マタイによる福音書 9章9-13節 「誰が招かれているのか」

絶対に癒やされぬ病が癒やされる

 イエス様の周辺では信じられない奇跡がたくさん起こされました。それらは、すべてイエスさまの権威、お力によるものでありました。マタイ福音書にはその「イエスの権威」がハッキリと伝えられています。本日の箇所のすぐ前にもその記事が記されています。9章2節以下。

 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。

 中風の人というのは脳障害を抱えていた人です。体が麻痺状態にありました。だから、連れてこられないと来ることができなかった。イエス様はその中風で自分で動けない人自身の信仰ではなくて、周りの人々の信仰を見て、神の権威によって罪の赦しを与えてくださった。すると、その人は癒やされたのです。

 絶対に癒やされるはずの無い病が、癒される。そのことの前に人は跪くことしかできません。圧倒的な力の前に、ひれ伏すしかありません。

私たちは説明が好きだけれども、、、

 私たちは説明すること、説明されることが大好きです。それがないと決して納得しないと言う人もいる。しかし、イエス様が出来事を起こされるとき、特に奇跡の御業を行われる前に、何か「おふれ」があって、「こうしますよ」と説明があってなされるなんていうことはありません。それが神の権威です。神の権威に服するときに、説明されて納得させられて服するなどということはない。圧倒的な力の前に打ちのめされるのです。

 聖書自体も説明的な文章が記されているわけではありません。なぜ、この中風の人が選ばれて癒やされたのかなどということが詳細に記されているわけではない。とにかく、主イエスの行為、それを受け取った恵まれた人。救われた人が記されていきます。

イエス様が言われたのは

 イエス様がこの箇所で言われたことで、特に注目すべきはひとつでありましょう。これも説明ではなくて宣言です。9章6節。

 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。

 この癒やされざるものが癒やされたという出来事は「罪の赦し」の出来事であったのだ。罪の赦しの権限があるから、この人の病は癒やされたのだというのです。罪ゆるされて神に迎え入れられたからこの人は癒やされた。ここに神の国が、神にご支配が来ている。するとその中風の人は起き上がって床を担いで家に帰っていった。

 「起き上がって」という言葉は「復活して」とも訳せる言葉です。

 このマタイ福音書9章周辺の文書を全部読んで見ますと、起き上がってという言葉が度々使われていることに目を止めてください。実際によみがえった少女についても書かれています。起き上がった人間は皆、神のもとに復活した人間として描かれていくのです。

次々と起き上がる

 イエス様が歩んでおられるその道筋にはつぎつぎと「起き上がらせられる」人が起こる。それは、なにか論理的に説明できるものではない。とにかく、イエス様が来られる所、そこに復活が起こり、人々が新しく生き始めるということが起こるのだということなのです。

議論したがる

 私たち人間は、どうしてかこの9章周辺を巡って色々議論したくなったり、公式を作りたくなってしまったりします。神を自分の手中におさめておきたいという欲求からでしょうか。例えば、中風の人が癒やされたという話においても、この人は罪人であり、罪人だから中風であり、病は罪によって引き起こされる。病んでいる人は罪人なのだという定式を導き出してしまう人がいます。しかし、イエス様はヨハネ福音書においてそのことを否定することもおっしゃられています。ヨハネ福音書9章1節以下。

 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

 なんでも一対一対応にして、まるで学校の試験のように物事を単純化してしまう、頭のシンプルな人がいますが、そういう発想をこの聖書に持ち込んではなりません。

イエス様が触れられると

 イエス様が触れられると、神と人間との絆が回復されて、罪の赦しが起こり、罪の赦しとともに、健やかにされて癒やされるということが起こるのです。すべてはイエス様の権威が、お力がそこに現れるためです。この聖書記事の視点は、「イエス様の行為」にあり、イエス様が何をなさる方で、その権威によって罪ゆるされ、癒やされたものは次々と起き上がる。

通りすがりに、ある人を

 本日の箇所で記されているとても大事なことはマタイ福音書を書いたマタイという人の召しについてです。そして、このマタイという人は自分自身のことをどのように描いているのかということです。イエス様とのかかわりは彼にとってはどういうものであったのかというと、「とおりがかりに、たまたま、みつけられた、ある1人の人」という描き方をマタイ自身はしております。自分を特別なものとして描いていないということなのです。

 イエス様の権威が示されて誰かが復活させられ、神のものとして生きる。その事こそが大事であって、自分は通りすがりの人。まったく取るに足らない。神の権威とはそもそも比較にならないぐらい小さな存在でしかない。そういう描き方をマタイは自分自身に対してしているのです。

マタイは自分の息遣いを殺す

 マタイは自分自身の息遣いをまるで殺すかのように、自分の存在を小さくしました。しかし、マタイが伝えたこの聖書によって、偉大なる復活が起こされた。私たちもその恩恵を受けています。私もマタイ福音書との出会いが無かったらいまの自分は無いと思います。大学時代ひっそりと誰にも教会や宗教との関わりがあるように見せないように、密かに大学の図書館でこのマタイ福音書を忍ばせて読んでおりました。当時は、宗教に対する拒否反応が自分の中にも強くあり、ちょうどカルト問題が表面化してテロ事件など起こった時でありましたので、誰にも見つからないようにこの聖書をはじめのうちは忍ばせながら読んでいた。しかし、そのマタイ福音書の言葉が心に広がり、やがて、神のためにこの命を賭したいとまで思うこの復活の命与えられた。偉大なる働きをマタイはしたと言うことができます。しかし、当のマタイは自分の息遣いを殺そうとした、とおりがかりにたまたまイエス様とであった、単なる1人の人だったんだと自分を描いたのです。

自分の命を捨てるもの

 ヨハネ福音書12章24節にこのようにあります。

 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に生きる。

 この言葉どおりに、マタイは自分の影を消して、自分自身が目立つということを憎み殺して、その結果聖書として受け継がれるべき文書を残していきました。キリストを語り自らはさがる。キリスト者のあり方をマタイはこの文体からも私たちに指し示してくれています。

マタイが座っていた収税所とは

 マタイが座っていた収税所。そこに一度居座ってしまうと、おいそれと立ち上がることができない場所です。なぜかというと、その居場所は「おいしい」から。お金を得ることができました。さらに、悪いことに一度その場所に座ってしまうと、周りの目から「ローマ帝国に手先」というレッテルがはられてしまって、一度そういう負のレッテルがはられてしまうと、それを払拭するのは難しい。だから、もはや自分からそれを払拭しようとも思わないと思います。もう、この道で自分は生きて、人々から蔑まれる眼差しを交わしながらお金を得てそれを使い満足感を得る歩みをたどるしかなくなります。

 だから、マタイが座っていた収税所とは一度座ってしまったらもう二度と立ち上がることができない場所。もうそこから経済的にも社会的にも逃れることができない場所であったかもしれないとも言うことができます。

取税人

 取税人はローマ帝国に任命されて、ユダヤの地域で税金を集めるユダヤ人でありました。けれども、ユダヤ人でありながらユダヤ人から疎まれていました。自分の収入とするために税金に上乗せしていくらかを自由に自分で設定して儲けることが許されていました。だから、それに乗じて高い税金を取る取税人もいた。マタイだって例外ではなかったはずです。ほかの取税人と変わらず、税金から利益を得て。それをまわりから疎まれる現実の中に生きていた。そこから逃れようとも思っていなかったはず。普段の変わらない日常の中に、自らが座るべきところにどっしりと座っていたのです。

キリストの一言で、変わる

 しかしそんな現実を打ち破ったのがキリストです。たった一言でマタイは立ち上がります。9章9節後半。

 「わたしに従いなさい」彼は立ち上がってイエスに従った。

 立ち上がってというのは、これも「復活して」という意味合いがある言葉が使われる。立ち上がって、起き上がって、復活して。イエス様の周りで起こることというのはそういうことなのです。

 どうして、マタイはイエス様に従い得たのかということを説明したがる人がいます。マタイは実は自分が罪を犯し、人から暴利を得ることを悲しんでいたのだ。そこから逃れようとしていたからこそ、イエス様のただの一声で心が変えられたのだと、マタイの方の動機とうものを語りだそうとする人がいます。しかし、それはあえてここには書かれていない。なぜ書かれていないのか。マタイの方が問題ではないからです。イエス様が「わたしに従いなさい」とひとり子の権威で、人を復活させることがおできになるそのお力で。人々を癒やし慰め励ます、その憐れみの心でイエス様は人々にとにかく触れられたのだ。イエス様はこのマタイにも触れてくださった。人々から嫌われて、蔑まれてさえいたこのマタイに「イエス様が」目を止めてくださった。その驚くべき出来事は誰にだって起こるのだ。「イエス様の行為とそこからの広がり。」それを見ているのです。

教会は寛容

 教会というところは、とにかく寛容で憐れみ深いと思わされます。なぜなら、この罪人、徴税人をイエス様がお受け入れになられたという記事がありますので、私たちはどんな人でもイエス様を求めてやってくる人を拒むということはできません。私たちに危害を加えるようなひとを迎え入れるということはできません。なぜならこの礼拝の秩序がこわされてしまうから。

 しかし、イエス様の前に跪きたいと願っておられて、神の支配に従いたいと願っておられるひとは、どのような人でも迎え入れるという準備をしています。

 だから、誰かの好き嫌いで人が判断されることが決して無い場所。好き嫌いをしてしまっているのであれば、キリストの弟子として歩んでいないということです。キリストは徴税人と罪人と一緒に食事をして、しかも当時の世界の食事というのは私たちが考える以上にもっと親密な行為でありました。テーブルを囲んで食べ物を前にして、横になって食べるのです。日本人からしてみてあら、なんとはしたない!と思えますが、そうではない。食事というのは、そうやってお互いが心を開いて、受け入れ合う場所。武装を解除して、絶対に敵意を現さないということをお互いに行動をもって宣言しあう場所だったということです。

 そこに、罪人と徴税人がイエス様によって招かれるのですから、周りの人々はこそこそと噂をしたことでありましょう。11節にはやはりそのことが書かれている。

 「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」

礼拝の中心は食卓

 プロテスタント教会が考える教会の中心はなにかといえば、それは説教と聖礼典であると考えてきました。聖礼典の中に、聖餐式があります。聖餐とは、イエス様との食事です。イエス様の食卓に皆様が招かれていることを確認します。その食卓に招かれている人は、互いに武装解除していなければなりません。何しろ、昔の社会だったら寝ながら食事をしなければならないのですから。お互いに無防備な姿を晒さなければならない。イエス様の食卓に招かれるものたちの間では、敵意は取り除かれます。なぜなら、主イエスが招いてくださった食卓にあずかるのですから、主はイエス様です。主はイエス様なのに、お互いがいがみ合っていたら、イエス様に私は頭をはたかれると思います。なにやってる!と。

 

ファリサイ派がしていたこと

 イエス様がいつも批判しておられた、ファリサイ派がイエス様の食卓をみていてしたことというのはなにかと言えば。「あの人は招かれざるものなのではないか」と判断していた、ということです。徴税人と罪人が招かれるなんて信じられへん!ということです。たしかにその考え方の方が筋が通っているように思えます。イエス様の近くに寄っていける人は素晴らしい人、優れた人、信仰深い人、聖書をよく勉強している人、罪を犯したことがないような人。品行方正で、非の打ち所の無い人。ファリサイ派はそう考えるのです。

 そして、そういう人に自分がなれるように、そしてそうなった暁には神様に迎え入れていただけると考える。しかし、イエス様はそうは全く考えておられない。

 そのことを説明するために、イエス様はある御言葉を引用されました。9章13節。

 わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。

 普通、考えるのは、神様に対して自分がどれだけのことが「できたか」です。しかし、人間がどれだけ神にささげることができたか、ということよりもっと大事なことは、神がどれだけ人を憐れみ、慈しみ、愛してくださっているのかという、「神の思い」を知るということです。

 ファリサイ派は、「神がその人をどうみておられるのか」にフォーカスをあてませんでした。「わたしがその人をどう思うのか」「私自身が神に対して何ができているのか」ということ。すなわち「私」が起点になっている物事の発想のしかたしかできていないということなのです。

「誰が招かれているのか」ではない「神が招いておられる」

 私たち人間が考えることは、このどんぐりの背比べの人間どうしがどちらが優れているのかということです。神を前にしたらそういう発想は消えるのですが、いつまでたってもその発想にしがみついている場合があります。私が招かれている、あの人は違う。あの人は招かれていないから、かわいそう。

 そんなこと考えている余裕があったら、私と同じように神はあの人を何の条件もつけずにただ神の方に飛び込んでくるという信仰のみによって人を神と結びつけようとなされているのだから導かれると信じて行動するはずなのです。

 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

 招くためにイエス様は来られたのです。

 イエス様の思いを知って、その思いを背負って、心にしまって、イエス様のように誰かのもとにかけだして言って、救いを宣言する。その人に触れて祈る。それだけでも構わない。誰が招かれているのか、この人はおかしい。そんな発想は捨てて、血を流してでもその人を救おうとされているイエス様のお顔を見るのです。アーメン。