マタイによる福音書 6章25-34節 「自分のことで悩まなくていい」

悩み

 毎日の生活で極めて重大な問題として「悩み」があります。「悩み」に支配されてしまっているような日常を過ごしておられる方もいることでしょう。心配の種というものはあとを他たちません。新聞を見ていても不安になります。インターネットを見ていても不安になります。明日は大丈夫なのだろうかと、御自分の歩みをみていても思われるかもしれません。しかし、そのような悩みに飲み込まれてはならないと、聖書を通して神の言葉が私たちに届けられます。聖書の神の言葉というのは、私たちにぶつかってきて、チャレンジを起こす言葉ばかりです。悩んでいる人に向かって「そのまま悩んでいなさい、そのままでいいよ」とは言ってくれない。「思い悩むな」との命令の言葉が記されています。

神の言葉

 神の言葉は平素の私たちの心の状態と対立する言葉です。あえて神様はそういうことのみを語られる。そのままでいいのであれば語られることもないでしょう。そのままではまずいから神様は私たちに語りかけてくださいます。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩んでいる心の状態というのを神様は良しとはされない、お喜びくださっているわけではないのです。

 神様は常にお与えになられる方。だから、それら必要なものは私たちが求める前から必要であることをご存じで、与えようとされて準備しておられる。なのにまるで与えられないかのように、あくせくして、焦って逡巡して、ほしいほしいと渇望して求め続けていることに対して違和感を感じておられるのです。

 私も経験がありますが、子どもがこれがほしい買って買って買ってと言う。しかし、本当に必要なものは常に備え、また将来与える準備も既にずっとまえから親はしている。しかし子どもは子どもの視点でずっと今欲しい何かにだけ目が囚われて、買って買って買ってと求め続ける。親の視点と子どもの視点というのは違うのでいたしかたないのですが、親からしてみれば、買って買って買ってではなくて、この私を信頼して任せてほしいと願うばかりです。

 子どもにとって本当に大事なことは、親の与えたいという心に信頼して、親についていくことだけです。まぁ、そんなことがわかっている冷静な子どもはいませんが(笑)、静かに信頼して親が何を考えているのかに思いを向けることができたら。。。

大人の現状

 我々大人の神様に対する現状というのも、買って買って買ってとダダをこねている姿と変わらないんじゃないかと思えてきます。やはり自分視点でしか物事を考えずに、天の視点で物事を考えることができない。だから、不安で不安でたまらないということがあるのではないか。

 空の鳥、野の花が抱えている現状というのは、悩みが全くないるんるんのお花畑のような生活ではありません。そんなに甘いものではない。その日一日生きることができるかできないかという危機、瀬戸際を鳥も草花も過ごしている。いつ人間に捕らえられてしまうか、草であればつまれてしまうか、分からない。今日一日を必死で生きるだけ、まさに一生懸命という言葉を地で歩んでいるのが、鳥であり草花です。明日まで生きることができるかわからない、うーん不安だ。などと考えて生きている自然の生き物などいないわけです。

 今日一日という与えられた瞬間だけ、必死に一生懸命に生きている。神に委ねて。それが空の鳥、野の花から学ぶべきことです。

自分の命は自分の手の内にない

 自分の命について、これが今日このあとも、そして明日も保たれるという絶対的な保障というのはありません。こんな若造ですから、ピンピンしていると皆さん思ってくださって、訪問で、「先生私の葬儀をお願いします。かくかく然々、この手順で。。。お願いします。」「確かにわかりました。しかし、私の方が先に召されることだってあるんですからその時はごめんなさい。」ということを言うと、「そんなぁご冗談を」と言ってくださいますが、私はいつも本気で言っています。この命は自分の手の内にない。この命は自分のものでもない。神のもの。だから、神が取られるときにすぐ取られることになるでしょう。今日もし生かしていただけるのであれば、これをしよう、精一杯しよう、全力でしよう。そのように一日を踏み固めて一日を淡々と重ねていく。

 思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

 寿命をわずかでも延ばすことができようか。という言葉は、身長を少しでも伸ばすことができようかという日本語の意味にも受け止められる言葉がつかわれています。

 神から与えられている命。身体的なものも自分の思い通りにならない。思い通りにならないこの命は天から頂いたもの。それなのに、明日生きることができるかどうかで悩むな。何を食べようか何を飲もうか、何を着ようか。これらのことは神がご準備くださるのだから。

天を見ていない

 本日の聖書箇所の少し前のところには、6章20節にはこう書かれています。

 富は、天に積みなさい。

 それから、22節。

 体のともし火は目である。

 何を見ているかでその人の悩みが決まる。思い悩むのかそうではないのかは、何を見ているかなのです。天を見て、天のことを考え、天に富を積もうとしているか。地上で富を積んでみたところで、それは明日奪われてしまう可能性の高いもの。だから、いつまでたっても不安がなくなりません。イエス様がお生まれになられた時、ヘロデ大王は新たな王の誕生を恐れて2歳以下の幼子を虐殺しました。弱く何の力も無い子どもさえも、強大な力をもっていた王は恐れた。この世のことのみ、しかも自分がどう守られるのか、どう王位を守るのかに執着してしまった。ヘロデ大王は2歳以下の幼子のみならず、身内を次々と処刑していきました。王位を受け継ぐ血を分けた自分の子どもさえも恐れの対象となった。それは自分を守ろうとしていたから。それだけを見ていると見ているもの虜になってしまうのです。 

 修養会にお越しくださった元茨木春日丘教会牧師の軽込昇先生。先生が役員会で教会の会堂建築を提案し、話し合ってその結果総会に議案が提出された。しかし、長老会提案であるその議案が、総会において否決されてしまい、会堂建築にすぐにはいたらなかった。という話を聞きました。

 私はあの話が衝撃的で心にずっと残っています。そんなことがもしも起ころうものならば、すぐに教会を辞任しなければと思ってしまうところです。しかし、軽込先生はそこで踏みとどまって、先輩牧師に相談した。すると「なぜ祈らないのか」と言われたと。すなわち悩みそのものに目を奪われるのではなくて、まず神を見る。神がどう為さりたいのかそのことに視点をシフトさせるというアドバイスでありましょう。その結果軽込先生は耐えて、結果年間来場者数が1000名にものぼる礼拝堂建築に至って、今もあの茨木春日丘教会が全く教会に興味のなかった人が訪れ教会に対する思いを深めてくださる場所となっています。本当に多くを軽込先生から学ばせていただいたと思っております。

 祈りの本質とは何か、教えていただいた思いがいたします。それは、視点を変えることであると。目をつむって、ただ言葉を列挙するのが祈りではない。祈りは天を見上げる。祈りはどうしても自分ばかりを見てしまう自分自身を神を見る方向にスタンスを変えるということ。

イエス様の視点

 イエス様は26節で。

 空の鳥をよく見なさい。

 とおっしゃられる。しかし、イエス様がおっしゃりたいことは、鳥がどうであるかということ以上にこの鳥を支えておられる、天の父の見えざる手を見よということです。野の花が着飾っているその様をみなさい。野の花の美しさを見よということ以上に、野の花を綺麗に整えてくださっている、天の父の見えざる手を見よということです。32節。

 あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。

 私たちが本当に必要な必須のものを神はすべてご存知で、そのためのご準備を整えておられる。だから、33節。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

神の国と神の義を求めるとは?

 いつでもどこでも、何よりも。何をおいても、神の国と神の義を求めてよい。求めることができる。これこそが私たちに与えられている素晴らしい賜物です。どんなひどい目にあったとしても、人格が破壊されるんじゃないかというぐらいの他者からの攻撃にあったとしても、まったく人生がうまくいっていなくても「神の国と神の義」を求めることができる。そもそも客観的に見てうまくいっている人生を歩んでいる人などいるのでしょうか。良いことばかりじゃない。生まれてこの方一度たりとも素晴らしい幸いが押し寄せてくるような時を経験したことがない。というような人でも神の国と神の義を求めることはできる。それこそが大事なんだと教えてくださるわけです。

 神の国を求めるとは、神の支配を求めるということ。神の支配をまた見ようとするということでもあります。神の支配がどれだけ深く自分の人生の中にあるのかということを見ようとするそれが神の国を求めるということです。

 神の義を求めるとは、神の正しさをもとめるということ。特に自らのこれまでの罪を認めて、神様の前で懺悔をし、その赦しの中に生かされている。赦されて生かされている。赦されているというただひとつの私たちが得た正しさ。そこにまず立つ。神の赦しの中に生きることこそ義なる人の状態。それが唯一私たちが得ることができるまずはじめの正しさです。義です。

 それは言い換えると、正しさというのは、神の前で赦しを頂いて、ひざまづくことができるということです。神様のご支配を知って認めて、その神の憐れみの前にひざまづく。その時にはじめて正しく人生を歩むことができるようになる。そこからさらに、神の義を考えることができるようになっていくのです。

神の国と神の義

 神の国と神の義を求めたからこそ、ここに皆様はお集いになっておられます。神様のご支配を求めて礼拝をささげるためにここに集われたことと思います。この場所に主の御手によって導かれて来たのだと見ること。もうこのことが神の国を求めているということです。今日朝起きて布団の中で祈った方がおられると思います。今日を生かしてくださってありがとうございます。これが神の国の支配を見ている人が口にできる言葉でしょう。重い体を引きずりながら、なんと体調が悪いんだと思ったけれども、主をお助けをと願った方がおられるでしょう。それが神の国を求めるということです。食事の時に祈りをもって神様がこの食を与えてくださった。生きよと命じておられる。さらばどう主にお献げする歩みをするのか。ということが心をよぎるかもしれない。それが神の国を求めるということです。新聞を見ながら、争いが終わらない世界のために主のご支配を願った方もおられるでしょう。

 自分のことのみならず家族の平和、安寧を祈った人もおられるでしょう。いやいやこんな順調ではない、朝から気分が悪くて思考も安定しない、イライライライラしているしかし、主にお憐れみを求めたという方がおられるかもしれない。それだって主の介入、主の支配、を求めているのです。

神の国を求めた人は

 神の国を求め祈った人は、何が正しいことで、何が正しいことではないのかということがおぼろげながら見えてくると思います。主の前にひざまづき、自分がなすべき義なる、正しいことが見えてくるかもしれません。いや、そういうものがハッキリと見えていなかったとしても、神の国を求め祈る人が行う行為は、基本的には神が愛する誰かのために生きるという歩みになるはずです。自分を脱して、自分のことではなくて、あの人のためにと祈る。そういう、「自分をなんとか脱して隣人のために祈る」ということを考えるうちに、神の義が育っていくのではないでしょうか。

自分を守る

 自分を守りたいということが心の中心にあると、どうも逆に私たちは自分を守ることさえできないようです。ヘロデ大王がその典型かもしれません。自分ために他者を殺戮しましたが、自分を守ろうとした結果得られたものは平安だったのでしょうか。違います。さらなる猜疑心、恐れ、自己保身の思いに囚われていったのです。

 しかし、イエス・キリストのご生涯を振り返ると、イエス・キリストがご自分のことを心配して、ご自分のための祈りをしているというところ、自分を守るための祈りをしているというところは、ほとんど見当たらないと言ってよろしいでしょう。ゲッセマネの祈りで、マタイ26章39節では。

 父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

 とお祈りされました。この時ぐらいです。ご自分のことをお祈りされたのは。

 しかし、基本的には本日の山上の説教もそうですが、目の前にいるその神の愛する神の似姿に作られた人間を、なんとかまことに神を見るとは、神と共に歩むとは、神の国と神の義とは、こうだと教えてくださり。決定的に間違っていることを真っ向から批判なさいました。それは目の前の人々のためでありました。

 しかし、その批判は理解されず、最後は神を冒涜していると最高法院に判断されて、十字架につけられていってしいました。神を冒涜しているのは、人間のほうでありましたのに、神を礼拝していると言いながら心の中では礼拝していない人間。神じゃなくて自分のことを考えているその人達が目が開かれるのを願っておられたのに、すなわち、人々の最善のみを願っておられたそのお方こそが、十字架にかけられてしまった。イエス様は徹底的に、ご自分のためには生きなかった、そういうお方。ご自分のための祈りなどは後回しにされる。キリストは愛そのものであったと思うしかない。そういうお方でありました。しかし、そのイエス様には、自分を守らない生き方には平安があられました。

 その方が私たちの側におられて。私たちをその聖性にあずからせて。まさに友のためにこそ命を捨てるという愛を私たちの心に注ぎ込んでくださる。こんな聖なるお方の前に、自分のことしか考えていない俗的な私が立ちうるのか、いや立てない。だからひざまづき、ただただ神の支配をこの目でひたすらに見ようとして、神の御手をこの生活の中にひたすらみようとして、そうして生きていく内に、神のものとして、神の義をまとうものとして歩ませていただく。何よりも、今日この時から「神の国と神の義」を第一にもとめて歩ませていただきたいと思います。アーメン。