マタイによる福音書 4章1-11節 「誘惑を受けて、勝つ」

誘惑

 誘惑というのは、大問題です。だれでも受けます。どんな誘惑か。唯一なる真の神から心を離れさせる誘惑です。心を奪って骨抜きにしてしまう。それが誘惑というものが、目指しているところです。教会は神への信仰のみによって建ちます。それ以外ではありません。しかし、それ以外のものでなんとかなるのだと言ってくるのがまさに誘惑です。

 マタイ福音書ではイエス様の前に悪魔が現れます。この悪魔が誘惑するものです。3つの誘惑をしてきます。私たちがこの世で受ける誘惑の典型であると考えてよろしいでしょう。常にこの3つにさらされている。

 イエス様はこの誘惑を先に背負ってくださって、私たちが誘惑に遭うときに、ご自分がそこにおられて、共にささえていてくださるのだということを示してくださったのです。先日洗礼を受けられたイエス様の姿をご一緒に見ました。なぜ洗礼をお受けになられたのかといえば、それは「人間と全く同じ姿になって」くださって、本来ならば、罪の赦しなど受ける必要はないのに、「人間の側にきて」「人間と連帯し」「人間と一緒に歩んでくださる」そのことを体をもって実行するため、洗礼をうけられたのです。この洗礼は十字架の死につながる洗礼でもありました。洗礼は水が使われますが、水は死を意識させる。イエス様は十字架の死を見据えてこの洗礼をお受けになられた。私たちのために死ぬため、洗礼を受けたのです。

 更に、本日は、神から離れさせる悪魔の誘惑さえも、イエス様はお受けくださったのだということがここに示されていることです。

徹底的に私たちと同じ目線に

 イエス様の思い、父なる神の思いが伝わってきます。マタイ福音書の4章1節を見てください。ここにはおどろくべきことが書かれています。

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるために、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた。

 悪魔から誘惑を受ける。これを導いた方がおられる。それはだれか。それは霊。すなわち聖霊なる見えない神様。その方がイエス様を荒れ野へと導いたのだというのです。悪魔のところによくもイエス様を。と思います。しかし、人間と同じ姿になられて、人間と同じように洗礼を受けられて、人間と同じように悪魔から誘惑を受ける。これこそが神様が神の御心だったのだというわけです。

 徹底的に私たちと同じ目線に立ってくださる。イエス様はそういうお方だとハッキリと示してくださいました。

40日の断食

 荒れ野でなされたことは、まずは、40日間の断食でありました。断食の意味というのはいろいろ言われるわけですが、基本的には、食という生命にとってとりわけ重要な欲求を断って、すべての意識を神に向け続けるという意味があります。請願をする、願いを神に捧げる時も断食をするわけですが、これらも、神に意識を向け続けるというところにこそ意味があります。40日断食をするという、この40という数字にも意味があります。

 モーセは民を率いて40年間荒れ野で旅をしました。ヨナはニネベの人々に40日以内に改心をしなければ町が滅びると宣言しました。そして、イエス様は40日間断食された。これらは特別な準備の期間を現すものとして聖書の中では用いられているものです。神様に向かって、イエス様もご準備をなされました。

献身のご準備

 とりわけイエス様がご準備なされたのは、ご自分がすべてをささげて、神の業のために公の働きをはじめるということに関してご準備された。すなわち、「献身」の準備をなされたのです。

 何か自分が普段の生活で大事にしているものであったり、好きなものを断って、それで献身の準備をするということはキリストに従うものにとっては、とりわけ重要なことです。神の業のために献身するためには、節制し、自らの欲を断つということがなければ、献身していくことは難しい。聖なるイエス様でさえ、そこまでなされたのですから、私たちも時間をかけて準備をしなければならない。

月報にも書きましたが

 月報にも書きましたが、それを経済的な面で実行していた方がおられた。毎日しっかりと家計簿をつけて、どれだけ神様におささげできるのか。どれだけ自分が節制してその分を誰かのために使うことができるのか。

 幸い、日本人の心のなかには質素倹約というスピリットが眠っております。派手な生活をすることをよしとはしません。貯蓄し、貯めたものをいつの日か誰かのために、誰かを助けるために、太っ腹に使うのだという素晴らしい伝統があります。

 これも、最近では悲しいことに廃れてきている気がします。今は、とにかく収入が多くて派手な生活をしている人を皆がうらやましがる傾向があるのではないかと感じています。「勝ち組、負け組」などという言葉が出てくるというのは、質素倹約の精神がどこかにいってしまった証拠ではないかとさえ思います。しかし、こんな今こそ、質素倹約の精神を思い起こし、誰かのために自分を捧げる生活をしたい。

 経済生活は大事です。収入を得ることも大事です。大いに働くのです。しかし、自分は粗末な格好をして、粗末な生活をしている。それが私たちの理想です。

イエス様の心は

 私たちは、今一度イエス様の精神に触れたいのです。イエス様は、ご自分のために、献身なさったのではない。私たちのために献身なさったのです。私たちを神の側に勝ち取るために。イエス様は私たちを救い出すための準備をなさっているのです。私たちを救いだすために、食を断ち、思いをすべて天の父にむけ、天の父がイエス様によって救いをなそうとされていることに思いを向けた。

 食欲を犠牲にして、耐えて、耐えて、耐えて、私たちへの思いを純粋に求めてくださったのです。誰かのために断食して、祈り続ける。これこそが、イエス様の心であり、私たちも引き継ぐべき心でありましょう。

 教会がきらびやかなものにならないように、プロテスタント教会は気をつけています。それは非常に素晴らしい伝統であると思います。イエス様御自身がこの世できらびやかな生活をなされた方ではありませんので、同じようにこの会堂も建て上げたいと願い、このようになったのです。さらにこの会堂の中には十字架以外に目立つものはありません。徹底的に虚飾を廃したこの礼拝堂。これこそが私たちの理想だと思ってこのように建てたのでしょう。

 会計に関しても、私たちはできるだけ、切り詰め節制するということが大事です。そしてその切り詰めたお金を誰かを助けるために、気前よく使ってしまう。そういうあり方ができれば、私たちはキリストに従っているといえるのではないでしょうか。徹底的に切り詰めて、それで自分たちが潤うようになどと考えていてはキリストが泣かれるのではないかと思っています。

 徹底的に献身してしまうことを求める。40日の断食がどれだけ厳しいものであるのか、私には全く想像がつきません。しかし、推測できるのは、これはまさに命の瀬戸際。命をもしかしたら失ってしまうのではないかという恐れさえ、出てくる日数ではないかと思います。その恐れさえも乗り越えて、40日間すべてをささげて、私たちを愛する道へと、自分を与えつくしてしまう道へとイエス様は歩みをすすめられたのです。徹底的に献身の思いを純粋なものへと準備を進められたイエス様。愛するもののために徹底的に準備を重ねる。イエス様の並々ならぬ思いが伝わってきます。

第一の誘惑 己で生きているではない

 イエス様のところに"誘惑する者"が来ます。これがいわゆるサタンと呼ばれる悪魔です。この悪魔が何をするのかといえば、純粋な信仰から人を離れさせようとする。不純にするのです。不純なというのはどのような状態かといえば、断食の時の心とは真逆です。神をとにかく見ない。神を信頼しない。神以外の何者かが何かを決定的に解決してくれると信じてしまうということです。

 悪魔というのは実は私たちにとっては身近な存在かもしれません。悪魔という言葉を使ってしまうと物々しい雰囲気になって、全然関係ないかのように思えてしまいますが、そうではない。極めて私たちはその近くに、その誘惑の中にあると言ってよいと思います。

 悪魔は問います。4章3節。

 神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。

 するとイエス様はお答えになります。4章4節。

 『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』

 これは旧約聖書申命記8章3節の言葉なのです。申命記というのはモーセを巡っての話が記されている箇所です。モーセが荒れ野の旅の最中にイスラエルの民に伝えた言葉です。エジプトから解放されて荒れ野で旅を続けるイスラエルにとって、毎日の食べ物を得るということは、死活問題であり、しかもそれがかなり難しい環境にありました。エジプトの荒れ野を歩いてみていただければわかりますが、どこに食べ物があるのか分からない。そんな厳しい環境です。その厳しい環境の中で、神様はイスラエルの民にマナを降らせて、民を養いました。それは奇跡による神が与えてくださる食べ物。実際は、ある昆虫の体液が結晶化して地面に落ちるものではないかと言われています。しかし、それでも、その不思議なウエハースのような食べ物でイスラエルの民全体が養われるなどということは奇跡です。ありえないことです。

 人は実は神様のそのような奇跡によって、神のちからによって実際は生かされているのだということを忘れるなということです。モーセが「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言ったのは、まさに私たちが生かされているのは神の力によるのだということです。神の言葉によって生かされている。神の一声によって今日生きることがゆるされている。

石をパンにするということ

 この神の守り、神が生かしてくださっているということを忘れて、己の力で何か物を変化させて自分の力で生きている。労働によって何かを自分が生み出して、それによって生きている。私は私のために生きるのは当然ではないか。私が得たもので生きているのだから。得たものを自分の好きにつかって構わない。確かに、その通りです。

 しかし神が望んでいる人のあり方というのはそれでは足りない。自分の命は今日神によって保たれている。今日神からこの命を新しくいただいた。自分で何かできるなどと思うな。神がそれを与えてくださる。だから、神に感謝をささげ、この与えられた賜物を誰かに手渡す歩みをするのだ。そのようは発想になります。与えられたのだから、与える。という発想になる。それが神の願いです。

 石を自力でパンにかえる。労働によって今日生きることができるのは、自力による。だから、この自力による果実を自分のためだけに使って何が悪い。こういう発想の人々が増えてれば増えるほどに、社会の中に目に見える悪魔が出来上がってくるでしょう。感謝が失われ、奉仕が失われ、自己満足に生きるものばかりになり、孤立化し、孤立化した人は生きる意味を失うのです。自分自身の奴隷になって、やがて自滅する。

 この悪魔に打ち勝つ言葉。

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる。」

 神によって生かされているのだということです。

第二の誘惑 交換関係

 悪魔の第二の誘惑は神殿の屋根の上にイエス様を立たせて、神の子なら飛び降りたらどうだと問います。これに対してイエス様は、旧約聖書の申命記6章16節の言葉でお答えになります。4章7節。

 あなたの神である主を試してはならない。

 これは、荒れ野の旅をしていて、水がなくなってしまった時に、神様を民が疑った。本当に神は私たちを守ってくださっているのか。守ってくださらいのではないか。そうおもって、神様を試したという記事があります。

 もしこれこれをしてくれるなら信じよう。というような信仰に立つことへの誘惑だということです。すなわち神様との関係を交換の関係に落とそうとする誘惑ということです。

 これをしたらこれをしてくれる。祈りっていうものがいつしか交換になっているようなことがあります。祈ったからかなえられた、祈らなかったからダメだったとか。神様との関係ってそんな単純なものではありません。祈っているその前から、神様は私たちを救うという決断をしてくださっていたのです。ならば、祈ったから何かが叶えられるということではないと私たちは体験している。祈っていないのに、神の御心がかなうことがありうる。そもそも皆さんが導かれたのはみなさん自身が祈っていたからですか。いや、誰かが皆さんのために祈っていたという前提があるのかもしれません。でも、神様と人間との関係をそんなわかりやすい交換の関係に置き換えて、祈りが交換条件にしてしまうのは誤りです。

 あなたの神である主を試してはならない。

 何が起こったとして主を信頼するのです。そして、決して失望しない。キリスト者こそ、絶望の淵で光を見出す光の民です。どんなに世界が腐敗しようとも、それでも諦めないのがキリスト者。主を試すことなく、信頼して神がお働きくださることを信じるからです。

第三の誘惑 栄光

 悪魔は山にイエス様をつれていって、自分を拝むなら、国々の反映をあなたに与えると誘惑します。栄光を手にいれるために、悪魔に魂を売れということです。そして、悪魔を拝め。ということです。やはりものものしい悪魔という言葉を出してしまいますが、これはそんな悪魔という言葉であらわすことをせずに、すぐ身近にあること。自分の栄光が得られるということ、そのために必要ななにか、それを絶対化して、それを拝む。神以外の何かを人が絶対化すると必ずこのような誘惑になると言って良いでしょう。

 とりわけ、ここでは栄光を得られるということ。そのために神以外の何かに魂を売れということです。このことに、イエス様は申命記6章13節の言葉でお答えになられました。

 あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。

 モーセに導かれて荒れ野をさまよっていた民が、ついに約束の地にはいってそこで繁栄を手にする。繁栄を手にした民が神を忘れることがわかっていた。その民に向かってモーセは命じたのです。主のみを拝むのだと。

絶対化するのは、主のみ

 私たちが絶対化するのは、唯一の世界の造り主なる神のみです。それ以外のものは、「相対的」であると言ってよろしいでしょう。私たちの教会もある意味、この教会は時とともに形を変えるでしょう。組織自体が無くなるということだってあり得る。それは絶対なものではないから。人間がここに集まっているのだから。この教会という組織が安泰だから、私たちは救われているのでは全くない。神がおられる。神との関係において救われる。それはあらゆる社会システムもそうでしょう。変化しうるのです。しかし、それを絶対化して硬直化させて、それだけ守っていれば物事はうまくいくなどということはおかしなことなのです。

主は私たちが経験することを先に、、、

 主イエスは私たちが陥る罠に先に誘惑を受けられて、ここが大事なのだぞと、私たちに示してくださった。

 神によってすべてが与えられていること。だから、与えられているのだから感謝とともに生き、それを誰かに手渡すことができるのだということ。

 神様との関係を交換の関係にしてはならないということ、愛の関係にしていくこと。信頼をまず神に持つこと。

 さらに、神以外を絶対化することを拒否し、神をあがめること。

 主は私たちを背負ってくださっている。私たちが経験することを先に経験してくださった。だから、安心して主の言葉に従ったらいい。主のみを信頼し、それ以外のものは移ろうものだと認め、歩みだしましょう。アーメン。