マタイによる福音書 5章43-48節 「敵のために祈る」

花の日・子どもの日

 6月の第二日曜日に花の日・子どもの日が、プロテスタント教会では設定されております。これはそもそも、この時期というのは欧米諸国においては、とても気候の良い時期でもあるし、お花が手に入る時期でもあります。ですから、この気持の良い季節に、日本ではもしかしたら梅雨時で真逆かもしれませんが(笑)、感謝をもって周辺施設や、ご高齢の方々を子どもたちが問安するという習慣ができていきました。

 感謝をよくする。それが教会です。恩をよく知る民でありたい。普段申し訳ないけれども、あまり意識しないお世話になっているところというのはたくさんあります。多くの教会においては消防署や警察署に、お花をもって問安をします。たしかに、本当に困り果てた時、火事や事件やその他もろもろの緊急事態に消防署や警察の皆様にお世話になるのです。この方々が私たちの安全を根底で支え守ってくれているというのは疑いようがない。しかし、普段あまりも当たり前過ぎて、交番の前も素通りですし、消防署の前も素通りです。それは考えてみればおかしなことです。神様に普段から感謝し続けている私たちなのに、目の前の具体的なことではそれをあらわせないのか。

 実は、子どもと一緒に、いや子ども教育のために、花の日、子どもの日を設定したのですが、このことを設定することによって一番心が変えられるのは、実は大人たちであるのです。本当に感謝すべきことに感謝し、この感謝の相互作用によってさらに良い関係を作っていく。本当に感謝すべきこと、自分は何によって今があるのかということ、このことをしっかりと見る目を持ちたいと思います。父母にまず感謝する、おじいちゃん、おばあちゃんん、友人、周りの人々。感謝すべきことを見つけていきたいと思います。

イエス様は感謝をお喜びくださるはず

 イエス様は私たちがいろんな人々に垣根なく接し、普段言えない感謝を、お世話になっている人に言うということをお喜びくださるはずです。イエス様は垣根なく皆を大事にされました。しかし、イエス様ではない、ユダヤ人達はそうではありませんでした。垣根を作りました。どんな垣根を造ったのかといいますと「隣人」という垣根です。誰を隣人と設定するのか、誰をそうではないと設定するのか。そういう考え方があった。

 旧約聖書のレビ記にはこういう言葉があります。レビ記19章17〜18節。

 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

 自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。と書いてありますが。ならば、隣人でなければ愛さなくて良いというふうにユダヤの民は考えていました。ただ本日の箇所をよく読んでいきますと。まるで「敵を憎め」と聖書に書いてあるかのようにイエス様はおっしゃられていますがこれは一体どういうことなんだろうかと思います。

 あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

 敵を憎めと命じられているところっていうのは実際には聖書にはない。しかし、ユダヤ教の中にはそういう言説というか考え方はありました。

「敵を憎め」という考え方

 敵を憎めはどこにも書いていないので、聖書学者たちは一体これはどこから来ているのだろうかと悩むところでありました。旧約聖書には書いていない。ではどこにあるのか。ある人はこう考えました。ユダヤの支配者であったローマ帝国、このローマの民の中にこういう考え方があったのではないか。確かに古代ローマ人にとっては、共に親切にして敵を倒すということは賞賛に値する徳であるとみなされていました。

 しかし、果たしてイエス様は、ローマのことわざに対抗するためにこういう「隣人を愛し、敵のために祈れ」と言われたのでしょうか。

 マタイ福音書の構成からして、それはありえません。イエス様はこれまで、ローマのことわざに対してこういう考え方がある。という話し方ではなくて、旧約聖書の考え方に対して正しい理解がある、こうだというふうに語ってきました。本日のマタイ福音書5章全体は、「昔の人々はこう言っている、しかし私は言う」という形で進められてきました。昔の人々というのは旧約聖書を知っている人、旧約聖書そのものを皆がどう理解しているか、理解が偏っているのではないかということで色々ご指摘くださってきました。

 本日の箇所もその流れの中にありますから、ユダヤ人が当たり前のこととして受け入れていたユダヤ人の習慣や考え方に対してイエス様は言っておられるのです。ローマという聖書を知らない民に向かっての言葉ではないのです。

クムラン教団

 1947年ごろに死海の周辺である洞窟から、写本が発見されました。いわゆる死海写本と呼ばれるものです。この写本を残したグループのことをクムラン教団といいます。このクムラン教団というのはユダヤ教の中の一派です。ユダヤ教の中にはファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派という三大宗派がありましたが、このエッセネ派に属する集団です。

 エッセネ派というのはいわゆる世捨人の集団です。世俗から離れて純粋な信仰の道を歩もうとした人々のことを総称してエッセネ派と言いました。このエッセネ派に属するクムラン教団には私たちが毎週告白していますような信仰告白がありました。その巻物の中にこんな言葉があります。

 神が選びたもうた者すべてを愛し、彼が見捨てた者すべてを憎むために・・・

 さらにこんな言葉も残されています。

 これらは、この道の規範である、・・・これらの時において、愛と憎しみについての、破滅の民への永遠の、しかし隠された憎しみについての規範である。

 エッセネ派の会合の時には、こういうことも読み上げられたようです。

 不正のある者を常に憎み、正しき者に味方する。それが規範でありました。

自己絶対化

 クムラン教団やエッセネ派の人々は、神は自分たちと同盟を組んでおり、神は私たちをこそ守り、私たち以外の人々を最終的には滅ぼすであろうと考えていました。だから、仲間を愛し、同じ教団の人を愛し、外の教団の人を憎むということがまかり通っていました。

 だからこそ、外の人を滅ぼすのだからこそ、外の人はだれで、隣人は誰。外の滅ぼされるべき人はだれで、内の救われる人はだれ。そういう発想を持つことが当たり前となっていったのでした。現代に生きる私たちは、特に日本に住む私たちは、こんな区別を付けてしまうことが本当に起こるのか。なんと愚かなと思います。しかし、中世の多くの戦争が宗教戦争であり、内の民と外の民とを分けて、隣人でないものを滅ぼしてきたそういう歴史があることを忘れてはならないでしょう。

敵も隣人

 ユダヤ人達は、敵は隣人に入らないとしました。しかし、イエス様が敵は隣人に入るとおっしゃられているのです。隣人に垣根などもうけてはならない。レビ記19章18節に書かれていることは書かれているままに理解せよということなのです。

 自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。

 という言葉は、隣人はあの人、この人とは言っていない。あなたのすぐ近くに住んでいるすべての人。誰もかれも例外はない。すべての人を愛せよと命じておられるのだと、イエス様は理解しお教えくださったのです。

 解釈1つでこうも、内容がかわってしまう。それが律法というものの恐ろしさであり、私たちも法を持って、法置国家として歩んでいますので、痛いほどによく分かります。

 イエス様は、この律法の文章の中に何が入るか入らないのか。ということは議論されません。そうではなくて、神の御心を読み取られます。神様はイスラエルの民という神の民を用いられて全世界の民を愛そうとしておられる。その手となり足となり、イスラエルは神と人とをつなぐ祭司としての尊い役割を担っている。だからこそ、別け隔てをせずに、どんな人をおも愛さなければならない。それが神のご意思である。

人間はちょろちょろと

 しかし、人間は神の思いなどに思いを馳せることをせずに、ちょろちょとと目の前にある条文と、現実と、それから自分がこれをしたいということ。あの異教徒を貶めたいというその悪い動機によって物事を判断していく。だから、神の思いなどどうでもよくなっているのです。自分がこうしたい。あの人を陥れたい。そういったことが先に来ているのです。そんなことを考えることがいかに愚かで小さいことであるか。それさえも見れなくなっている。己の正しさを何とか主張しよう。なんとかこの教団の正しさを守ろう。それが絶対目標になって神に従うことよりも前に出てしまう。神に従うことよりも、自分たちが清いことを主張することが先に来てしまったために、神の思いをふみにじるということをしてしまうわけです。

愛するとは

 では、愛するとはどういうことでしょうか。よくギリシャ哲学や、ギリシャ語を持ってきて説明がなされます。アガペー、ストルゲー、フィリア、エロスと。アガペーは神の愛だ、ストルゲーは肉親の愛だ、フィリアは友情だ。エロスは男女の愛だ。と説明がなされます。そのとおりでこの分類はとても分かりやすい。しかし、私たち教会が追い求めている愛はなんなのかという説明をするときに、それはアガペーだといってもはて、それは具体的にどんな行動に現れるのだろうかと思ってしまうところがある。

 しかし、こう考えれば間違いはない。愛とは何かといえば、それはイエス様そのものです。イエス様の行動を見れば、愛とはなにかがよく分かります。愛とは何か。それは相手のために「命を捨てること」です。

本日の箇所でも命を捨てている

 イエス様は、愛する目の前の民が目をさますようにと、言葉を次々と発せられました。本日の箇所は山上の説教とよばれて非常に有名な箇所です。このほとんどの言葉の中には、旧来のユダヤ教の体制というか多数派に対する批判が散りばめられています。本日のところも、隣人という言葉に条件をつけて、あの人は隣人、この人は隣人じゃないなどと言っていることに否を唱えているわけです。いうなればこれまでの常識的な考えに否と言っている。力ある多数派に対して喧嘩を売るような言葉をつぎつぎと使っている。

 しかし、本当のことが見えるようにと、イエス様は決して言葉を止めない。つぎつぎとファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、ユダヤ教の主流な人々に対して都合の悪い言葉を重ねていくわけです。

 これは命がけの行為です。実際イエス様は十字架にかけられてしまうわけですが、当時の社会であれば、これだけ真っ向から主流派のしていることに対して批判をくわえれば、イエス様自身が敵であると判断されてしまうということです。しかし、正しいことをイエス様は真っ向からぶつけて、目を開かせようとされたわけです。自分の命を顧みず。

 これが愛です。

愛のイメージ

 愛ということのイメージが誰にとっても「良い人を演じる」ことが愛であると考えてしまう場合があります。すべての人から受け入れられる人。すべての人が受け入れられることを言っている人。周りから良い評価を受けていれば愛のある人であると。

 また自分もそうならなければと思って人に好かれることをしていく。私も気をつけないとそんなふうにすぐになります。みなさんだってそうでしょう。

 良い顔をし、いつも笑顔で、やさしく、ふわっと包み込む。のが良いとすぐに考える。口から発せられる言葉も常にやわらかくてやさしい。しかし、それは愛ではない場合があります。愛ではなくて、それによって自分の評価を高めるためだったり、自分が嫌われないように、よく見られるようにそれをしているのかもしれない。

愛というのは友のために命を捨てること

 苦々しい顔をして、人から嫌われていても構わない。好かれるか嫌われるかなどもはやどうでもよい。相手のためになるのであれば。どんな評価を受けても構わない、悪人と思われたって構わない。この人のために、この人のためになることを、この人の最善を願う。

 ヨハネ福音書15章13節に、愛とは何かイエス様ご本人がお教えくださっています。

 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることをおこなうならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。

愛する入り口は祈ることから

 愛を追い求めたいのならば、その入口は1つです。それは敵のために祈るということです。祈るということはどういうことかというと、その人はあなたにとって敵で大っ嫌いかもしれないけれども、そのひとに最善がなされるようにと神に祈るということです。マタイ5章44節。

 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

イエス様は愛

 イエス様がなぜ愛なのかといえば、自分を迫害する者のために祈ったからです。敵を愛しておられたからです。イエス様はご自分の前にいろんな動機をもって現れるその人達にいろんな感情をもっておられたでしょう。時に怒りにもえるときだってありました。しかし感情ではなくて、とにかく愛を身をもってお示しくださいました。十字架の上で祈られました。ルカ福音書23章34節。

 父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

 目の前にいたのは、イエス様にとっては敵ばかりでありました。イエス様を無理やりひっ捕らえて来たローマ兵。周りで十字架にかけろと叫んでいたユダヤ人達。それらを傍観していた群衆。イエス様を一度は主と受け入れながら、危機が迫ると逃げてしまった弟子たち。人間の信仰なんてそんなものか、都合が悪くなったら捨ててしまうのか。命をかけてついていくと言った弟子の言葉は嘘だったのか。。。嘘はつきたくなかったでしょうが、嘘であったのです。弟子の言葉は。

 それらイエス様の周りにいた人々の多くが罪を犯し、キリストに罪を犯し、敵となってしまっていたのです。しかし、イエス様はその群衆の最善を願って、赦しを願って祈り続けられたのです。それが愛です。感情はどうあれ、相手の最善を願い、自分をささげてしまう。それが愛です。

 キリストの体として私たちが生きていこうと願うなら、「いい人」とみられる必要はないです。愛すればいいのです。愛とは、自分が善人とみられるのではなくて、悪人とみられたとしても、相手のために、最善を願い、相手のためになるのならば、勇気を持って言うべきことを言い、相手のためになるなすべきことをなすことです。結果自分自身をさえささげてしまうことです。

 このキリストの愛は実行が伴わないと伝わっていきません。いくらこうやってここで愛はこうだと言っていても、実際に行動では違っていたら何の意味もありません。友のために命を捨てるとはどいういうことか、自分に問い、イエス様の姿を追いかけて行きたい。本気でイエス様のあとをついていくのならば、私たちの子どもたちはその足取りをたどってくれるはずだと信じています。もし子どもたちがついてこないのならば、私たちが実行していないからでしょう。

 子どもたちの成長を願うなら、大人が厳しく自分に、キリストのあとを追っているか問うべきです。そこがスタート。敵のために祈り、敵のために命を捨てる。キリストの命にあずかりたいと願います。アーメン。