マタイによる福音書 7章1-7節 「裁くな」

神を知るという驚くべき恵み

 私はとても短気で、何か勝手に価値判断をして心の中で怒っているということが多いです。なんでこんな性格になってしまったのか、自分でも嫌になるのですが、しかし、そんな私にとって、神さまというご存在がおられるということがまことに救いです。心の中で怒りを抱いてしまっていても、後になってやっぱり自分は傲慢ではなかったか。なんで人にものを言える立場に立てるのか。まず神の前にひざまずく必要があったのではないか。そう考えを変えます。するとやっとそこでこの問題の真相は何だったのか。冷静に見れるようになり、冷静に見れば怒る必要もなにも無かった、怒っていた自分がバカバカしくなる。そんなことの繰り返しです。打ち砕かれて打ち砕かれて神によってお取り扱いを受けている。

お前はどこに立っているのか。そういつも問われている気がします。

創世記3章において、アダムが神の戒めを破って善悪の知識の木の実を食べてしまった。神のようになれると思って、その時、神様がアダムにいわれました。

どこにいるのか。

これはアダムが隠れているので、その隠れているアダムを神様が探して「どこにいるのか」と言われたのだと考えることもできます。しかし、神様はすべてを見通す眼を持っておられる。どこにいても何をしているのか知っておられるのです。だからどこにいるのか分からないから「どこにいるのか」と問われたのではない。一体お前はどの立場に立っているのか。そんな高みに立っていて本当にいいのか。神の戒めを破って神のようになりたいと思うその心は正しいのか。お前の立ち位置は一体どこなんだ。と問われた神様の言葉なのです。

この言葉は決定的に重要です。一体どこに立っているのか。人間関係で、この社会で、どう生きるのかということと直結します。

夫婦げんかの原因

夫婦げんかというものをしますが、常に原因はここにあります。私の妻は非常に謙遜なので私の上にたってものを言うなどということは無い。しかし、私はいつも主(あるじ)としてこれこれは言って置かなければならん。という感じでものを言ってしまう。そうすると、ケンカになります。そのたびに問われているのは、おまえはどこに立っているのか。ということです。

立ち位置さえ間違わなければ、こちらの意見や思いは通るというか、少なくとも聞いてもらえてそれによって状況が変わるということが起こる。しかし、立ち位置を間違えているといつまで経っても平行線です。

キーワード

本日ご一緒に読んでおります、このマタイ福音書7章で問われていることというのは、やっぱりこの「立ち位置」なんです。この箇所を理解するのにはこの箇所のキーワードが何か知っておく必要があります。キーワードは「偽善者」です。

イエス様が裁きを行うものは偽善者だとおっしゃった。しかし、この裁きといっても、法廷における裁判官のことを裁きを行う偽善者と言っているのではありません。では誰のことを言っているのでしょうか。そのことを理解するために必要なのがこの偽善者という言葉への理解です。

ヒュポクリテース

この偽善者という言葉は「ヒュポクリテース」というギリシャ語です。このヒュポクリテースというのは、元来は「役者」という意味です。その役者という言葉を日本語の意味がよく通じるように「偽善者」と翻訳しなおしたのです。この箇所「役者よ」ではあまり意味がわからない。だから「偽善者よ」とした。確かに文章としてはこなれているというか、偽善者よという言葉は私たちはあまりつかわないかもしれないけれども、不自然ではありません。しかし、本来の役者よという訳がやっぱりいちばん意味が伝わると思います。

役者というのは何の役者なのかというと、神です。本来裁くということは神の権限であるのにもかかわらず、人間が神の立場に立って、審判者であるかのように思い込んでいることに対して役者よと批判しているわけです。神でないものが神の立ち場に立つという越権行為。神の領域への侵犯行為です。それが偽善だというわけです。

人間の限界を超えてしまっているこの越権行為におよぶときに、もう何も真実を見ることができないほどに目が曇らされて問題を解決することなどできない。逆にいえば、自分自身のこの盲目状態を解決することこそが何にも先立つ最重要課題であるということです。

自分の目からこの丸太を取り除くことができた暁にこそ、兄弟に対してして正しい指摘をすることができるというのです。

人を裁くな

7章1節を見てください。

人を裁くな。

とあります。この言葉はすなわち、役者のように神の立場に立って、人の上に立って審判者の立場に立って物事を言うなということです。徹底的に相手を悪者にしたい人がいます。そういう凝り固まった視点でしかものごとを見れない人というのは、おそらく自分が審判者として正しい判断をしているのだという前提に立っています。人間を見る時、そんな簡単に判断を下したり審判を下したりなどできるはずがありません。なぜなら、神様がその方に関わっておられるのですから。そう考えたら、そうそう簡単に人を悪人にすることなどできません。しかし、それが出来る人がいる。簡単に人を悪に仕立て上げることができる人がいる。それは、神の立場にたっている役者。偽善者です。

裁くものは裁かれる

裁く人というのは、人を裁いたことによって自分が裁かれます。自分の立ち位置が神の前で暴露されているのです。裁く立場にないのに裁いてしまっているその茶番に気づくのです。2節。

あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

人を裁いている時、自分が裁かれている。

誰かのことを知りたかったら、その人が他人に対してどういう評価を下しているかということを見れば良いと思います。その裁き方でその人がどういう人なのかが暴露されています。人は鏡だと心理学の世界では言われていますが、確かにそのとおりでしょう。相手をどう見るかに自分自身があらわれています。

相手にしたことを自分もされる

また、このイエス様の言葉からわかることは、「他人にしたことを自分もされるのだ」ということです。他人にしたとおり仕返しを受ける。人を裁く人が、人から裁かれ、人を拒否する者が、人から拒否される。その結果孤立していく。

人を批判してはいけないのか

それでは、人を一切批判したりしてはいけないのか。ものを言ってはいけないのか。という問いが必然的に出てきます。旧約を見ていきますと、預言者達の預言というのは、いつも民の堕落を指摘し、悔い改めを求めるものでありました。常にイスラエルの預言者は共同体の中の批判者として存在してきました。神の言葉というのは基本的に批判の言葉だった。その言葉を頂いた預言者は常に厳しく自分たちを問うということをしてきた。それは間違いだったのか。それは裁くということになるのか。そうではありません。

真理、義を探求していこうとすれば、そこには批判する力というものがなければならない。批判の無い真理探求はありませんし、学問はありませんし、批判を失った学問は学問とも呼べるものではなくなってしまいます。批判を重ねることこそ真理に近づく道です。

では何が問題なのか。批判すること、相手に対して評価を与えるということ。その事自体がすべてダメだということではない。そうではなくて、先ほども言いました「偽善者」であるかないか、「役者」であるかないか。神の立場に一歩抜きん出て自分が立ってしまってはいないかどうか。その事こそが重要なのです。批判してもいいんです。評価を下してもいいんです。しかし、その自分の思いを神がお考えであるかのように絶対化してはならないということなのです。

人間がすることに絶対はない

人間が言うこと、すること。その事に絶対はありえません。常に間違えますし、常にかわっていくものです。にもかかわらず、その人間自身、人間の行為、人間の言葉を絶対化してしまう。絶対化し、神の立場に自分自身を躍り上がらせ。神を演じる。それをイエス様は厳しく禁じているのです。ある人のいうことを権威づけして、その人がいうことが正しいとかいう論法を使う人はかなりあぶないと認識してください。そこから解放されてください。人間は常に疑わしいのです。疑いを失った人間観なんていうのはおかしい。

人間はいつも相対的です、これで本当に正しいのだろうか、いや間違っているのではないか、だからもう一度考えなおそうではないか。神に祈りながら常に更新し、悔い改めをし180度視点を変えていくということが大事なのです。

この事こそ価値がある

神の前で人間を絶対化する必要がない。神になってしまうことへの警戒をし、自分が神を演じているのではないかということを自己点検することができる。この謙遜さこそが、絶大なる価値を生み出します。対話をすることができ、相手を否定する必要もなく、神がその人に望んでくださることを期待し、祈り、思考し、行動することができる。相手を呪う必要もなければ、無用な争いをすることもない。この驚くべき価値は、すなわち神を信じるということの驚くべき恵みは、謙遜さを受け入れる人しか受け止められないです。

傲慢な人、神の言葉を聞く気がない人、自分が正義だと信じている人には通用しないというか受け入れてもらえません。だから6節でイエス様は言われるのです。

神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。

真珠の価値

私たちにとって、自分が役者であったこと、偽善者であったことを自覚できるということは驚くべき価値でありますし、人生すべてを貫く生き方の基本です。神を神とし、自分を神としない。それはすべての場面において。人との付き合いにおいても、仕事においても、すべてです。すると柔らかく柔軟に物事に対処できます。しかし、この真珠ほどの価値ある謙遜さ、神の前で生きるということの価値を見いだせない人は見いだせない。そういう人にとって、この心というのは塵芥でありましょう。どうでもいいんです。

犬とか豚というのは当時の世界では蔑まれる存在でありました。愛犬家の私には聞き捨てならぬ発想です。が、しかし、犬も豚も食べ物が欲しくて、食べ物のみを欲しくてしっぽをふっていてこれはもちろん比喩ですけれども、その時に真珠のように価値あるものを与えても、ほしいものをくれなかったと、全く理解できずに噛み付いてくるというのです。

ある1つの視点に

 ある1つの視点に凝り固まって、全部それを1つの視点でしか見れなくなる。食欲でしかみれなくなったら真珠の価値は失われます。そして、思考停止してしまう。本当に価値ある真珠を認識するためには、謙遜さ、神の前で自分は偽善者であるということを知ること。悔い改めです。神を讃美し、神を高くし、自分を徹底的に低く、そこから物事を考え、隣人とかかわり、思考し、行動していく。これが絶大なる価値なわけです。

子なるイエス

 イエス様はご自分が父の立場にあらず、子としての立場にとどまってくださった。人となったというところにとどまってくださいました。神様であられながら、人間というところにとどまってくださった。

 イエス様は偽善者たちを糾弾していきました。批判していきました。そして、実際にご自分の手で裁きをくださすことだってやろうと思えばできたことでありましょう。最高法院がイエス様を有罪としたときにも、奇跡を起こしてその判決を覆していくということだって極端な話、神ですからできたかもしれない。

 しかし、イエス様が私たちにお見せくださったのは、徹底的に人間の限界の中にとどまるというお姿です。神として裁きの手を降すのではない。そうではない。父なる神の裁きにこそすべてを委ねて、批判はするけれども、その裁きはすべて神の手にお委ねになられた。その結果、父なる神は御子を十字架にかけてしまうという裁きを行われた。私たち人類にくだされるはずの裁きが、御子にくだされることによって、身代わりの死を遂げられるた。それによって、私たちは救いを得たのです。

 御子は人間にとどまること、父なる神のようになって父なる神の立場にたって、裁き主として裁きを行ったというわけではなかった。他者を裁くこと、そういったことを拒否されて人の内にとどまって父の裁きをお受けになられたのです。人として生きる、偽善者ではなくて、生きる道を示してくださった。

 最終的な裁きの鉄槌は神に委ねるのです。しかし、神の御顔を拝しながら、謙遜にされた、打ち砕かれたものとして、ひざまずきながら物事をとらえる。しかし、他者に対して批判すべきところは批判し、神の御手に委ねるのです。この歩みこそ平和を生み出す歩み、絶大なる価値ある歩み。キリストに従う歩みです。アーメン。