マタイによる福音書 6章5-9節 「隠れた思いをご覧になる」

絶対者を見て生きる

 私は2001年7月1日に洗礼を受けてから、もうまる14年になろうとしています。キリスト者としての歩みもずっとひよっこだと思い続けてきましたけれども、もう14年も経ったのだと思わされています。日々いかに自分を献げるのかという課題を持ち続けています。非常にシンプルな1つのことに向かって自分が歩み続けているのを感じます。あまり人生を単純化させるということはいいことではないと思っていながらも、シンプルにならざるを得ません。キリストというただお一人の方を追いかけていくというただひとつのことをしていきたいと願っています。

 キリストのようにいかに自分を献げ尽くすことができるのか。いかに神のご恩に応えるのか。それは、既に与えられている関係性への感謝へと広がっていきます。どう親の恩に応えるのか、神が親を遣わせてくださった。どう友の恩に応えるのか、神が私をあの友の傍らにおいてくださった。ご恩に応えて、自分を献げるのです。もちろん綺麗にこの言葉どおりに献身の歩みができているわけでは全くありません。挫折挫折挫折の毎日です。しかし、キリストが導いてくださっているということを信じて、自分自身に失望しないように自分を叱咤激励しながら歩みを続けております。

 以前と決定的に違う歩みをしていると思います。それは絶対者を前に、絶対者に支えられながら、絶対者と対話をさせていただいて歩んでいるということです。この絶対者との対話においては、もはや人の顔色を気にせず、人の評価に縛られず、人にごまをすって生きる生き方をやめるという歩みに召されているということを感じます。明確な1つの軸、それは神様を見上げるということですが、この軸によって歩ませていただいているのを強く感じます。

人の顔色を気にしないで生きる

 「あなたは神に従おうとしているのか」といつも問われています。そして人によってこの問に対して、「ああ、自分は神さまではなくて、他人にしたがって、他人に迎合して生きてしまっているな」だとか「ああ、自分は自分の思いばかりを優先して行きてしまっているな」とかいう答えが自分のこころの中から自然と湧いてきてしまうのではないでしょうか。私の場合はやはり「他人に迎合して生きてしまった」と後悔することが多いです。

 私は日本基督教団の大阪教区総会でそういう思いになることが多いです。議案に対して賛成反対を挙手しなければならなくなったときに、隣の人が、先輩が、あの人がどういう意見をもっているのか。それは聞けばいいし、自分が納得した上で賛成するというのならば良いと思いますが、あの人が言っているからというだけで、頷いてしまうといいますか流されてしまうことがある。

 このような場面って、遭遇するのは私だけじゃないですよね。どんな分野においても皆さんがおられる所で、起こることではないでしょうか。その時に葛藤を覚えるのか覚えないのか。それがとても大切なことだと思っています。誠に絶対者を前にして、神様へ思いを馳せながら決断をしているのかどうか。そのことがキリスト者になってからずっと同じ問題として私の中にあります。

祈れることこそ恵み

 私は以前は、あんな喜びに満ちた愛に満ちたように見えるキリスト者になりたいなぁと理想的な人を見つけては、ないものねだりといいますか、羨ましく思っていた時期がありました。しかし、いくらあの人のようになりたいと思ってみて、なろうとしてみたところでそれは虚しい努力であると最近はとても強く思っています。それよりも、今この与えられている自分という存在を用いて、祈り、神にぶつかっていく。この神にぶつかっていくということこそ自分がなすべきことだと思っています。

 善人に見られる必要もなければ、愛のある人とみられる必要もない。そうではない。とにかく今ある現場から神に祈りぶつかっていっているか。隣人でもなく、周囲の目でもなく、神にぶつかっていっているのか。これは岐路に立たされた時、どういう選択をするのかという時に際立って重要なこととなるでしょう。極めて重大なこと。どこを見て、どう決断するのか。です。

何を見ているか

 信仰において極めて重要なこととして「何を見ているのか」ということがあります。これは信仰においてといいますか、すべての人にとって極めて重要なことです。何を見ているかでどう考えるか、どう行動するのかは決まります。今日ご一緒に読んでいる箇所は6章ですけれども6章22節にこんなイエス様のお言葉があります。

 体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。

 神様の方を見ていなかったらとにかく暗闇に目を向けるしかないのだと、イエス様はお教えくださっています。全身が暗いというのは、その人の人生そのものが暗くなるということです。目がどこに向かっているのかで、明るいか。暗いかが決まってしまう。

見てもらおうとして

 マタイ福音書6章1節には。

 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。

 と注意をイエス様がなさっています。見てもらおうとしてというのは、誰かの人間の目を見ながら善行をしているということです。善行というのは、ひどく漠然としていますが、当時の人々にとっての善行とは「施し」「祈り」「断食」です。

 人に見てもらおうとして善行をしようとすると、人が見てくれるところに出て行くということになります。6章2節。

 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

 神様の方をむいて、神様のために、神様がおよろこびくださるように。そのように他者のために施しをするのならば、確実に神様がその施しをした人に報いてくださる。報いてくださるというのは、応えてくださるということ。その人が行った業は虚しく地に落ちるということはないということです。しかし、もしもそれが神の方を向いてでないおんであれば、人から褒められようとしてそれを行っているのであれば、神様は何も報いてくださらないというのです。6章3節。

 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

 人を見て施しをするのではなく、見えない神様を見て施しをするのです。すると神様が確実に報いてくださる。

祈りにおいても同じ

 本日読んでおります聖書の箇所は、「祈り」に注目していますが、これも全く同じ。祈りも人に見てもらうようにしていたら、それは偽善的な祈りになるのだということ、偽善的な祈りにならないためにはどうするのかというと。6章6節。

 だから、あなたたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 奥まった自分の部屋というのは、我々の日本の家屋でいえばいわばクローゼットとか、全く真っ暗になるようなところです。自分自身の業も何も見えないところ、なんにも見ないで、神さまだけ見て祈りをしなさいということです。祈る時目をつぶるのは、神以外に何も見ないようにするためです。しかし、人間というのは浅ましいもので、目をつぶって見ていなくても、この目をつぶって祈っている自分を見てくれている誰かを見て祈っているということが起こります。

断食

 6章16節にも、善行の1つである「断食」についてイエス様がふれられていますが。その箇所も同じ。

 断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は断、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。

 苦しんでいる自分を見てほしい。どれだけ自分が大変なことをしているか。そんな思いで神の前で善行をしているというのは、神の前でもはや善行をしているのではなくて、人のまえで善行をして人からの報いを期待しているのだということです。では、どうすればいいのかというと。6章17節。

 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。

 誰にも気付かれずに善行を積む。それが6章20節にあるように、天に富を積むということになります。天に富を積んで、神様にお喜びいただくのが私たちの歩みだというのです。

言うは易し行うは難し

 神様を見て、人の顔色を伺わずに行動するということは、言うは易し、行うは難しです。大いなる葛藤を覚えることになります。人の顔色伺わずに祈り、行動したら、大変な反対や戦いに巻きこまれてしまうかもしれません。そこで、私たちキリスト者がまずすべきことは何かというと、「主の祈り」という主が教えてくださった祈りを祈りつづけ、その祈りを自分の言葉と願いとにし、この主の祈りが自分の体を通して実現されることを願っていくこと。主の祈りが自分においてまさに実現した時、神を見て行動をするということが実際に可能になるでしょう。だから、私たちは毎週主の祈りを祈り続けているということができるかもしれません。

イエス様が教えてくださった主の祈り

 イエス様がお教えくださった主の祈りは6章9節に記された祈り。主の祈りです。

 天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

 御国というのは神様がご支配。神様がまさにいまここにおられる。御心は神様のご意思、神様がこうなさりたいということです。人間の顔色をうかがうのではなく、神の顔色を伺って、神様に祈りながら、決断をしていく。そこに神のご意思がこの世で実現していく。神の国が、イエス様の思いがそこに。

 6章11節には。

 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

 とあります。キリスト者は毎食ごとに祈りをささげます。この行為こそが極めて重要です。食は誰が与えてくださり、何のために食べるのか。この祈りによってその日の行動が決まる。食事の時になにを見ているかでその日が決まる。

 自分で得て、自分の楽しみのために、この食事があるのだと考えるのであれば、さらにこんなうまいものを食ってうらやましいだろぉっていう思いで誰かにそれを見せたりするのであれば、その食事も虚しいものになります。自分を見せたり、自分を見たり、食べ物を見たりしてるだけです。

 そうではなくて、神を見るのです。これは神が与えたもうた恵みであり、これをいただいたということは神に「生きろ」と言われていると同じことであり、この神のご意思がここにあるのであれば、私はこの生命を何のために用いたらよいのであろうか。どうしたら神のご好意に応えることができるのだろうかと、思って祈るのならば、その食事は間違いなく祝福されたものになっていく。神からこの糧をいただいたのだ。神をみるその視点によって神の支配が、神の思いがそこに満ちてくるわけです。

 主の祈りに生きるということはそういうことを言うわけです。

イエス様御自身が実践者

 イエス様は本日読んだ周辺の箇所においては、みんなはこう考えているよね、こう行動しているよね。でも、よくよく考えてごらん、それって本当に神様を前にしていることになるのかね。という問いを。問いかけ続けました。特に偉い人々にとっては、非常に図星であるというか、善行を人前で輝かせて、人に見えるようにしながら、自分の信頼を勝ち取っていたはずですので、ものすごく耳が痛い話だったはず。だから、イエス様に対して偉い人達こそが反感を抱いて反イエス、反キリストになって最終的にはイエス様はを十字架にかけていくわけです。しかし、イエス様はそんな人々に対しても真実を知ってほしい。まことに神様のところで生きるとはどんなことか知ってほしいと伝えるために怖れずに、反感を買うようなことでも真っ向から言ってくださったのです。

絶大なる恵み

 私は、すごい人になりたいだとか、偉い人になりたいだとか、ちやほやされたいだとか。いろいろ夢を思い描いてきました。教会が大きくなったらいいな、だとか、日本がキリスト教徒でいっぱいになったらなとか、もっと人を感動させられる話ができたらいいなだとか、なにか人の役に立つことができたらなとか。

 しかし、そういう無い物ねだりをしてそれが実現されるということではなくて、神様は主の祈りのままを生きることを求めておられることに気付かされました。すなわち、いまここにある現実から神を見上げて、この中に神の思いを読み取って、この現実のなかで神が何をなさりたいのか。この現場から、神のお顔を拝すること。神にお伺いしつづけること。そのことをこそ大事なのだと。そうすれば道がひらけていく。

 すなわち、今すでに何ができるかではなくて、何ができるかできないかを一旦おいておいて、主の祈りそのものの中を生きることからはじめる。神様のお顔を拝し、神様との関係においてすべてを捉えていくこと。ここにいるのも神のご意思。ここにこうやって誰かと出会えたのも神のご意思。この日本で生活できるのも神のご意思。この日本から誰かを助けるために働くようにと言われているそう感じるのも神のご意思。今日ごはんを食べることができるのも神のご意思。徹底的に与えられて与えられて、神のご支配があってあってあって。その神の守りの中で、いかに天を見上げてそのお心に応えるのか。問うて行きたいと思います。アーメン。