使徒言行録 2章1-13節 「響く言葉」

回復させてくださるキリスト

 キリストが十字架にかけれて、弟子たちはそこで「すべてが終わった」と悟ったはず。しかし、すべてが終わったというその地点から、キリストは教会を建て上げて行かれました。御自身の姿を弟子たちにお見せになって、まことに復活ということがありうるのだということを示してくださった。死してなお、神が回復させてくだださるその世界。死で終わりではない、神のちからに依り頼むのならば、人はそこからまたスタートを経験することになるのだとキリストは弟子に御自身の姿をもってしめしてくださいました。  この復活という地点が決定的に重要であり、私たちの起点となっています。回復、復活させてくださるのです。

キリストご本人のお姿を

 キリストは御自身のお姿をお示しになられることをもって人をお集めになられます。弟子たちのところにこられました。エマオという村に弟子が歩きで向かっている時、「話し合い論じ合っていると」とルカ福音書に書いてありますが、イエス様が復活したとほかの弟子たちが言っていたけれども、それは本当なのかと議論していた。集中して出来事について話し合っていたのです。するといつの間にかイエス様がその二人の近くにこられて、亡くなったはずのイエス様がいつの間にかそばにおられて、復活のイエス様に出会っていた。

 そのことに気づくと、心が燃え、心が燃えるとほかの弟子とこの出来事を共有しないではいられなくなって、弟子が集まるということが起こっていきました。散らされていたもの、ダメになりそうだったもの、希望を失いかけていたものがキリストが顕現してくださることによって集まる。

キリストが御自身を現されて

 教派によっては教会を「集会」と呼ぶところもあります。そのままですが、しかし、教会の本質がその言葉に示されていると私は思います。復活のキリストが御自身を現されて、その出来事におどろいて集まっているのが教会なんだ。と思い起こさせるからです。エマオ途上の話のように、キリストは実は近くにおられて、みなさんの傍らにおられて、意識するのならば、それを信仰をもって信じ確認することができる。それが我々の信仰でしょう。キリストと出会う人はそれを言葉にできなくても、未だなんだか頭ではよくは認識できていなかったとしても、とにかく集まって、礼拝し、よくわからないところも大いにありなんだけれども、キリストの名のもとにとにかく一緒にいるということがはじまります。

牧師としての責任

 ですから、私は牧師としての責任はまずは「この方の側にキリストがおられるのだな」と丁重に教会にお集いになられている方に接するということです。先日主のもとに召された、亡くなられた静静子姉妹の側にキリストがおられたのだな。だからこそ、姉妹が最後の時まで平安に、おそらく感謝をもって、主を讃美しつつ、歌は歌えなかったかもしれないけれども、存在すべてをもって主に感謝をしつつ歩まれたのだな。祈りに生きることができた、それは主が側におられたからにほかならない。

 そう、すべての皆様に対してもそのような視点で常に生きるということが私の責任です。この責任感を共有してくださる方がおられれば、どうぞ牧師がそう思っているのと同じように、皆様も互いにお互いのそばにキリストがおられるということを信仰の目によって見ようとしていただければと思います。

ペンテコステの日

 本日はペンテコステ礼拝です。ペンテコステというのは聖霊降臨祭、また五旬祭とも言われます。聖霊が降った日で、この日から教会の歩みがはじめられた、教会の誕生日とも言います。

 五旬祭というのは、私たちの習慣からすると、馴染みの無いものかもしれません。五旬祭というのは、モーセの十戒がシナイ山で与えられたことを祝う時です。神様が降ってくださり、特別なことをこの人間の世界に行ってくださる。そのことを心から喜ぶ日とも言い換えていいとおもいます。

 また、この十戒が与えられることによって、神の民の内実が、内容が整えられていきました。この十戒がなければ神への信仰が何たるかということも、おそらくそれぞれが好き勝手に言いたいことを言って、信仰がめちゃくちゃになってしまったのではないかと思います。この十戒、律法によって神への信仰が守られてきました。

 十戒は出エジプト記20章に書かれています。それ自体非常に重要な言葉です。しかし、十の戒めのみが大事なのではありません。その前に書かれている19章こそ、私は決定的に重要なことで私たちが記憶せねばならないと思っています。出エジプト19章3節以下。

 「ヤコブの家にこのように語りイスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た わたしがエジプト人にしたこと また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従いわたしの契約を守るならばあなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」

 神様は、神の民をどのような民とされるのか。まずは宝の民として神様が大事にしてくださるということです。それから、祭司の王国とし、聖なる国民とする。とおっしゃられます。祭司というのは、献げ物を神様の前にささげて、人間と神様との間を取り持つ人です。神と人とをつなぐひとです。

 神と人とをつなぐために、内容を整える。そのための十戒です。それが五旬祭で思いおこされることです。

つながっている

 神様はあえて五旬祭、十戒授受を記念するこの時を選ばれて、ご自分の霊を人々に注ぐということを行ってくださった。それは、キリストの名のもとに集まる人々がその内実を整えるため、実際にこの世でのキリストの体として教会が生き始めるためです。神様がなさることには全て背景があって、この旧新約聖書ははじめからつながっています。私は教会に来た当初はイエス様の言葉だけとにかく読んでいればいいじゃないかと思っていましたが、それは誤りでした。イエス様の言葉を味わい尽くすためには、旧約が必要です。イエス様はこの旧約を前提にしてこそお話をされていますし、今見てきました、モーセの十戒もこのペンテコステとつながっている。聖霊降臨を神様が行われるその理由というのは、モーセの十戒、その十戒をなぜ神様がたまわってくださったのかということとつながっているわけです。弟子たちに聖霊を注いで信仰者としての内実を整えさせて、もはや文字に記される律法ではなくて心に示される律法。良心を通して私たちに迫り来る欲求。こうすべきだ。イエス様だったらどうなされるのだろうか。イエス様への愛によって、私たちが神の民としての内実を整えていく。聖霊が注がれることによって内実が整えられていく宝の民とする、祭司の王国とする、聖なる民とする。神様によって大事にされ、宝とされ。宝というのは掲げられますが、証の灯火として人に見えるところに置かれ。誰かと神様をつなぐ繋ぎ目となり。

 聖なる民。聖なるというのは分かたれたというヘブライ語の意味がありますが。世俗からわけられて、清められて、神様のところに、神様との交わりの中にいれられるのです。世俗から分けられるというのは、この世から隔絶された世捨て人になるという意味ではなく、この世にあって、地の塩、世の光となるということです。塩というのは世に味をつけて、面白い、美味しいもの、食べると肉になる、身になる、社会や世に対してそういう有益な人となるのです。塩はまた腐敗を防ぎます。社会が腐っていくのを防ぐ役割がある。世の光というのは、闇を照らす希望の光り。この世界を導く光となる。そういった意味で世と分かたれる。聖なる民とされるのです。

聖霊が降る時

 使徒言行録2章1節を見ていただくと「一同が一つになって」と書かれています。一つになるということが強調されているんです。神の名の元にあつまり一つになる。これが聖霊を受ける下準備です。復活の主にそれぞれが出会う体験を与えられ、イエス様の姿が心の中に示される。しかし、それだけでもまだ十分ではない、そのキリストを心に抱いている人は出会わなければなりません。そして、一つになって集まらなければならない。それが聖霊を迎えるための下準備です。

語り出さずにはおれなくなる

 すると、それぞれが語り出さずにはおれなくなる。この初めの聖霊降臨の時は、驚くべき語りがなされました。それは外国語でそれぞれが全然知らない言葉を話すことになった。さらに、それを聞いている者達というか、この箇所をよく読むと、物音を聞いて集まってきた外国語を話せるユダヤ人たちが、自分たちの故郷の言語であるその外国語を次々と聞くということが起こったというのです。一つになっていると、語りだすものが出てきて、その語り出すものの言葉を理解する人があらわれてくる。ほかの誰が理解できなくてもその人にはしっかりと届き、しっかりと分かる。言葉を全然知らない人が知らない外国語で話すのを聞くということは奇跡でありましたけれども。奇跡が起こされて、神の言葉への理解というものが与えられていきました。

この時どうして外国語で語りだすことが大事だったか

 この時どうして、外国語で弟子たちは話し出さなければならなかったのでしょうか。そこには神様の大いなる意図というものがある。エルサレムにおいて、このエルサレムにとって外国語が語られる必要があった。身近な例えで言えば、日本におられて韓国語を母国語とされる方がおられます。言うなれば、そういう方々が母国語の韓国語で恵み深い言葉を、例えば日本人で私など韓国語が話せない人間が突然はなしだすと。。。

 エルサレムに礼拝に訪れて、外国語が語られていて、それが分かった人というのは、いわゆる離散したユダヤ人たちです。ディアスポラのユダヤ人のことです。ディアスポラのユダヤ人達はこういう思いを抱えておりました。「自分たちは聖地エルサレムから離されてしまい、もしかしたら見捨てられているのではないか。」という霊的枯渇状態。飢え渇きがあったのです。故郷を持ちながらも、故郷に住まわることができない寂しさも抱えていた。

 また、この地域の名前の中には、メディアとエラムという地名がありますが、このメディアとエラムという地名に関して伝承されている言葉があります。それはこういう言葉です。

 「メディアは病んでおり、エラムは瀕死の重病だ」 高橋三郎著「使徒言行録講義」

 この地域ではユダヤ人が他国の民と結婚し混血が進みつつあった地域でした。ユダヤ人の中には血の純粋さというものを大事にする伝統があったようで、混血が進んだ民のことを「病んでいる」と表現したり「瀕死の重病だ」と表現するものいたということのなのです。だから、ディアスポラのユダヤ人は、蔑まれ、虐げられ、歴史の中に消されていこうとしていたとも言えます。その人々に神に手が向かっている。神の手が伸ばされている。その人々は見捨てられていない。そのことをハッキリと神様がお示しくださるために、あえて外国語を、ディアスポラのユダヤ人にとっては自分の母語を神が語りだすということが起こされたのでした。寂しい思いをしているユダヤ人に、「あなたのことを決して忘れてはいないのだ」と示してくださった。それがペンテコステの出来事なのです。

 使徒言行録はここに記された地域にいかに神の手が伸ばされていくのか、伝道が進んでいくのかということが記されていった書物です。

決して1人では完結できない

 神様は私たちに真の人と人との出会いというものをご準備くださいました。ペンテコステというのはバベルの塔の逆。バベルの塔で人々が言語がバラバラにされて理解しあえ無くなってしまった。という出来事でありましたけれども、ペンテコステは言語が例えバラバラであったとしても、それでも互いの間に理解が生まれ出会いが生まれ、神の手足として世界に遣わされて行くということが書かれている。

 これらの体験というのは決して1人ではできない、出会いというのはそもそも1人では出会えない、理解しあうということも、1人ではできない。相互の交わりが起こされていく。語りだす人が聖霊によって起こされて、誰かが語りだすと、つぎつぎと出会いが起こされていく。出会いの中でまた、神の聖霊を知っていきます。

ペトロはペンテコステの後

 ペトロはペンテコステの後、立ち上がって語りだしました。その言葉に皆が心うたれました。心うたれた人達は言いました。2章37節。

 兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。

 神の言葉を聞いて受け入れると人と人との関係性も変わります。より親しくなる。ペトロの語りを聞いていたひとは思わず「兄弟」と呼びかけてしまいました。私の知り合いの牧師に深谷春男先生という方がおられるのですが、この牧師はお会いすると笑顔で。「おぉ、兄弟!」と大きな声でいいますので、恥ずかしくなりますが。聖霊によって関係性がいつのまにか深められていく。

 兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。

 と問いかける人に対してペトロは言いました。

 悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。

聖霊を受ける秘訣

 ペトロは聖霊を受ける秘訣というものを教えてくれています。まず、悔い改めよ。ということです。悔い改めるというのは心を変えるということ、ある人が聖書を読んでいて白のものが黒に、黒のものが白に見えてきた。とおっしゃられた。そのように、神の前で価値観の大転換が起こされる。それが悔い改め、悔い改めるためには、心をまっさらにして神の言葉に聞かなければなりません。

 そして、洗礼を受ける。古い自分に死んで新しい自分に生まれ変わる。すると、そこに聖霊がくだるというのです。聖霊が下ると様々なことが起こります。まずは、この聖霊降臨節の時のように、誰かに神の言葉を語りたくなるでしょう。黙っておれなくなる。そして、神の言葉が刻まれ、心の板に律法が、神がこうすべきだと指し示す良心が生まれて、神がこうすべきだとおっしゃられているということがおぼろげながらわかるようになって、それはやがて確信に変わり、行動に至ります。

 心の板にすべきことが記されるようになります。人によって、世界に出ていこうと思う人もいるかもしれない。誰かのために必死にはたらこうということかもしれない。とにかく、自分にとっての天職が示されて何をすべきなのかが明らかにされます。

 パウロの手紙にこのような言葉があります。コリントの信徒への手紙二3章3節。

 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

今日洗礼を受ける方が

 今日洗礼をお受けになられるDさん。神の言葉を聞かれ、悔い改めて心を変えられて、洗礼を受けるという決意を固められました。この方に主の霊が注ぎ、私たちと真の出会いが起こされ、兄弟、姉妹。キリストの体の一部とされて、聖霊が注がれ、心にキリストの思いが記されて、キリストの法にしたがって、これから歩まれます。この歩みがまことに聖霊に満ちたものとなるように切に願います。洗礼式をいたしましょう。アーメン。