マタイによる福音書 4章18-22節 「捨てる」

複雑な社会で生きる

 複雑で何がなんだか分からない。新聞を読んでいますと、そのような感覚を覚えることが多いものです。しかし、必死で食らいついてこの世界がどのように動いているのか、私も見ようと努力しています。そんな複雑な社会の中で、私がとりわけ大事だと思うことは、「複雑だからこそ、魂の根幹にあるものはシンプルに」と思っています。そうしないと、自分が右に左にとふらふらしてしまうからです。

魂の根幹にあるもの

 魂の根幹にあるものとはなんでしょうか。それは私は「天」であるべきだと思っています。誰が見ていなくても、誰が私になんと言おうとも、「天」におられる神さまが私を見ていてくださって、この天におられる方にこそ恥じない今日を生きたいと思うものです。だから自分にからみつく枝葉末節な複雑なことは一時かなぐりすてて天に思いを馳せる時が必要。それが礼拝です。

 もちろん、かなぐり捨てたことを忘れ去ってなかったかのようにしてはいけません。キリスト者は世捨て人だなどと言わせてはいけません。ちゃんと社会と関わりつつも、しかし、社会に支配されずに、「天」の領域を心にもっている。それがキリスト者であると思っています。

枝葉末節を捨てるためには

 枝葉末節にあることを勇気をもってかなぐり捨てて、軽くなるためには、「捨ててはならない大事なもの」は一体何かということが分かっていなければなりません。マタイ福音書13章44〜46節にこのようなイエス様の例え話があります。

 天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

 捨ててはならない大事なものは「天の国」であり、捨ててもかまわないものは、ある人にとっては、畑であった。畑というのは、畑作をするものにとっては命綱。生活の糧を生み出すものであるのですが、それも「天の国」とは比較とはならない。天は高価な真珠のようなものでもあり、持ち物をすっかり売り払ってしまっても、惜しいとは思わないもの。

天の国

 天。そんなことよりも今日いかに生きるかのほうが大事なんだと。何を食べて、何を飲んで、どういう服を着て、どういう家に住み、どう生活していくか。それこそが重要なことではないかと、現代の日本人は言いたくなるかもしれない。しかし、私たちは結局は自分がどのように生きるのか。何のために生きるのか。自分が命を与えられた理由は一体なんなのか。そのことを感謝とともに受け止めることができないかぎり、人として幸いな歩みはできないものです。そうでないかぎり、いつまでたっても神様以外の誰かに左右されて、誰かによって評価されて、その評価に一喜一憂する歩みしかできないでしょう。

与えに与えられて重要なものを見失っている

 私たちの社会は、普段の生活において物に事欠くということが少なくなっている社会です。さらに、今日一日の内に、自分の命が維持されるのかどうかということを心配しなくて良い社会になったと思います。しかし、それゆえかどうかは私もよく分からないのですが、「いかに生きるのか」を見失ってしまっているように思います。

 私は所謂、「就職超氷河期」と言われる時代に、一般大学の大学生であり、ちょうど就職活動をする次期が重なりました。私は牧師を目指しましたので、企業の面接に行くということはありませんでした。しかし、なかなか就職口が決まらずに、結局就職できなかった友人もいました。これだけ努力して勉強してやっと大学に入ったのに、その努力が報われる気がしない。そんな感覚を持っている人が多かったような気がします。私の中にも「努力は報われない」という言葉が心の中に居座っていた気がいたします。

 「努力は報われない」という思い、それゆえに社会に対して無関心。何をしても無駄だろうというような思いは、神学生になってから、牧師になってからも尾を引いており、私のうちからエネルギーを奪い取る何者かとして心に残り続けていたと思います。時代の空気と言ったらよいのでしょうか。やっとこさそういう負のエネルギーのようなものが溶かされて来たように感じるのがつい最近であります。

負のエネルギーとはなんだったのか

 私がずっと抱え続けてきた負のエネルギーは何だったのかというと、今はそれが明確にわかります。結局、己の世界で、己の幸いを求めて、己だけで完結するなにものか。を求めてしまっていた。すなわち自分だけが生きていくための何ものかを無意識に求めてしまっていたということが原因だったろうと思います。自分が就職して、自分がちゃんとした職についてなんとか、自分を守らなければ。ということが心の中心にあった。いや、私の周りの皆がそういう「自己保身」のことばかりを考えざるを得ないような社会だったのだと思っています。

そんな中にあって聖書が風穴をあけてくれた

 そんな負のエネルギーに支配されて、頑張る力も、自分の命をかけてささげたいことも見つからない私に対して、聖書が風穴をあけてくれました。本日の箇所においてもそうですが、自分が大事にしていたことを捨ててついていく。自分を忘れてなにかのために生き始める。そういう人たちの姿が描かれているのです。それこそが、神から救いを受けたものの姿です。

それはある日突然に

 主イエスとの出会いや神様との出会い、天の領域を受け入れていくということ。この驚くべきことが起こるその時というのは誰にも予測ができません。予測できないことを今語ってもと思うのですが、しかし、この「予測できない」ということは、信じるものにとっては非常に大きな希望です。神の介入はいつあるのか、人間には分からない。それが今かもしれないし、何年後かもしれない。

 しかし、その介入がいつの日か訪れる。

 ペトロは「ある日」兄弟でいつものように、仕事をしていたのです。ありふれた日常だったのかもしれません。とにかく、全く予測しないそのときに、イエス様の方から、ペトロとアンデレは願ってもみたことがなかったのに、イエス様から二人に近づいてくださったのです。

人間の質に依存しない

 一般的な考え方としては、神様がその人を訪れてくださる。そのためには、その人の純真さ、純粋性、心のきよさ。そういったものが必要だと考える傾向にあると思います。信仰者の会話でもよく聞きます。あの人は素晴らしい人格をもっておられますね。だから、神様は祝福してくださったのでありましょう。そういう内容で誰かを褒めているということを聞くことが多いものです。

 しかし、そんなことは全くない。人格をもとに神様が人を選んで、その人がすばらしいからと理由で御自身を現してくださるのであれば、ペトロは選ばれてはならない人です。なぜなら、イエス様を裏切るような人たちだったからです。イエス様が十字架におかかりになられるときに、三度知らないと言ったのはペトロです。死んでもついていくと言っていた人です。その人がその舌の根も乾かない内に、知らないと言ったのです。そんな人が人格者でありましょうか。

 しかし、キリストはその人の人格がどうという判断をなさるのではなくて、神の支配をその人の心に、天という領域をその人の心に、その人がまことに神と共に生かされるそのためにお近づきくださるのです。神が私達に近づいてこられる理由は私達のうちにあるのではない。神のお心にある。神の愛のうちにあるのです。

漁師

 当時の世界では、漁師というのは、哲学や宗教に秀でた人ではありません。ユダヤ教の律法学者やファリサイ派とは比べ物にならないぐらいに聖書の知識が無い人です。そういった意味では、使徒として教会の中心に選ばれて、礎とされていく人としては、ふさわしくなかったとも言えます。もっと聖書に詳しい人が選ばれるべきです。

 現代で言えば、ちゃんと学んで神学校にいって、修士号をもって、人に教えるある程度の弁論術ももって、そうでなければイエス様と一緒に伝道はできないのではないかと考えます。

 しかし、神様はそういう人ではなくて、漁師である学びなど今までしたことがあるかどうか分からないその人のところに行かれて、「ついて来なさい」と言われたのです。

いつ、誰が選ばれるのか分からない

 だから、いつ、誰に神の業が起こるのかなどということは全くわかりません。そんなことを予測しているようなものは偽り者です。

 ですから、教会に足を踏み入れてくださる方。その方がいま現在どんな思想信条をもっていたとしても、例えば真っ向からイエス様に反発するようなことを言っておられたとしても、そのひとが神様の業のために用いられるかもしれない。という可能性はどこまでも捨てることはできないのです。だから、どんな人をも公平に神様が大切にされた神様がここに導かれた方であるというふうに接することができる。どんな人とも握手をして歩み出すことができます。

日常の只中に起こる神の招き

 神の招きというのは特別な日に起こるものではありません。主観的には、当たり前の日常の中で起こるものです。ペトロとアンデレはいつもと同じように漁をしていたのです。その二人にはじめは遠くからであったでありましょう。イエス様が目を止められて、イエス様から近づいてくださいました。一体どんなやりとりが、この三人の中で交わされたのか、具体的には、言葉だけが記されているだけです。その言葉を見てみますと。19節。イエス様が。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。

 このイエス様からのお召しは、二人にとっては寝耳に水であったはずなのです。全く予測していかったことです。しかし、彼らは不思議なことに、行動に移ります。網を捨てる。神の言葉を聞いた人は行動に移ります。

行動的であること

 神の言葉を聞いた人は行動的にならざるを得ないと思います。神様から何かを受けて自分が変わらないなどということはない。座っている人は立つ、立っていた人はついていこうとする。何かしらの変化が起こる。自分の中に動きというものが起こる。

 天の父やイエス様によって命令されたことに生きようとする時に、無尽蔵に力が与えられて次に動くエネルギーが与えられます。

 神の言葉を聞く、動く。という一連の流れができます。

網を捨てる

 網を捨てるということは、漁師にとっては命を捨ててしまうということをも意味する行為です。その時から生活の糧を失うということ。さらに、ペトロとアンデレの兄弟は網をすてたのですが、次いでてくるヤコブとヨハネの兄弟は、家族を捨てて、父を捨てて出てくることになりました。生業、地縁血縁。そういった頼りになるものを捨ててまでも、このイエスの道に従いたいと願うものが現れます。

 人は価値あるもののためならば、捨てることができます。それは人によって家であったり、仕事であったり、ときにはそれが命であるということだってあります。とにかく、自分にとって価値あるもののためであるならば人間は犠牲を払うことができる。

 漁師にとって、当時の社会において、網は命、ユダヤ教社会の中で血縁は命でありました。それさえも捨てても構わないとまで思わせるものがイエス様にはあったということになります。

イエス様は何をなされたのか

 イエス様にこの4人は引きつけられるわけですが、一体何に彼らは引きつけられたのでしょうか。それはその後の記述、4章23節以下をみれば見えてきます。

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

 この文面から何が伝わってくるでしょうか。まず言えることは、イエス様は公平であられたということです。別け隔て、上下。そういったものをおつけになられない。神の独り子として誰一人例外を造らずどんな人のところにも出て行かれます。ガリラヤ中、行ける範囲にある人のところには例外なく行かれたということが書かれているのです。

諸会堂とは

 諸会堂にも行かれたと書かれています。

 諸会堂というのはどんなところでありましょうか。シナゴーグと言われる。集会や礼拝が行われる場所です。シナゴーグという会堂はどういう場所かと言えば。マタイ福音書10章17節に次のように書かれています。

 人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。

 やげて、弟子たちが鞭打たれることになる諸会堂のことを言うのです。こうなるということがイエス様には見えていましたけれども、しかし、そんなことよりも、まずは目の前でイエス様のことを信じる人が起こされて、心の内に天を迎え入れて、神と共に生きはじめる人が起こされるようにと会堂に行かれたのです。

 ここにもイエス様の公平無私な姿が描かれておられます。自分がどう考えるか、どういう利益を得ることができるかなどということは考えておられない。目の前の人がどう救われるのかです。

 諸会堂は後に私たちを迫害するのだなどというレッテルを貼って行かないという選択もありえたわけですけれども。イエス様はそういうことはなされない。公平な、フェアな方であられました。  

ありとあらゆる病気に

 またイエス様はその時、「ありとあらゆる病気や患い」に触れられたのです。そこにもはやり何の区別も差別も偏見も、レッテル貼りも何もない。ただただ目の前の人を大事にされることを最優先なされてイエス様を求めて来る人すべてに触れられたのです。このような公平無私な姿に触れて、すなわち「天の領域に人々は触れて」それで自分を捨ててついていこうと決断していくわけです。

弟子たちは自己満足を求めたわけではない

 弟子たちはイエス様についていくことで、自分たちが何かを得るということでは全くありませんでした。これが弟子と弟子でないものを分けるところです。

 自分たちが何かを得るではなくて、神のために「人間をとる漁師」として召されていくわけです。これは天の父なる神がお喜びになられる。神の側に人が帰ってくる。漁のたとえが使われていますから、魚のように人が食べられてしまうのではありません(笑)。

 神と共に人が生きるようになる、神様もお喜びになられるし、人も神を知る喜びで満たされるのです。

 ですから、弟子が召されたのは自分のためではない。神のため、目の前の天の父を知らずに苦しんでいる人のためです。

捨てることができた時

 捨てることができた時。これ以外に何もいらない。自分のためという生き方を捨てた時。天からのちからがそこに注がれて神様のために献身する。イエス・キリストに従う道が開かれます。アーメン。