マタイによる福音書 7章13-14節 「狭い門から入れ」

道であること

 ときどき、「私は既に救われている。あの人は違う。だから可愛そうね。可愛そうだから伝道する」という人がいます。そういう人にとって、未だ信仰に入っていない人は、信仰に入らねばならない一段自分より劣った人。自分が何か教えを垂れてやろうとでも言わんばかりです。

 しかし、このキリストを追いかけるという道。キリスト者の歩みというのは、この世の命が終わるその時まで追いかけるものであって、すでに得たというものでもないのです。フィリピの信徒への手紙にパウロの言葉があります。3章12節。

 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全なものとなっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

 キリストは私のことを捕らえてくださって、手を離さないでいてくださる。しかし、私の内面はどうであろうか、まだ整えられていないし、神の民としてふさわしいものとなってはい。まだまだ未完成であり、自分がなにかを体得してしまっているものでもない。だから、キリストの群れに今日新しく集められた、その人と変わらず、ずっと求道者であるのだ。常に初心。何十年も信仰生活をしている方で、ガンを患っている方で、もう末期で先に天に召されましたけれども。「わたしはまだまだ求道者です」と言っておられた方がいた。私はこころからその方を尊敬します。傲慢になれませんし、常に謙遜であるしかない。そのキリスト者としてあり方を教えていただきました。常に追いかけていて未完成である。この意識にたつことしか、新の友情、愛情の関係は無いと思います。

二つのものが目の前に

 神様はよく、人間に、こちらとこちらどちらを選ぶか。という問いを与えられて、そのことを通じて神への信頼に生きるのか、そうではないのかということを人間に対して問われます。旧約聖書を読むとそういう神様の二者択一的な迫りというものがある。申命記11章26節には。

 見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。

 申命記30章15節にも。

 見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。

 この場合は、神様が戒めが与えられていて、その与えられた戒めに従うのか否かというそのただ一点において、災いを選ぶのか、祝福を選ぶのか決まるのだという話でありました。言うなれば、非常にシンプルで分かりやすい二者択一でした。

分かりにくい

 しかし、本日共に読んでおりますマタイ福音書7章13節以下は非常にわかりにくい。狭い門と広い門があり、しかも命にいたる狭い門は、14節に書かれているように「見出す」ものであるので、見出すということは、見出さないと分からないということですから、一見しては隠されていて分かりにくいということなのです。命に通じる門と書かれているので、これは神様の国に入るということです。それが一体どこにあるのか、どこに行けばいいのか、隠されていて分からない。しかも狭き門であると言います。非常にわかりにくいです。

ヨハネ福音書

 ヨハネ福音書にこの狭き門に対する、キリストご本人の答えが書かれています。ヨハネ福音書10:7。

 はっきり言っておく。わたしは羊の門である。、、、わたしを通って入る者は救われる。

 これはイエス様の言葉ですが。「はっきり言っておく」はギリシャ語だと、アーメン、アーメン、真にあなたがたに言う。というふうに書かれているのです。だから、よっぽど強く強調して、大事なことを言いますよという思いでイエス様は「わたしは羊の門である」とおっしゃられたのです。

こちら側が何かをするということではなくて

 狭き門を通れと言われると、それは非常に困難で難しいことであるように思います。日本では中高大の入試の時に、狭き門を通過して何とか有名な学校に入ってという言葉を聞きます。だから、よっぽど努力に努力を重ねて、苦労に苦労を重ねて、狭き門を通るものであるとすぐに考えるのです。

 しかし、イエス様がおっしゃられているのは、「わたしを通れ」ということです。あなた方が、人間がなにか努力して何かを達成して、勉強して勉強して、祈って祈って、悟りを開い得て狭き門を通れということでは全くないということなのです。

 拍子抜けする話かもしれませんが、狭き門を通れとはすなわち、イエス・キリストを通れということです。イエス・キリストはなぜ狭き門なのかといえば、皆が拒否する道であったからです。

 イエス様が十字架にかけられてしまったというあの結末は、イエス様のことをユダヤ社会が捨て去ったということをも意味します。最高法院で有罪判決をくだされて、皆の満場一致によって「十字架へかけろ十字架へかけろ」という叫び声のもと、十字架へと問答無用で歩まされてしまった。それが私たちが信じるイエス様の実際のお姿。

 イエスは十字架刑に値するほどに、民を扇動し、自らが王であると名乗り、さらに自らが神であるとまでほのめかした。と判断されて、社会から排除されたのです。だから、この重犯罪人を殺すことに一切のためらいはない。そのイエスについていくということはまさに狭き門を通るということを意味していたのです。

 皆が十字架にかけろ十字架にかけろと叫ぶ中で、自分はイエスに味方するという道というのは通るのは難しいでしょう。間違いなく狭き門です。だから、狭き門なのです。

イエスという狭き門に入るのは容易いが

 イエス様という狭き門から入るのは、はじめはたやすいです。しかし、そこにとどまり続けるのはたやすいことではない。迫害の時代がやってきますし、どうしても理解されずに寂しい思いをすることも多い。さらに、あまりにもこの世で不条理が多いために、本当に神がおられるのかという疑いを抱くことだってあるでしょう。しかし、ここにしか救いの門は無いのも事実。

 イエス様ただお一人が「敵を愛せ」とおっしゃられています。自分を迫害するもののために祈れと。イエス様こそが「敵を愛せ」を実行された方です。

 イエス様を有罪にしようと向かっていった、最高法院の一人ひとりのために祈られました。イエス様を十字架にかけろと叫び続けたその一人ひとりのために祈られました。怒りに取りつかれ叫び続けるその一人ひとりのために祈られました。十字架上で祈っておられましたのは、恐ろしいほどに偉大なる神の業。「敵を愛する」神であることを身をもってお見せくださった。

 「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と。

 徹底的に、自分の苦しみや悲しみではなくて、目の前の人々をどう生かすのか。どう神とこの神の愛する1人の人がつながるのか。そのことを徹底的に突き詰めていかられたそのイエス様こそがこの世の希望であるということは間違いない。ここに救いがあります。この世界の希望があります。たった一つの光。人々を平和に導く光。敵を愛する愛という光があります。

 しかし、そのイエス様御自身の行動を実際に自分の行動としていくためには大きな痛みをともないますし、それこそ狭き門であり、これ以上に難しいことはない。敵を本当に愛することができるのか。しかし、これこそが今も昔もおそらくこの世界が存続するかぎり存在する世界の中心命題であろうと思います。

とりわけこの日本で

 とりわけこの日本で生かされてきた日本人が、隣人を愛するということを実行して歩みだしてキリストの道を歩むということは難しいことなのかもしれません。隣は何をする人ぞ。隣人に干渉しない。それが美徳であるかのように、どれだけ距離をとって問題を起こさないか。ばかりを考えている。

 しかし、本当に私たちが隣人と友になるためには、言うべきことは言わなきゃいけない。愛するためには黙っていてはいけない。

 愛というのは、絶対的に相手の最善を願うことです。また、愛とはイエス様が示してくださいましたが、最終的には自分の命さえも相手のために差し出してしまうものです。親が子供のためにならなんでもする。命も惜しくはない。それが最も神の愛に近い愛でしょう。まして、神の愛というのは、敵のためにさえも命を差し出してしまう。そんな恐ろしい愛は人間はなかなか持ちえません。

 イエス様の愛まで、そこまでは行くのは難しいけれども、なんとかその愛を目指して歩んで行きたい。声として上げるだけじゃなくて、実行したい。そうもがき苦しんでいるのが教会ともいうことができるでしょう。

例えば

 ある国で、現代ですが、6歳の子供が集団暴行をされている動画がネットにアップされていました。動画を撮ってないで助けろよと心から叫びたくなりました。しかし、その動画をとっている人も、周りの大人たちも、誰も暴行を止めようとしない。可愛らしい子供の苦しみに泣き叫ぶ声に混じって大人たちの怒号と、薄笑らいが響きながら、子供が蹴られ、殴られる。

 思想宗教、民族による弾圧がいかにむごたらしいものか、それを知ってちゃんと皆が声を上げてほしいという訴えゆえの、映像公開であります。恐ろしい現実がそこにあることに気付かされます。そして、もしもここにイエス様がおられて、イエス様がどんな行動をなされるのだろうか。と考えた時に、この日本にいて安全なところから「平和平和」と叫び続けるようなことをイエス様だったらなされないだろう。イエス様ならばそこに行かれて自らの身を呈してその子供を守られるのだろうと、そして自分がその暴力の犠牲なることなど恐れずにイエス様は出て行かれることだろう。

 イエス様が歩まれる道は迫害を覚悟しなければならなぬ受難の道であり、そこを歩みつつ敵を愛せよと主は命じられるのです。しかし、そんなこと私たちに本当にできるでしょうか。

 確かにイエス様に従う道というのは狭き門としか思えない。具体的に考えれば考えるほどに、その道を必ずしも通ってはいない自分を思うしかありません。

偽予言者

 そして、キリストの道を追いかけない偽預言者が現れるということが、イエス様によって指摘されています。本日与えられているところのすぐうしろですから、これは本日読んだ所とつながっています。滅びに通じる広い門を通るものの様がどんなものか、イエス様はご指摘くださっています。そのすがたは偽預言者のようにして現れるというのです。

 いろんな教えや思想信条を述べるものが出てくる。何がなんだかわからなくなる時代が来る。しかし、偽預言者には特徴がある。15節に記されていることです。

 彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。

 思想や考え方には一貫して偽預言者というカテゴリーがあるのか無いのか、分からないもうめちゃくちゃにいろんなものが出てきて広い道を教える。しかし、その内側にあるものは貪欲な狼。つまり常に私腹を肥やすために何かをするものであるということです。その人々も見分けることができる。16節。

 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

十二使徒の教訓

 聖書ではないのですが、AD100年ごろに成立した「十二使徒の教訓」という初代教会の教えが書かれている書物があります。それはディダケーと呼ばれるものですが、聖書に次ぐとても重要な書物として読まれています。このディダケーに、「にせ預言者」について、すなわち広い門を通ってしまうものの特徴が書かれています。

 一つの集会に二日以上滞在し、お金を要求する巡回預言者は、にせ預言者である。

 すなわち、お金のためにしている、自らの腹のために御言葉を述べ伝えている。そういう人は偽預言者だと。さらに。こうも書かれています。

 自分の教える真理を実行しない者は、にせ預言者である。

 自分を守ったり、自分の利益のためであったり、恐れてしまって左の人、右の人の顔色を伺って真理を実行しないもの。こうすべきだと思っていることがあるのに、それを実行しないのは偽預言者であると。

 非常に耳が痛い。これが偽物である。これは牧師であれば非常に強く自分に問わなければならないことでありますし。キリスト者の皆様にとっても同じでしょう。

 自分が満たされることばかりを考えてしまう、そういう時ってあるのではないでしょうか。しかし、それは明らかに神様が求めている道ではありません。

 自分が何か危害を加えられそうものなら、突然日和見主義になって真理は実行しなくても良いものになってしまう。よくあることではないでしょうか。しかし、これもキリストのあとを従う歩みではないのです。

ではどうするのか

 じゃあ、私たちはどうやってキリストを通じて入ったその門の中に、とどまり、キリスト者として歩みを守っていくのか。それは簡単で、答えは24節以下に記されていることです。24節以下読みましょう。

 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

 岩を土台としている。その人こそキリストの僕。岩というのは何か。キリストの言葉を聞いて、あぁいい話きいた、美しい言葉だ、きれいな教えだ。あぁ、すばらしい。って考えて家に帰ったらもう別の基準で歩み始めて、人間キレイ事じゃすまないんだよ。あんなうまい事いってもそうは生きれないだよ。はぁ。なんてため息をつくんじゃなくて。

 馬鹿正直に神様に示された言葉を、実際に自分の人生で実行していくのです。これは、こうすべきだということが聖書を読んでいれば分かってきます。目の前で苦しんでいる人。その人のため動き出したらコストもかかるし自分の人生に損害をこうむるようなことももしかしたらあるかもしれない。しかし、キリストの歩みは失うことを求める歩み。誰かにあげてしまってそれで満足する歩み。自分の欲求ではなくて、あの人の欲求や幸いを満たすことによって幸いを得る道。そうわかっているならどうすればいいのか見えてきます。

 しかし、見えているのに行わない。ではなくて、こうだとわかっているのであったら、もう言い訳をしてしない。実行する。聞いて行う。

 26節。

 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。

 今は保たれているかもしれないけれども、聞いて知らんぷりして通りすぎて、行わなかったら。その人の歩みは実は風が吹いたら飛んでしまうものでしかないんだ。苦労がかさなれば、持っていたものが取り上げられる時がくれば。これは誰でもその時を経験しますけれども、最後は自分の命を神に返して天にいきますが。それ以前にも財をお金を全部失うということだってありうるでしょう。そういうことが起こった時に、本気でキリストが命じられた歩みをしたか、そうではなくて、言い訳して、先延ばしして、こうすればいいのだと分かっていなあがらもしないで生きてきて、ふらふらしてたら、自分のほんとうの価値、神の民として生きるという驚くべき価値を見失ってしまう。

偽預言者と逆のこと

 偽預言者は私腹を肥やすことを考えて決断し、実行しないで回避して涼しい顔をしているものです。狭き門を通り、キリストの道を歩み始めるには逆のことをすればいいのです。私腹ではなくて、隣人のために何ができるのかを考えて、与えてしまって、失う。その道をたどり自らの豊かさを手放していく。実行しないで涼しい顔をしているのではなくて、悪戦苦闘して必死になって泥だらけになって歩みを進めていくのです。

 キリストに従う道は、こころある方には理解していただける道。その歩みいいねって言ってくださる方がこの日本に大勢いらっしゃるはずです。日本人も、中国人も韓国人も台湾人もフィリピン人も、モンゴル人も東アジアの人すべて、いや世界中の人すべて。皆、神の似姿に造られた大切な大切なお一人お一人なのですから。アーメン。