マタイによる福音書 3章13-17節 「新しく生まれる洗礼」

教会において大事なこと

 私たちプロテスタント教会が大事にしているものは、礼拝です。礼拝の中心はなにかといえば、説教と聖礼典です。説教において、神の言葉が語られて、それを聞くということ。それから、見える神の言葉である、聖餐式と洗礼を、見える形で体験的に経験するということです。これが私たちの教会の中心です。

 本日は特に洗礼ということに注目をしながらお話をさせていただきたいと思います。洗礼と言いますと皆様は何を思いますでしょうか。洗礼式においては水が用いられます。この水ということをまず頭においてください。

洗礼に込められている意味

 洗礼には、実は水から思い出されることのすべてが込められています。

 水から想像されることは、洗って綺麗になるとか、さっぱりとすべてが新しくなるとか、水をのむことによって命が与えられるということが考えられると思います。しかし、新約聖書で洗礼について意識されていることの最も大事なことの一つは「死」ということです。「新しく生まれる洗礼」という説教題なのですが、本日は、この死ということに注目しながら、新しく生まれるというところまでお話をさせていただきたいと思っております。実際に水による事故によって死ぬという人はたくさんいるし、人間の体で水が入ってはいけないところに水が入ると人間は死んでしまいます。

死を見据える洗礼

 洗礼は新しい命を見つめると同時に死を見つめます。古い自分に対して死ぬということです。しかも、リアルに体験的に、キリストへの信仰を告白して、自らに死ぬのだということを意識しつつ水を頭からかけられる。または、水に沈められるのです。その時、まことに自らの死を意識するものは、そこで生まれ変わるのです。

 死を経なければ生まれ変わりはありません。自分に死ぬということを経験していなければ、キリスト教というのはなんと無力かと言わざるを得ないかもしれない。

 キリスト者は全員、あの洗礼式において死んでいる、キリストにおいて死んでいる。そして、今生きているのはキリストのために生かされている。このことを知って、実際に生きているのが真のキリスト者です。そこには全く違った生き方への召しが待っているのです。

 使徒パウロはコロサイの信徒への手紙の中でこのように言っています。2章12節〜。

 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。

死を意識すると生きる

 死すべき存在なのだと意識した時はじめて、人は本当に生き始めます。教会においては、この礼拝堂で葬儀を行います。まさにいま死んだ人と、生きている人とのその空間をわけません。死と命とはつながっているから。亡くなられて日曜を経て月曜に葬儀が行われる時は、この会堂の中でご遺体と共に礼拝をささげます。ご遺体と対面するときには、自分も同じように死に至る。私とこの目の前にご遺体となられた方との違いなど何も無い。やがて自分も死に至る。眠りについた時に、一体自分は何に命をささげて、何のために行きたのか。そのことの結論がこの死の姿に映し出されるのだ。自分自身を問い直さざるをえません。もう一度はじめから、スタンスを変えて生き始めようと思う。だから、死を思い、死を現実のものとして捉え、死について真剣に考えだすときに、本当に生きることを選びとることができるようにさせられます。

キリストによって死がもたらされる洗礼

 キリストはそんな私たちに、「死ぬこと」をまずお教えくださいます。洗礼を通して。洗礼を受けなさいということはキリストのご命令です。まず自分に死になさいということです。

 マタイ福音書の最後の結論とも言うべき言葉に次のような言葉があります。

 わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 最終的に重要なことは、まず、洗礼をうけて、それから教えを守ることだとキリストはおっしゃられた。それだけ洗礼ということが大事。洗礼によって私たちはキリストをまた体験するからです。

イエス様が洗礼を受けられた

 洗礼においてキリストを体験します。まず、私たちが覚えるべきは、キリスト御自身が洗礼を受けられたのだということです。だから、洗礼によってキリストとつながるのです。

 イエス様はヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。洗礼者ヨハネは「悔い改めを得させる」洗礼を授けておりました。神の前に皆が罪人である、とりわけ自分が義しい人間だと思い込んでいるものたちの罪を厳しく追求したのが洗礼者ヨハネでありました。神に信頼して、すべての持ち物を売り払い、野でイナゴと野蜜とを食べ物として、持っているもので生きるのではなく、神がすべてを与えてくださるのだとの信仰に立って、最も貧しいものの姿で日々歩むことを選びとった人でありました。その洗礼者ヨハネは誤った道から、ただしい道に人々を導く、悔い改めの洗礼を授けていたのでした。

 私たちが授けられた洗礼にも同じ意味があります。罪を洗い流し、清める。それが洗礼です。ですから、この洗礼において悔い改めが起こるのです。

イエス様は洗礼を受ける必要は無いのでは?

 悔い改めの洗礼であるのならば、罪を犯すことなく、神の独り子として清く正しく生きておられたイエス様には洗礼は必要ないのではないかと考えるのが普通です。ですから、洗礼者ヨハネは、イエス様が洗礼をうけるためにヨハネのところに来られると、いやいや自分はそんなイエス様に洗礼を授けるようなものではありません。私があなたから洗礼を受けるべきですといいます。マタイ3章14節。

 「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

 イエス・キリスト神の独り子、神と等しきもの。

 悔い改めの洗礼を受ける必要など無い。でも、イエス様はおっしゃられます。3章15節。

 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。

 イエス様はご自分が洗礼を受けることは「正しいこと」であるとおっしゃられるのです。しかし、人間の視点からみるのならば、罪の無いイエス様が洗礼を受けるということは「正しくないこと」にうつるのです。罪が無いから受けても意味がないじゃないかと思うのです。しかし、正しいことというのは、私たちが見て正しいことではなくて、天の父がご覧になられて正しいことであるのです。

 神のひとり子が洗礼を受けることが正しいこと。これは言い換えるならば、神の独り子であるイエス様がすべての人と全く同じ立場に立たれたのだということを意味します。ご自分をあえてそういうところに置かれた。天の父はひとり子イエスを真の人間として、人間と同じ立場に立たせて歩ませることを望まれたのでした。このことがいかに大きなことであるかわかりますでしょうか。罪人たちと主イエスは連帯し、ご自分を重ね合わされたということです。それが正しいことであり、人間ではなくて神が望んでおられることである。

 それを人間ははじめは理解することができない。洗礼者ヨハネが「なんで私があなたに洗礼を授けるのですか」という趣旨のことを言ったのは当然のこと。神の正しさと人間の正しさは違う。

この洗礼は死へとつながる

 イエス様が洗礼について言葉を発せられているところを読みたいと思います。マルコによる福音書10章38節。弟子に言われた言葉です。イエス様が栄光を受ける時。おそらく弟子たちは人々から持ち上げられて国の王になるというようなイメージを持っていたと思いますが。そういう王になったとき、自分を側近においてくださいと弟子たちは願うわけです。そんな弟子たちに向かって言われます。

 あなたがたは、自分が内を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。

 このイエス様がおっしゃられる洗礼というのは、十字架のことです。すなわちご自分が処刑されて死なれるというそのことです。イエス様にとって、洗礼を受けて、神の御心に従うということは、天の父なる神のご意思に徹底的に従い、服従し、死さえも神が望まれるのであれば、死のう。イエス様にとって洗礼を受けるということは神に従うことであり、同時に死ぬということでもあったのです。だから、あなた方はこのわたしが受ける洗礼を受けることができるかとおっしゃられた。

 イエス様にとって洗礼を受けるということは、人間と同じ立場に立つということであり、同時に、神のご意思に徹底的に服従して、そこから神の業が起こされていくという、神のお働きのスタート、新しいスタートであったのです。

神の御業に巻き込まれる洗礼

 洗礼を受けられたあとに、イエス様はすぐに立ち上がられます。その時に、3章16節。

 天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 イエス様にとって、洗礼を受けるということはご自分が神の御心に従ってやがて十字架に至るのだということ、そのことへの服従と、しかし、死と同時にそこに神から王冠が授けられて、聖霊がくだり神の業が祝福が常にここにありということが宣言される、まさに蹄冠式でもあったのです。神の御業がここに起こっていくということの印です。

洗礼を受ける時

 洗礼を皆様がお受けになられた時に、このキリスト教神学、聖書、それらがすべて良くわかってしっかり理解して、完璧だった。というわけでは全くないと思います。よくわからずに受けたという人もいるかと思います。しかし、洗礼式の時に必ず読み上げられるのが、信仰告白です。この教会が受け継いできた信仰告白に自分自身も同意して、すなわち教会が受け継いできたものに信頼して、委ねて、すなわち、それは神に服従していく、したがっていくということを決意することと同じですけれども、神に委ねてこれから生きるということ信仰告白を告白することで公に言明するわけです。

 それはイエス様がおっしゃられたように、洗礼を受けるということは「正しいことを行う」ことであり、人間がどう思おうとも、これは神が正しいこと、神がご準備されたこととして受け止めていくのです。そのときに、古き自分に死に、新しい自分に生まれ変わる。これまでの自分が全く神の前に誤っていたことを認めて、神に従うことを願うのです。そして、洗礼を受ける。

 その洗礼を受けるとどうなるかと言えば、それはみなさん一人ひとりが、神の住まう宮となり、神の業が皆さんを通して起こされる。神様が皆様に働かれるようになるのです。

自らに死んで、神に従う

 自らに死んで神に従うというところに生きるときに、誰かを救い出す力が働き出す。神の業が起こります。まず洗礼において死に、また自らの死をみつめつつ、今日その死を前にしていかに生きるのかということが問われるわけです。

 イエス様は人類のために死ぬということのために一生をささげられた方です。キリストはそのイエス様に従うのです。

 にもかかわらず教会は、キリスト者は、「自らが生きること」ばかりを考えているのではないでしょうか。

 大事なのは「どう死ぬのか、どう捧げるのか、どう与えて失っていくのか。」ということです。すなわち洗礼の精神、キリストの精神にこそ生きるようにと召されているのです。キリストが洗礼を受けられたということは、その十字架を見据えなければいけなくなったということ。死を見つめられたということ。誰のためにどう死ぬのかということです。

 しかし、我々は得ることを考える歩みから脱したはずなのに、得ることばかりを考えている。得るのではなくて、どうささげて失うかです。

 しかしそう本気で考え出したら必ず得るでしょう。キリストが命を捨てた結果、復活されたように。

 キリストが私たちの神。キリストが歩まれたように歩むこと。己に死すること。キリストのあとを追いたいのです。

 最後に使徒パウロの言葉を引用させていただきます。ローマの信徒への手紙6章2節〜です。

 罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼をうけたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

 今日キリストと共に葬られるものは、己を死に引き渡すものは、復活の力を得ます。絶望の中でも光を手にします。アーメン。