マタイによる福音書 3章1〜12節 「真逆に考えを変える」

神の前で脱ぎ捨てる

 プライドもメンツも脱ぎ捨てることができる。神の前に跪く人間の特権です。神の前に礼拝しつつ歩むということは、こだわりを一つ一つおろし、虚飾を脱ぎ捨てながら歩む歩みとなります。

 持っているものをおろしてと言っても、持っているものの中で特に立場というものを守りたいと思うのが人間かもしれません。今ある立場、これによって自分の生活が支えられていると思う。確かにその通りなところもあるでしょう。大阪、豊中、岡町に今自分がいる。この自分が得たもの。今自分がいるところ、ここだからこそ、飯にありつける。そういう現実があるかもしれません。

 しかし、信仰者はそれにしがみつくことをやめた人たちであるとも言えると思います。自分が得た立場や利得、利権が自分を守ってくれるのではない。神様ご本人が私を守ってくださっている。その生活を始めるのが信仰に生きるということであります。

洗礼者ヨハネ

 本日共に読んでおります箇所には洗礼者ヨハネという人が出てきます。洗礼者ヨハネはイエス様の道備えをした人とよく説明されます。イエス様が言われたことと重なることを言いながら活動した人です。イエス様はこの洗礼者ヨハネが土壌を耕したその後に公にお働きになった方です。ですから、この洗礼者ヨハネは非常に重要なキーパーソンです。

 洗礼者ヨハネは、痛切に世を批判しました。信仰者が、神に純粋に依り頼むのではなくて、「既に自分が得ている何ものか」を頼りにして生きているということを厳しい言葉で指摘しました。

蝮の子らよ!

 洗礼者ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人に向かって「蝮の子らよ!」とはっきり言いました。これは、恐ろしい言葉です。蝮の子らというのは、私たちにしてみれば、蝮の子だからなんか悪さをするやんちゃな人のことを言っているのかなぐらいにしか思わないかもしれません。しかし、聖書を土台として生きて来た人にとっては、これは最大限の侮辱にあたる言葉です。蝮というのは、あのアダムとエヴァをエデンの園から追放する原因となったあの蛇のことです。それは、いわゆるサタンとも呼ばれる、悪魔とも呼ばれるものの子供ということです。サタンの子供よ!。こんな事を言われたら普通怒ります。そういうきつい言葉を洗礼者ヨハネはあえてファリサイ派やサドカイ派の人に向かって投げつけたのです。

どうしてそこまで言わなければならなかったか

 それでは、どうして洗礼者ヨハネはそこまで強い、ある意味、毒の強い言葉を使わなければならなかったのでしょうか。洗礼者ヨハネが批判の対象としたファリサイ派やサドカイ派の問題点というのは何だったのでしょうか。

 ファリサイ派というのは、聖書に精通し、聖書を守り、そして、その結果聖書の言葉を守らないものを蔑んでいた知識人です。サドカイ派はエルサレム神殿に祭司として仕える上流階級の人々です。彼らには強烈なアイデンティティがありました。それは、自分たちこそ神に受け入れられているというアイデンティティです。そして、受け入れられていないと判断されうる人を蔑む目で見ていたのです。聖書を守っていることを誇りとしていた。自分はあんな連中とは違う。私たちは優れている。そんな自負心を持っていました。

 しかし、そんな人々に対してこそ、神は実は怒りを覚えておられるのだということを洗礼者ヨハネは真っ向から叩きつけるのです。7節。

 蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。

信仰を持つと言ってしまうが、持てない。与えられる。

 洗礼者ヨハネが、指摘したファリサイ派やサドカイ派の問題点は、悔い改めにふさわしい実を結んでいないということです。悔い改めというのは、自分の罪を認めて、神様に立ち返るということです。罪というのは、私たちが普段犯す、一つ一つの行動における罪のみではありません。それを悔い改めるということも大事です。しかし、私たちが悔い改めるべきは、神の前に自分が徹底的に偽り者であるということ、神を裏切り続けているということ。それゆえ、神の前に立つこともできないものであるのだと心から認めていく。それが悔い改めの実を結ぶということです。

 それは言い換えるならば、「自分の側に神に近づける根拠など無い」ということを認めるということです。しかし、ファリサイ派やサドカイ派は自分の中に神に近づける根拠がある。自分が持っているものでなんとかなる。「我々の父はアブラハム」なのだから、血筋も正しいものであるし、信仰も正しいものである。聖書を守り、聖書によって生きている。と自負していたのです。すでに持っているものでなんとかなる。それが悔い改めという心から真っ向から対立する思いであることを洗礼者ヨハネは指摘しているのです。

洗礼者ヨハネの生活

 洗礼者ヨハネは「神に近づける根拠など人間の側に何も無い」ということを、そのまま生活で表現しました。「何ももっていない」ということを地で行く人でありました。本当に持たない。らくだの毛衣を着て、いなごと野蜜を食べていました。

 こういうふうになれと皆様に言っているのではありません。洗礼者ヨハネが言わんとしていたことをしっかりと受け止める必要があります。

 「神の前に実は、人間は何も持っていないのだ。」神に近づける根拠も何も持っていないのだ。神が、信仰も、信仰生活も、聖書も、聖書を読む生活も、それらすべてを授けてくださる。だから、それらを利用して、自分が誰かより優れているとかそんなことを思ってはならない。そういう思いを持っていることこそに神は怒りを覚えておられる。自分と誰かを比較して、それで自分が誰かよりも少しでもましだなどということを確認して胸をなでおろすことは、まさに神を見ていないという証拠である。

ファリサイ派やサドカイ派以外にも

 実はマタイ福音書はファリサイ派やサドカイ派のみならず、本日読んでいます3章の前にも人間の問題点について伝えています。それは2章にかかれております。ヘロデ王の事です。ヘロデ王は、ファリサイ派やサドカイ派よりも、もっとわかりやすく自分の立場やすでにあるもの、利権。王としての立場を守ろうとした人です。ガッツリと自分が持っているものにしがみついていた人です。すでに持っているものでなんとかしようとした人です。

 実は、このヘロデ王は自分の立場を守るために、自分の身内さえ処刑した人であったと言われています。十人の妻がいましたが、謀反を企んでいるのではないかという噂が流れると、自分の息子も妻も片っ端から処刑していった人です。そして、最後は絶望し自ら命を絶ったと伝えれています。自分が持っているものにしがみついたものの末路です。

東方の博士

 それに対して、東方の博士たち、イエス様がお生まれになったのを見つけたあの博士たちは全く違った歩みをしました。彼らはイエス様の前にすべてを捨て去った人たちです。

 彼らは博士と聖書には記されておりますが、その博士と翻訳された言葉は実は、ギリシャ後でマゴスというもので。これは、魔術師とも訳せるのです。実際には天文学者のような人ではなかったかと言われています。

 しかし、このマゴスという言葉、魔術師とも訳せる言葉。これはユダヤ人が心底嫌っていたいかがわしい、信仰から真逆のところにいる人のことをさす言葉でもあるのです。自分達があの唯一の神を信じる人々からは嫌われる存在であると知っていたはずです。

 しかし、彼らは、自分が持っていたその天文学者としての立場、社会的にどうみられるのか、嫌われているのではないかという意識さえも捨て去りました。キリストにお会いしたい一心で。神の子にお会いしたい一心で。自分を脱ぎ捨てイエス様のところに来たのです。さらにイエス様の前に、黄金、乳香、没薬を持ってきた。これらは非常に高価なものであり、おいそれと人に譲渡するものではない。命を注ぎだし、頼りにしていたものを脱ぎ捨てて、イエス様の前にひれ伏したのです。

神の前に自分の考えを一度捨てる

 そもそも、イエス様を見つけた存在としてマゴスを書き記し、マタイ福音書を書くという事自体、いわゆるファリサイ派やサドカイ派のような人の発想を持った人にとっては避けたいことであったでしょう。こういう正しい人が選ばれて、正しい人がイエス様を発見すべきだ。そういう人に神様は語りかけるはずだ。そう思い込むのが人間の発想です。

 しかし、神様はそれを裏切られます。こういう人のところには神は現れないだろう、救い主は来ないだろう、そう人間が考えてしまう人のところに救いは訪れるのです。だから、もう既に神の前に自分の考え、思い込みを捨てた人が書いた書物。それがマタイ福音書です。

 マタイは生粋のユダヤ人でありました。この三人の博士が、魔術師と呼ばれるような人が、イエス様を見つけるなどということは、ユダヤ人にとっては受け入れがたきことだということを十分知っていた人でありましょう。この事実をあえて伏せるということもできたはずです。しかし、マタイは神の前にひざまづいていました。自分を捨ててこの書物を書きました。悔い改めてこの書物を書いたのです。

洗礼者ヨハネの基準

 洗礼者ヨハネが伝えたこの信仰の基準。徹底的に自分は神の前で何も持っていないのだ、捨てるのだ。考えを変えるのだ。というこの真の信仰の基準。ここに到達するのことが本当に自分はできるのだろうか。と不安になります。

 洗礼者ヨハネが言った「実を結ぶ」という次元に自分は達することができるのだろうか。非常に難しいのではないか。果たして自分にそんな、自分が持っているものをどんどん脱ぎ捨てて、持っているものに頼らないということができるのだろうか。自分の血筋や家族、既にある仕事や環境。そういったものに頼らないということは果たして可能であろうか。

良い実を結ばない木

 3章10節を読みますと。

 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

 自分は良い実を結ばない木ではないか。神に頼る、神に信頼すると言いながら、別のものを頼りとする。そういうことが日常茶飯事な罪深い自分がいる。その木は切り倒されて火に投げ込まれる。神の怒りがそこに下る。

 しかし、切り倒されて火に私たちが投げ込まれることはありません。なぜなら、身代わりとなってくださったのがイエス様だからです。十字架というものは、キリストが、私たちの代わりに火に焼かれたということを意味するものです。神にキリストが裁かれた出来事、それが十字架です。

 私たちよりも前に、私たちのために捨てられた、命さえ捨てられた方が、私たちと共にいてくださるのです。その方に信頼して歩めば良い。今日皆様のそばにイエス様がいてくださる。その自らを捨てられた私たちの信仰の祖である方に依り頼めばよいのです。もはや自分ができるかできないか。そのような事で悩む必要など全くない。命を捨てられたその方に依り頼むのです。その方は聖なる霊として見ない形で皆様の内におられます。静かに心をその方にむける、すると私たちに救いを賜るその方が皆様をお導きになられます。アーメン。