マタイによる福音書 19章16-22節 「永遠の命とは」

キリストと人間

 聖書を読んでいますと、神の憐れみ、恵み深さと、人間の小ささ、浅ましさというものが浮き彫りになってきます。特に人間との対比の中で、神のお心の広さを常に感じます。マタイ福音書の19章14節には子供を受け入れるイエス様のお心が書かれております。

 子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。

 イエス様は子供が近くに来られるのをお喜びくださる。しかし、弟子たちはそうではありませんでした。13節をみますと、「弟子たちはこの人々を叱った。」と書いてあります。子どもたちのような何も分かっていないものがキリストに近づくことを拒んだ。ということです。そこには、「私たちはよくわかっている」という前提があります。キリストの周りに集まるべきものは、この私たちなのだという自負があるのです。しかし、イエス様はそういう人間が造った枠組みをやすやすと飛び越えていかれます。

 愛するものを救おう、助けよう、愛そうと決心し行動する時には壁を乗り越えていく決断をすることができます。自分の子供のためには命さえささげかねないお母様がたの熱い愛が子供に注がれているというのを、教会でも子どもたちを見ていると実感することができます。

弟子たちが見ているものと、キリストが見ているものは違う

 弟子たちが見ているものは、「私と子どもたち」その誰がキリストに近づけるのかという、やはり自分発進、自分スタートの考え方です。キリストのお心がいったいどうかなどということがどこかへ行ってしまっています。イエス様は子どもたちに向かってこのように言われました。

 天の国はこのような者たちのものである。

 子供が無邪気、素直、謙虚だから天の国に入ることができるのだと捉える人がいますが、そうではありません。そういうことをキリストはおっしゃろうとされているのではなくて、子供というのは、自分の能力や持っているもので何かを要求したり、救われているとか、そういう条件を提示するものではない。子供というのは、ただただ無条件に受け取ることしかできないものである。だから、神の愛は上からのぞみそれを受け取るものに開かれるのだということです。

 弟子たちは子供は理解できないと、神の恵みを理解できるかどうかということを条件にしたわけです。しかし、そういう条件も意味が無い。ただただ恵みを受け取るだけ。そういう心持ちのものに神は恵みをくださるというのです。

抜きん出ようとする人間

 さて、そんなところにもう1人の人が現れました。

 「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」

 この問の背後には、私はまだ永遠の命ということが分からない。そして私はそれを得たい。それを得るに足る生活を送っているのに、一向に自覚が湧いてこない。どうすればよいのでしょうか。という問いであると思います。イエス様はその青年の純粋な疑問に応えてこう言われました。

 「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」

 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。

 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」

 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何かかけているでしょうか。」

 特別なことをして、人よりも抜きん出れば何かを得られるのではないか。こういうことは誰しもが考えることです。信仰においてもこういう思いでずっと信仰生活を続ける人がいます。私はひとよりも優れているとは思えない、いやあの人の方が優れている、あの人のようになりたい。あの人のようになれば救われていると思える。とか。特別な存在になること、また特別な存在のように見える人、そういう人のところに行って秘訣はなんだろうかと聞き出そうとするのです。

 しかし、イエス様はそういう動機を持っている人に対して、十戒を守りなさい。と言われた。十戒というのはイスラエルの人々にとっては誰もが知っていることであり、誰かよりも自分が抜きん出れば知ることができるというような内容では全くありません。だれでも知ることができることを、ちゃんと聞いていない。それこそが問題だということなのです。

神の言葉ではない何か

 聖書の言葉ではない何か。誰かの言葉。そういったものに何かがあるはずだと思って色々私たちも探すのではないでしょうか。しかし、結局帰ってくるのは聖書であります。ですから、私などは最近はこう思っています。聖書を理解するためにあらゆる書物や思想信条があると。だから、時に聖書と真逆のことを言っている内容の本であったとしても、私には非常に有益である場合があります。聖書の考え方を際立たせることになり、何が最も重要であるかということが明らかになるからです。

 例え、神の言葉でない何かを求めても、結局神の言葉に帰ってくるのです。ここではないどこかというものを求めても、結局今のところに立ち返って来ない限り同じことで引っかかり続ける。新しい何かに逃げても結局もどってこなければならない。

十戒に立ち返れ

 イエス様が「永遠の命を得るためにはどうしたらよいのでしょうか」と言った、青年におっしゃられたことは、結局は十戒に立ち返れという、当時の社会ではスタンダードな考え方でありました。十戒において何が大事かといえば、それは十戒の前文とも言われる部分です。お読みいたします。出エジプト記20章2節です。

 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

 自由がなく、支配されたくないものに支配されていた生活。そのところから解き放ってくださりまことに人として神のものとして生きる道を開いてくださった。決定的に重要な神の支配というものを与えてくださった。その主をまことに信頼するということです。

しかし、十戒の精神に生きていなかった

 若者は、実は十戒を行動の上ではしっかりと守っていましたが、神の支配というものを心から信頼していたかどうかということに関しては怪しかった。というもの、イエス様はこう言われました。19章21節。

 もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。

 持ち物を手放していくということがすなわち神の支配を信頼するということとつながります。私たちが献金を習慣としているのはこのことのゆえです。すべてが神様から与えられているからこそ、神の支配を心から信じるからこそ、これらの財を他者のためにささげることができる。だから、ささげるとか捨てるということが極めて重要なことなのです。

 若者はそれができませんでした。なぜなら、たくさん財産を持っていたから、そんな都合の悪いことをイエス様がまさか言い出すなどとは思ってもみなかった。富に支配される歩みをしていたということに彼は気づいていなかったのです。

永遠の命というのは「支配をめぐる問題」でもある

 この記事からわかることは永遠の命というのは「支配をめぐる問題」でもあるということです。でもあるというのは、肉体の復活や新しい天と地という様々なことがらも含みますのでそういう言い方をしたわけですが。しかし、この支配をめぐる問題こそが最重要問題でもあるのです。一体あなたは何に支配されて生きていますか。そのことが問われているのです。十戒で問うているのはまさにそのことです。神によって導かれ、神の支配があなたのところにあるのか。未だエジプトに支配されているのか。それともほかのものに支配されているのか。そういう問題なのです。

 青年は財産に支配されていました。だから、それを捨てろと言われてもそれがなければ生きていけないと心の底から思っていました。財産に支配されていましたので財産を捨てることができなかったのです。

キリストは捨てよと迫られる

 イエス様は「捨てよ」と弟子に迫られました。それは、神の支配の中に生きるということをお教えになられるためです。弟子たちからすべてを奪い取ってしまおうとはもちろんイエス様はお考えではあられません。しかし、捨てることをもって、神の支配を心に受け入れる。その過程を経なければ、誰かよりも自分が抜きん出るだとか、自分のコンプレックスを解消するために神の名を使ったり、自分が誰かとは違うのだということを言うために神の言葉を使ったり、誰かと自分との差異やあの人の方が優れているとかいうような比較に自分を落としていったり、あらゆる問題が立ち上ってくるのです。

 おのれが持っていると思っているもの全部捨ててしまえとキリストは迫られる。その上で神の支配を味わえということなのです。

キリストはおっしゃられました。

 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。

 「捨てる」ということこそが、神の支配を心から信じるということのキーワード。捨てないでキリストの支配を信じるなどということはありえません。イエス様ご本人がご自分の命を「捨てる」ということをもって、私たちへの愛を示してくださった方です。「捨てる」という行為こそが私たちがキリストの弟子であるということを指し示す行為でありましょう。

 自分の命にしがみついて、自分を守ろうとしている。そのひとは神の支配を信じていないとも言えます。神が守ってくださることを信じないからこそ、自分を捨てることができずに、必死に自分を守る生き方をしなければならないわけです。しかし、逆説的ではありますが、自分を捨てるものは自分の命を得る。そのようにキリストの後を追って、自分を捨てる歩みをするようにと神様は導こうとされている。

教会は御自分をお捨てになるキリストの後をついていく

 教会は神の支配を信じて、自分自身を他者のために、隣人のために捨てることができる。そういう歩みをしたいと心から願います。そこには神の支配があり、神の支配があるところ神の業が起こります。神の業が起こる交わりでなければ、教会は何のためにこの世に存在しているのでしょうか。明らかに神は私たちの献身を求めておられます。献身によって物事を動かそうとされておられます。百倍もの報いを約束してくださっている。私たちが神のために何かを捨てるときに。

神の秩序が打ち立てられる時

 神の秩序が打ち立てられる時、そこには不思議なことが起こるのです。19章30節を見ますと。

 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。

 ペトロというのは弟子の筆頭でありまして、明らかに目立つ存在でありました。彼は命をかけてイエス様についていくと豪語しておりました。しかし、その志は吹き飛びました。イエスさまが捕まり十字架にかけられていくその圧倒的に不利な状況で、自分を守るために、イエス様を知らないと三度も言ってしまった。

 すなわち自己保身のために、そのような決断をしてしまった。その時ペトロは地に落ちました。神様の思いからは程遠いところに落ちたのです。先にいるもの、めだってクリスチャンのリーダーのようであったはずが、後にいるものとなった。そこまで落ちたのは自己保身の欲求のためです。

 しかし、そのペトロを神様はお用いになられて、教会の礎となさったのです。こんなことは普通は考えづらい。不信仰なやつはどこまでいっても不信仰。そう私たちは考えてしまう。しかし、そうではない。神が用いられるのであればどんな人でも用いられる。神が先頭に立てようと願えば、一番後ろにいたひとも前に行かされる。それが神の支配を信じるということです。

捨てる

 私たちが捨てるという決断をした時に、神の支配が入り、神の支配のあるところ不思議な神の業が起こる。十字架を前にしてご自分を捨てられたイエス・キリスト。そのお方に付き従っていく私たち。捨てるとはどういうことか、自分は何を捨ててキリストに従うのか。そのことを問いはじめたいと願います。キリストは私たちのために命を捨てられたのです。私たちはそれにどう応えるのか。問いながら、キリストの御足のあとをたどっていきたいと思います。アーメン。