マタイによる福音書 7章7-12節 「求めよ」

期待が裏切られる現実の中で

 就職超氷河期に就職活動をしなければならなかった私の世代にとって、「努力は報われない」ということが心を支配していました。心から求めたことは何でもかなう、というわけではない。むしろ、願ったことは何一つ叶えられないのではないか。という疑いの念を持って育ちました。そんな世代にとって、「与えられる」ということを前提に行動するということは、心のそこにある思いとぶつかるものでしかありません。

 イエス様の言葉「求めなさい。そうすれば与えられる」ということは信じることができない。むしろこちらの言葉の方が信じることができます。「求めない。なぜなら与えられることはないから」先日、ニュースを見ていたら、就職活動をしている若者は、普通の生活以上を求めないという人が5割以上であるという統計を見ました。35になる私の世代の後遺症といいますか、時代の流れをかなり引きずりながら現代の若者も苦労しているのだなと思わされました。しかし、有効求人倍率が1.17となった2015年と、0.54であった2002年では全く比べ物にならないぐらいの差があるのですが、若者は「求めない。なぜならあたえられることはないから」に生きているような気がしてなりません。

与えられるかどうか分からない

 与えられるかどうか分からない。いや期待しても得られないのならば、期待することさえしたくない。という人にとって、祈ること、生活のすべてを祈りと結びつけていくということは非常に難しいと言わざるを得ないのではないかと思います。だから、私たちの世代というのは非常に祈りが薄い、祈れない世代なんじゃないかと思います。

 しかも、危機的な状況に社会情勢があるのかといえば、見せかけかも知れませんが一応平和を謳歌している。そんな中で、日に日に何かを得ようとする思いや、何かを求める心、それから何かに期待する思いというのはどんどん薄れてきているのだと思います。心の中に内的なこうしたい、こうあるべきという青雲の志を持てない時代です。

祈りは聞かれる

 そんな私たちがこのイエス・キリストの言葉を聞くということは恐ろしく大きな、偉大な神の業であると思います。祈りは何があっても必ず聞かれるのだという、キリストの確信の言葉です。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

 神様との関係において、祈りながら求め、探し、門をたたく。すると与えられ、見つけ、開かれる。これは間違いないことなのです。その根拠が9節に記されています。

 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたはがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求めるものに良い物をくださるにちがいない。

 罪人であって、愛が分かっていない、愛することもできていないそんな人間でありながらも、子供を愛するということにおいては別だと、自分の子供にはかならず良いものをあげるではないか。ましてや天の父は比較にならない。もっと良いものをくださる。なのに、なぜ求めないのか。祈らないのか。

 求めたものがあたえられる、探したものが見つかる、門を叩けば開けてもらえる。その根拠はあなた方の天の父が愛なるお方であり、その方がお応えくださるからなのである。あなたの神はあなた父なのだとキリストはお教えくださった。だから祈れと。

聞かれない祈りはないのか

 ここまで強く断言してくださるキリストであられますが、私たちの心の中には「聞かれない祈り」もあるのではないかという疑問が出てくるのではないでしょうか。確かに現実には聞かれない祈りというものもあります。旧約聖書には神様が民の祈りを切っくことを拒否されたことがあります。イザヤ書1章15節を見てみます。

 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。

 血にまみれた手という表現がありますが、これは神様に対して罪を犯している状態のことの比喩です。罪を犯している時、神様はその祈りをお聞きにならないということ。罪とは何か、ギリシャ語でハマルティア。的外れという意味です。神がこう願っておられるという的から外れている。全然別の方を向いているということです。ヨハネ福音書においてイエス様はこうもおっしゃられています。ヨハネ福音書15章7節。

 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

 神とつながっていることが罪ではない状態であり、つながっていない状態が罪の状態であるということがわかります。そしてつながっているのならば何でも求めることができる。

では、我々の祈りは聞かれるのか

 そんな罪の無い状態なんてはたして私という存在の中にあるのだろうか。私の祈りなど聞いていただけないのではないか。私の場合、いつも罪を犯している状態なのではないか。ある牧師が言っていました、「人間は祈りの中でも罪を犯す」と。祈っていても神様のことを無視してしまうわたしはもうどうしようもない。という方もおられるかもしれません。

 しかし、私はそんな「私の祈りは一切聞かれないんじゃないか」と悩んでおられる方にこそ、このマタイ福音書のイエス・キリストの言葉は救いになると思います。

一切条件をつけていない

 聖書の他の箇所では、「こういう祈りは聞かれない」というのは確かに読み取れます。しかし、このマタイ福音書でイエス様は、神様に何か求めるときにお前はまだダメだからそれを解決してから祈れとは言っておられない。何か条件をつけてから、これこれをしてから、探せとか、門をたたけとか言っておられるのではないのです。何の条件もつけずに、とにかく求めよ、なのです。

 日本人のキリスト者の中には、「あの人に祈ってもらった」「あの人の祈りこそはとどく」とか、そういう風に考える人が非常に多いです。そして、自分においてはまるで神様のお働きがないかのように、私が祈っても何も聞いていただけない、だからあの人にとか。私などが御言葉を伝えるのではなくて、あの人が伝えてくだされば誰かに届くはずだとか、あの人の伝道の業は実を結ぶけれども、私にはできないとか、「神の前における自分」というものを放棄している人が多い。しかし、それは間違いです。

 イエス様は、マタイ福音書7章において、「こういう人の願いは聞かれない」などとは言っておられません。一切言っておられないということが極めて重要なのです。イエス様の言葉をいまこうして聞いている人ならば、すべて例外なく祈りは聞かれる。

だから祈る

 一切の条件をつけずにまず求めよと言われるのですから、私たちはそのキリストの言葉に応えてとにかく、聞かれると期待して祈るのみなのです。祈りの主体は、教会の主体は他の誰かではなくてこれを聞いてる皆さん一人ひとりなのです。だからかけがえのない一人ひとり。あなた以外にあなたの祈りをできるひとはいないのですから。あなたが祈り、あなたがキリストの言葉を伝えていくのです。

 祈りとは、神に宛てた私たちの手紙で、それは、私たちがもし忘れていたとしても、完全なる神が覚えていてくださる。愛の極みである神様が、私たちの父である方が応えてくださると、イエス様が保障してくださっています。私たちの祈りは虚しく消えて無くなることはなく、天の父の手にしっかりと受け止められていく。このことを覚えるほどに祈らざるを得なくなっていきます。

私の父

 私の肉の父も思い出してみれば、私の言うこと、願い、というものを一度たりとて無視したことなどありませんでした。一番良い方法で叶えられるようにと一緒に願って、行動してくれた。私は恵まれていると思います。必ずしも私のように父が全部聞いてくれたという思いに立てる人ばかりではないと思います。

 しかし、私たちすべてが繋がることがゆるされているイエス様によって、天の父は絶対に無視などなされない。肉の親とは比較になりません。深い愛によって、深い主のご意思によって私たちの祈りを聞いてその祈りに応えてくださるのです。

 だから、使徒パウロはこんな言葉を残しています。第一テサロニケ5章16〜18節。

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

 いつも喜ぶことができる喜びを与えてくださる。感謝することができる状況を神がお造りくださる。祈りは例外なくすべて聞かれていく。

 また、こうも書かれています。マルコ福音書11章24節

 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

 天の父がすべてお聞きくださるのだから、既に得られたとまで信じて良い。

祈りの中にすべてが

 となると、祈りの中にすべてがある。といえるのではないでしょうか。祈りの中に神との交わりがある。祈りの中に、私たちの未来を決するものがある。祈りの中に、私たちが得るべきもの、衣食住がある。祈りの中に、私たちの助けがある。祈りの中に私たちの環境がある。祈りの中に、私たちと誰かとの関係がある。

 イエス様は大胆に、祈りにすべてがあると教えてくださって、祈りの中に私たちを招きいれようとされておられるのではないでしょうか。確かに前回まで見てきましたように、祈るということの中に、新しい視点が与えられるという道があります。天を見上げる道です。自分の考えを一旦脇において、神様は一体どうお考えであろうかと、天を見上げる道があります。祈りの中で神を見る視点が与えられる。新しい視点を与えられると他人への視点も変わる、不必要に裁きあって争いに発展するなどということもの無くなる。衣食住すべて、隣人との関係の鍵もこの祈りの中にある。

しかし、祈るときは

 祈りはどんな祈りでもいい。すべてを神様との関係において捉え直し、神様との関係の中に巻き込んでいく。その祈りで注意されることは、イエス様は以前にすでにおっしゃってくださっていましたが。マタイ福音書6章5〜8節です。

 祈るときも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。

 先週もご一緒に見たのですが、この「偽善者」というのはやっぱりキーワードのようです。イエス様が本当にやめてほしいと願っておられることであり、往々にして私たちが行ってしまっていることでもあるということなのです。事あるごとに私たちは「偽善者」となってしまっている。「偽善者」とはギリシャ語でヒュポクリテース。「役者」という意味です。演じている。人に見られることで、信仰深い自分を演じている。だとか、神ではないのに、神の立場にたって偉そうに神を演じているとか、だから人を裁けるのだとか。とにかく、本来の自分ではないものを演じているということです。

 偽善者たちは、人にみてもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。

 人前で祈る機会の多い、キリスト者はこのことを注意しなければならないでしょう。良い祈り、感動的な祈り、情が深そうに見える祈り、その他、とにかく人間をあまりにも意識しすぎた祈りというのは、まさに偽善者の祈りで、それは神を見ていない罪に属するものです。祈りの中でこそ私たちは罪を犯してしまうのかもしれません。

すなわち祈りとは

 祈りとは、私と神様とを結びつけるものであり、私たちが自分の人生の中でこの領域をどうぞ神様御覧くださいと、明け渡していくと、神様はその明け渡した領域を神の領域としてくださり、結びついてくださるということです。神様は御自身と私たちの人生が結びついていくということを心から求めてくださっていて、だからこそ、求めよ、探せ、門をたたけと言ってくださるわけです。私たちがこの領域はどうぞ神様との関係でと言い出すと、喜んでつながりを造ってくださるということです。

 イエス様が十字架で亡くなられた時に、神殿の垂れ幕が裂けたといいます。神と人間とを隔てていたものがキリストの業によってなくなった。だからこそ、祈りすべてがすべて聞いていただけれるとの確信のもとイエス様は教えを私たちにくださるわけです。

心の豊かな人こそ手渡せる

 まず、徹底的に祈りが聞いていただけるのだということをイエス様はお教えくださったので、私たちはこれを体験しなければなりません。何の条件もつけずとにかく神にすべてをもとめよとお教えくださった。だから、私たちはまるで赤ん坊のように、おとうちゃんおとうちゃん、おかあちゃんおかあちゃんと神を求めて、ほしいものも、必要なものも、必要な環境も必要なものすべてを願いでなければなりません。徹底的に祈り祈り倒して、その祈りに応えてくださる神様を体験しなければなりません。

 私がとても敬愛している牧師で、もうすでに亡くなられましたが、高橋三郎先生という方がおられます。内村鑑三、矢内原忠雄、高橋三郎と無教会派の三代目の方ですが、この方の書物を心から愛し常に読みマタイ福音書の説教をする時などは、舐めるようにこの方の書物を読んでいるわけですが、高橋三郎先生は祈りというのは、言葉が無くなるまで祈らなければならないとおっしゃられます。

 もう言うべき言葉がないというほどに祈って祈り尽くしてみなさい。と、そしてそこから祈ることがなくて、ただただ神様の前にいるそれだけの状態にまでなりなさいと。そこまで祈ることを神様は求めておられる。もう何も言葉がでないぐらい、感謝と願い、を全部打ち明けてしまいなさいと。

 日本人は奥ゆかしいというか、遠慮深いところが美徳かもしれませんが、しかし、神様のまえでは遠慮深くあってはならない。両手を広げて迎え入れようとされておられるかたが耳をそばだてて私たちの祈りをお聞きくださっているのだから、全部あますところなく祈らなければならないというのです。

そこまで聞いていただけるのだから、だから、12節以下。

 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

 徹底的に祈りを神に応えていただいたという経験を持っている人は、豊かに溢れるばかりに神様がお働きくださることを知っているので、簡単に人に手渡すことができる。自分が神様にしていただいたことを人にしたいと。もちろん神のようにはなれませんが、頂いたものを誰かのために使いたいと思うでしょう。

 子どもの姿を見ていると感動することがあります。友達に簡単に自分の大事なものをあげてしまう。ということがある。一杯一杯持っていればいるほどに簡単に持っているものを手渡してしまいます。私たちキリスト者は、天の富を見ることができるものです。神様がどれだけ恵み深い方であるか、祈りにお応えくださるお方であるかを知っているものです。目をあげてみれば、どんな人であったとしても神の富を見上げることができる。その御方が私たちを満たそうとしておらえる。満たされて満たされて満たされて生かされた時に、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。といういわゆるこの黄金律が実践されるのです。

 これこそ、キリストの歩み。キリストのものとされた私たちの歩みです。祈りましょう。祈り倒しましょう。アーメン。