マタイによる福音書 28章16〜20節 「生きなおす」

永遠の命に生きる

 月曜日に島村禮子姉妹が天に召されまして、ご葬儀を行いました。姉妹の証を読みますと、姉妹がよくキリストに依り頼んでおられたこと、キリストを知り、キリストに知られていたということがわかります。ヨハネ福音書17章3節に次のように書かれています。キリストのお言葉です。

 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

 島村姉妹は永遠の命に生かされておりましたので、やがて来るべき時にお会いすることになる。キリストを知るということイコール、永遠の命を得るということです。

教会の世界観

 教会の世界観というのは、「命は肉体が消え去ってしまったら終わり」というものではありません。今申し上げましたように、続きがあるのです。世界は終わる。この世界が新しい天と地になる時がくる。

 しかし、この世界が終わったとしても、この命に終わりはない。それが、神を、キリストを知り、永遠の命に生きる、この神の民として歩むという世界です。

永遠の命に生きる世界観

 永遠の命に生きる世界観は、まず、この私の主観、私が私であることに終わりは無いというものです。大きな視点で物事を見るようになりますから。小さな視点から解き放たれていきます。

 より大きな視点と大きな時間軸、それから空間的にも大きな、天と地という広大なものを見るようになります。ある方は生と死がつながっている。今生きている状態と死というのは、神様の支配のもとで変わりないのだから、死ぬのは全く怖くはないとまで言うほどです。大きなこの神様のご支配というものを見ればみるほどに、自分個人へのこだわりというのは少なくなるでしょう。

 信仰によって目が開かれるという表現をよく教会は使いますが、それはまさに大きな視点でものごとを見ることができるようになるということを意味します。大きな視点で物事を見れるようになるということは、永遠の命に生き始めたのだということの証でもあります。

終わらない命を生きるということ

 終わらない命を生きるということが、何を意味するのか。終わらないのならば、そしてそれらをすべて神がご覧になられて、すべてを裁かれるのならば、適当なことはできないなという発想になる。私などは適当な性格ですが、それでも適当なことはしてはまずいなという思いになるわけです。

 誰に喜んでいただけなくても、神様にだけは喜んでいただきたい。神様の思いに沿う歩みをしたい。そう思うことによって心に神を受け入れることによって、永遠の命を受け入れることのよって、心の中に規範ができあがる。法ができる。心の板に、神の見えない聖霊の力によって律法が、法が記されていくのです。

信仰に生きるとは認識を変化させられるということ

 私は信仰生活を2002年あたりからはじめさせていただいて、もう既に13年ほど経過しますが、この生活の中で思うことがあります。

 「信仰とは、常に認識が変化させられ続けること」だということです。悔い改めというのはまさに、そのことを意味します。キリスト者は毎週悔い改めの祈りをしますが、この悔い改めの祈りというのは、自己憐憫に浸って自分のダメさ加減を味わう祈りではありません。考えを変える祈りです。常に180度考えが変えられる。

 復活のイエスに出会ってはじめのキリストの弟子たちの思いはぐるぐる周りました。まったく予想もしていなかったことが次々と起こり、その出来事によって思いが変化させられていったのです。まず、「イエス様が生きていた」ということが彼らにとって驚くべきことでありました。

 イエス様は確実に死んだのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と十字架上で言われて息を引き取られた。日本語で言えば、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。神様に見捨てられてしまって、確実にあのイエス様がそのように口にされて、そして頭を垂れて息を引き取られた。ボロボロに傷つけられたイエス様が、あの姿から再び生き始めるなどということはどう考えてもありえない。しかし、そのありえない奇跡が目の前で起こるそれが、信仰生活。そして、それを目の当たりにした人は、認識が180度変えられていく。

神様の出来事が起こって

 神様が介入された出来事、この復活の出来事。キリストの墓に行ってみると、墓が空っぽだった、石がころがされ、石の上に天使が座った。その光景を見て、番兵たちは死人のようになった。神様が起こしてくださった出来事によって影響を受けて、人々はそれぞれがリアクションをして、考えを変えられながら、神様の業の中に巻き込まれて行きました。神の奇跡に圧倒されてしまった。しかし、そうではない人、すなわち神の業の前に、冷静に、神の業に巻き込まれていかない人たちもいました。

祭司長たちとファリサイ派

 それらは祭司長たちとファリサイ派と呼ばれる人々でありました。彼らは聖書の知識を豊富に持っていました。聖書を知らないような人間たちと自分とは違うと考える人々です。自分の認識こそが、ほかの人と比べて正しい、自分たちこそが物事を判断できると考えていた。聖書をよく知っているだけじゃなくて、ちゃんと実践して生きている。

 だから、この聖書を知っている自分が考えているこの知性をもってして物事を判断できる。聖なる人間も判別できるし、俗なる人間も峻別できる。私が考えうることで物事は判断できるのだ。

 キリスト復活の知らせを聞いて、彼らはいつものように、その出来事を判断しました。さらに、それだけではなくて、事実を捻じ曲げました。人間の認識できる事柄に、わかりやすく彼らは書き換えました。それがマタイ福音書28章13節の言葉です。

 『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』

 そう言えと、キリストの墓を守っていた兵士たちに命じました。墓が空っぽになった理由として、確かにこちらのほうが納得のいく説明でしょう。だれにでも説明できるし、誰にでも信じてもらえる内容です。

 番兵たちは天使が現れたことを見て、影響を受けましたが、後に冷静に考えなおして、やはりこちらのほうが納得行くと自分に言い聞かせたのでしょうか。それとも、ファリサイ派と祭司長がお金を積んだものですから、その金によって良心がやられてしまったのでしょうか。とにかく、事実をねじ曲げて、復活の出来事をもみ消してしまいます。

するとイエス様がおはようと

 イエス様は現れて、墓に来た婦人たちに「おはよう」とおっしゃいました。死んだと思っていた人があらわれて、「おはよう」などといったら腰を抜かしますよね。神様がなさることというのはいつもそういう腰を抜かすような出来事なわけです。

 だから、はじめは理性によって受け入れることは難しい、受け入れられないのは当たり前なのです。信仰によって、神への信頼によって、キリストへの信頼によって受け入れるものなのです。あれは一体なんだったんだろうか、どういう意味なのだろうか、本当なのだろうか、何十回とそれを思いめぐらす。まさに、それを文章にして、書き残さないと気がすまない出来事として立ち現れるのです。すぐに判断できない、圧倒されるのです。

 ある修道士の言葉にこんな言葉があります。

 神について作り上げたイメージが本物かどうか疑ってかかりなさい。そのほうが、単に(神を)拝するよりも、もっと神に喜ばれる。

 神様というのはこういう方ですよね、ドーンと言い放って悦に入るようなことなどできない。究極的に言えば、私たちが神様のことをこうだなどと言い切ることはできないのですから。神の出来事によって打ちのめされて、私達が変えられるのです。神の出来事を自信満々に語ることなどはじめはできないのです。そういうことをする人は祭司長やファリサイ派のように事実を捻じ曲げる人です。

弟子たちは、、、

 弟子たちはこの時は、自分の認識によって物事を判断しませんでした。それはなぜかといえば、彼らは徹底的に打ちのめされて、自信を喪失していたからです。

 祭司長とファリサイ派の人たちは、自分たちの正義があり、自信マンマンでありました。だから、すぐに判断をくだすことができた。しかし、弟子たちは違います。キリストを裏切り、キリストを知らないと言い。キリストに死んでも従うといっていた自分は偽りであると知ったからです。信頼できると思っていて己の意思の力は全く偽りであったことが証明されてしまった。完全に打ちのめされていた。

イエス様が示してくださっていた

 イエス様が生前、お教えくださっていた再会の場所。その場所に復活の知らせを受けて弟子たちは行くわけです。こころからイエス様の復活を信じていたんでしょうか。あやういのではないかと思います。17節には、「疑うものもいた」というふうに記されています。

 さらに、イエス様が近づいてきてくださったと書かれているので、イエス様のお姿が見えても、遠くはなれていたということです。イエス様に近づくことができなかった。あそこまでの裏切りをしておいて、まさか赦して受け入れてもらえるとは思えない。本当に復活したのか、復活したとしても私のところに本当にお越しくださるのだろうか。色々な思いが去来するなかで、キリストが近くに近寄ってくださるというその事実の前に、ただただ恐れ、おののき、打ちのめされるしかなかったでありましょう。いったこの出来事はなんなのだろうか。もはや自分の信念も、自分の心も、何も信頼できなくなり、しかし、目の前で神の業が起こり、この神の業に巻き込まれていく。

イエス様がちかづく

 弟子たちというのは、「自分の方からイエス様を断ち切った人々」であるともいうことができます。イエス様を売り、イエス様を知らないと言い、イエス様が十字架にかけられていく時も傍観者を決め込んだのですから。

 自分からイエス様を断ち切ったのですから、もう自分からは行くことはできません。しかし、そんな弟子たちにイエス様は、イエス様の方から近づいてきてくださった。18節にはハッキリと、「イエスは、近寄って」と書かれているのです。

裏切ったものへの、イエス様の接近

 裏切ったものへのイエス様の側からの接近。このことが書かれていることが、私たち皆の救いではないでしょうか。私たちはこの復活を記念する日曜日の礼拝に、何があっても帰ってくることができる。自分がどう思おうが、弟子たちは自分たちはもう神様に受け入れていただけないと思っていたはず、しかし、イエス様が接近してくださる。

 私たちがどれだけ自分のことを邪悪だと思っていたとしても、ダメだと思っていたとしても、イエス様が近づいてくださり、言葉をお掛けくださるのです。だから、日曜日、復活を祝う礼拝に帰ってくることができるのです。どんなに人からマイナスの言葉を浴びせられても、それでも教会には帰ってくることができます。誰も近づかなくても、キリストだけは近づいてくださる。

使命を与えられる

 イエス様は、自らの至らなさを認めてひれ伏すものに、礼拝するものに使命を与えられます。それがマタイ福音書のしめくくりの言葉。

 わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 これがマタイ福音書の結論の言葉であり、イエス様の最後の言葉。この言葉の中には3つの命令が記されています。

一つ目の命令

 一つ目は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」という命令です。弟子にする、とは単に信徒を増やすということではありません。イエス様と向き合い、イエス様と共に生きるものとする。CSルイスという「ナルニア国物語」を書いた神学者は、こんな言葉を残しています。

 教会は人々をキリストの内に引き入れ、彼らを小さいキリストとすること以外のどんな目的のためにも存在しない。もしこのことをやっていないなら、すべての聖堂、牧師、伝道、説教、聖書そのものさえも、単なる時間の浪費に過ぎない。

 感動するような説教をし、人を引きつけ、心あたたまる空間をここにつくり、人々にくつろいでいただき安心していただく。それは悪いことではありません。良いことです。しかし、小さなキリストを、この世界のために命を捨てる人を、献身する人を生み出していなかったら単なる時間の浪費だということです。

 イエス様ご本人が言われました。マタイ福音書16章24節。

 わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 自分を捨てなければ、主に従っていることになりません。自分の十字架を背負わなければ、自分の十字架というのはそれぞれに与えられる重荷ですが、それを勇気をもって背負っていなければ、主に従っていることにはなりません。

二つ目の命令

 二つ目の命令は、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいという命令です。洗礼を受けて、会衆にも認められて、信仰を言い表して、新しく生まれるという思いと決意のもとに責任をもって歩んでいく。試練がやってきて自分自身を見失いそうになるときに、洗礼を神から授けられているということが大きな支えとなります。宗教改革者のマルティン・ルターは迫害にあった時に、「わたしは洗礼を受けている」と自分に言い聞かせながら、歩んだということが伝えられています。命の危機にあるときにこそ洗礼を受けているということが大きな支えになります。危機の時にこそ、その信仰の命が発揮されてキリストの命が花咲いていくのです。

三つ目の命令

 三つ目の命令は「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という命令です。この聖書に記されていることを生涯をかけて学び、実践し続ける。洗礼を与えられた時がスタートです。そこからこの聖書を読み、祈り、実践するという生活がはじめられていきます。それはこの肉体の生命が尽き果てるその時まで続けられるものです。

命令を与えた後

 命令をお与えになられた後、主イエスはおっしゃられました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 イエス様のお誕生の時もこのような言葉が記されました。マタイ福音書1章23節。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 神が、キリストが、私たちと共におられる。そのためにこそ、これら福音書に言葉が記された。あなたと共にいてくださるためにこそ、キリストは十字架にかけられた。あなたと共にいてくださるためにこそ、キリストは復活させられた。あなたと共に永遠にご一緒くださるためにこそ、あなたに永遠の命が与えられた。あなたと共にいてくださるためにこそ、今日というイースターがある。それを受け入れて生きることが、新しく生きるということです。復活の命を生きるということです。アーメン。