りを聴き続け、徹底的に民の側に立ってくださって、命さえも投げ出すことができたイエス様。このイエス様の祈りに生きること。このことを志すことこそ、人生のすべてだと私は思っております。

 私を守るために、神の側に勝ち取るために、新しい命を与えるために、すべて私達のまことの命、幸いのみを願って祈ってくださった。その民のために命を捨てるこの姿に従って参りたいのです。受難週です。主の十字架を目指して歩みましょう。アーメン。