マタイによる福音書 9章1-9節 「赦しと癒やし」

心をご覧になる

 イエス様の御前にこうやって礼拝するために集まるということは、イエス様を慕うものにとってはとても喜ばしいことであり、何を差し置いてもなすべきことです。これ以上に自分に必要なことはありません。しかし、イエス様の所に集うということは、時にとても大きな困難を伴うものでもあります。嬉しいことであると同時に辛いことでもある。なぜなら、イエス様は私たちの心のすべてを見て、さらにその心の中心に何があるのか、よくお分かりのお方だからです。全部お見通しなわけです。ですから、全部お見通しであられるから、イエス様の前に集うと、汚い自分の心のすべてが見られてしまい辛いということも起こりうるのです。

しかし、全部見ていただいた方が良い

 しかし、全部をイエス様にご覧いただくことは、はじめは隠していた自分の心が暴露されてしまうので辛いかもしれませんが、一度見た頂いたのならば、そのイエス様の眼差しの前に屈服させられると言いましょうか。なんと憐れみ深い、なんと寛容で、なんと愛に満ちたお方であろうか。その方がご覧くださるのだから、全部見て頂いて構わないという思いになっていきます。

 私は医者嫌いです。いや心からお医者様を尊敬しております。しかし、自分がお医者さんに行って診てもらうのが大嫌いです。真実が明らかにされて診断されて、対応が考えられていく。真実を見ることはとても良いことなのでしょうが、、、どうしても好きになれない。しかし、はじめは嫌ですが、病になって回復に向かうというこのプロセスはあとから考えてみますととてもすがすがしいものである場合が多いです。一旦ハッキリ診断されて、回復に向かうプロセスが提示されれば明るくなる。でも、どうしてもはじめはやっぱり嫌なのです。自分の真実の姿が明らかにされることが怖いのです。

 本日記されているこのマタイ福音書に出てくる人々は、心の中をイエス様にご覧いただいた人々です。見透かされてしまった人々です。本人たちは、イエス様がそういうお方であるなどということはわからなかったでしょう。しかし、聖書の記述を見れば、そのイエス様のお姿がハッキリと記されているのです。9章2節をご覧いただきたいと思います。

 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。

 とあります。イエス様が中風の人を癒してくださったのは、なんのためだったのか。中風の人の信心が素晴らしいものであったから、その信仰に応えてということでは全く無くて、周りの人々の信仰によって中風の人を癒してくださったというのです。中風というのは脳障害のことです。

周りの人の信仰とは

 中風の人を取り囲んでいた人の信仰というのは一体どういうものであったのでしょうか。実はこの箇所というのはマルコによる福音書、ルカによる福音書にも同じ記事がありました。福音書ごとに微妙に書き方が違います。その違いを少し見て行きたいと思います。そこに、「周りの人々の信仰」がどういうものであったのかということを理解するヒントが隠されています。

 マルコによる福音書2章1〜5節。

 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

 人々がイエス様の話を聞いたり癒していただくために集まってきていて家の中が人でいっぱいになっていたということが書かれています。家の中は熱気ムンムンだったに違いありません。期待感に満ちた眼差しで皆が固唾を呑んで、イエス様の一挙手一投足、語られる言葉に意識を集中させていました。そんな中で、驚くべきことに、家の屋根をはがし、穴をあけるというある意味蛮行に出るものが出てきました。他人の家を、自分勝手に破壊するということがどれだけ非常識なことか、それは当時も今も変わらないでしょう。おろそしいほどに非常識なことが行われているにもかかわらず皆が、それに気づいてやめさせようということもない。イエス様に集中していたのでしょう。どれだけ深くイエス様に皆の関心がのぞんでいたことかと思います。

何がなんでもイエス様にお会いしてほしい

 何がなんでもこの中風の人がイエス様の前に行くこと。例え家を破壊しても、それでも、イエス様の前に。どれだけ深くこの中風の人をこの運んできた4人の男性は大事に、尊重していたことでありましょうか。どんな犠牲を払ってでも、この人が癒やされるのならば、この人が幸いを得るのであれば。そういう純粋なる思いで中風の人を運んできた。それは何とか癒していただきたいという切なる愛です。この切なる愛にイエス様は応えられて「その人たちの信仰を見て」イエス様はその手を伸ばしてくださったのでした。

キリストにお働きいただきたいのであれば

 教会はこの地域の方々、愛する日本の民、アジア諸国の民、すべての人にキリストに触れていただきたい。そう願っています。そのためのヒントというものがここに眠っているのではないでしょうか。「その人たちの信仰をみて」イエス様はお手をお伸ばしくださるのです。言い換えるならば、その人たちの愛をみて、お手をお伸ばしくださる。目の前の困っている人がイエス様に触れていただけるように、そう人々が燃える情熱を持つときに、お手をお伸ばしくださるのです。

 どんなに方法が稚拙であったとしても、誰かを屋根からおろしてなんとかイエス様の前にという行為であったとしても、大丈夫なのです。私はこの聖書の箇所がこの上無く好きです。いつも読んでいてニヤついてしまいます。

 屋根を剥がすなんて、、、静かに笑ってしまうのですが。ここまで愛する友のために必死に動きだし、必死に愛をその行動にうつしつづけるのならば、イエス様はかならずその手を、重ねてくださって神様の御業を起こしてくださる。そう信じなさいと語られているのです。

 こう信じることができることこそが、教会に与えられている賜物ではないでしょうか。人を愛し、友のために行動を起こす。そうすると神は必ず寄り添ってくださるのだ。これが教会を通して実現していくことの明確なビジョンでしょう。ヨハネ福音書15章12節以下に記されている言葉がそのとおりになる。この言葉はこの世が終わる時まで絶対に忘れてはいけない言葉。記憶されるべき言葉。教会が追い求めるべき言葉です。

 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたはわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

信仰を見て、愛を見て

 イエス様が「その人たちの信仰をみて」というのは、もちろんイエス様に期待していたということもそこに含まれていますし、イエス様にのみ権威があり、イエス様に罪を赦す力があると心から信じていたということが、その中心にあります。しかし、彼らの出発点は何かと言えば、なんとかこの愛する、大切なその1人の人が、癒されるように。というその切なる愛ですそれ以外ではない。この切なる愛を実行していった。ということにその出発点があり、イエス様はその愛に真正面からお応えくださるのです。

愛によって打破される

 友のために命を捨てかねないその愛によって、閉ざされた世界が打破されます。そこにイエス様が手を添えてくださるから。そこに神の業が起こるから。神の業の扉を開いていくのが友を愛するということであると。

 中風の人の人生は閉ざされていました。体が麻痺していましたので、生産活動というか働くことは一切できなかった。ユダヤ社会においては、このような病は罪の結果と見る因果応報の考え方が定着していましたから、社会の人々からの断罪の目に常にさらされていました。言うなれば、体も動かず、さらには人間としての尊厳や誇りも周りの人々から剥奪されて、まさに死の呪縛に閉じ込められてしまっていた。

 全く不自由な存在であったと言うことができるでしょう。しかし、その死の呪縛から、自由という命あふれる世界への扉が開かれて行きました。それはまさに、自分の信仰によるものではなくて、隣人の信仰によって、誰かの愛によって開かれていった。そういう世界がここに描かれているのです。

 この中風の人を世の人は神の裁きによって打たれた悲しい人としか見ませんでした。しかし、イエス様は違いました。イエス様だけは違うようにこの人をご覧になられたのです。この人によって神の赦しが実行されて、神の力が臨み、さらに、この世において最も尊い愛によって生かされ、愛によって世界をこれから開いていく人として、イエス様は躊躇無くお触れくださったのでした。キリストの弟子とするためにお触れくださったのです。誰もが触れることを拒んだ人にキリストは触れられました。皆様に触れてくださらないはずはない。

神の働きはここに無いと考える人

 イエス様の周りには必ずと言ってよいほどこういう人が現れます。「神を冒涜している」「ここには神の働きなど無い」「偽預言者ではないか」そう考える人です。その人の動機はこんないかがわしい、正統、オーソドックスではない。異端児に、本当に神様がお働きくださるのだろうか。いや働くはずはない。そいういう思いを持った人間が必ず現れるのです。3節を見ますとそれがどういう人であったかわかります。

 ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思うものがいた。

 とありますように、律法学者の中に、そういう思いを持っている人がいたというのです。真理を探求し、公平な視点を持っているはずであろう学識の高い学者がこういうことを考えるわけです。知識が増えること、真理への探究心が加えられることはとても素晴らしいことです。しかし、そこに傲慢さが加わってしまうと、キリストをも裁いてしまう高慢さになってしまう、神をも恐れない尊大さへとつながってしまう。

 知識を持っている人、識者に求められることは、どんな人よりも謙遜であることです。知識を得ればえるほどに自分は何も知っていないことを知り謙遜になり、神を見上げるようになる。

 律法学者は神に従うことよりも、知識を絶対化しました。自分の頭の中にある正義や判断基準こそすべてで、その頭にあること以外のことは認められない。正しい知識とはこうでした「罪の赦しは神のみがなさることで、目の前のイエスという人物がそれをすることは、人が神になる行為である。それは人を神としてしまう偶像礼拝である」と。

 だから、イエス様を見て。こんな偽りもののところに神の働きなどあるものか。罪の許しなどあるものか。病の癒やしなどあるものか。何も起こるはずなどなかろうと考えたわけです。しかし、現実は律法学者が考えた通りではありませんでした。6節以下。

 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。…起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい。…

 その人は起き上がり家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

 目の前で起こった否定しがたい出来事によって、律法学者の尊大さは否定されました。神の業によって「ここに神の働きなどあるものか」という先入観は打破されました。

 ここに神の働きなどあるものか。こういう声は声に出さずとも聞こえてきます。特に私は牧師としての歩みを重ねていますので、牧師が牧師に対してこのような思いを持っているという現実に出会うことがあります。例えば道半ばで牧師の道をあきらめて別の道に歩みだした人にむかって、「神の働きがなかった」と烙印をおす人がいます。

 また、牧師も実際にストレスの多いものです。精神的な病に陥ってしまう方が実は大勢おられます。時にその病の回復がみられずに、自死に追い込まれてしまう人もいる。そいう人に対して声に出さずとも、恐ろしいことに「神の働きがなかった」と考える人がいるのは事実です。

 しかし、本当にそれでいいのでしょうか。私たちがなすべきことはもっとべつのことではないでしょうか。中風の人を必死で運んで屋根をぶちぬいてでも、常識的にはそれがもしも通らないことであったとしても、なんとか神様この人に触れてください。憐れんでください憐れんでください。そう叫ぶ。そこに神の御手が働くと聖書は教えているのです。この聖書の尊い御言葉に従って、闇の中に閉ざされている現状が変わる。もしも、神がその手を添えてくださるのであれば、私たちが愛し抜いて、愛し抜くその人の闇の現状を打破してくださるのです。その権威がイエス様にはある。その方に私達はお従いしているのです。

 閉ざされて、人の尊厳が壊されて、人が人によってダメにされてしまう。そういう現実を見つめながら、それを変えることができるキリストの権威を知っている。それを行使する。愛するのならば、神が私達の手に御自分の尊い御手を添えてくださるのです。それが教会。そのキリストの権威を知らないことこそ、恐ろしい罪です。神が闇を打ち砕き、愛により救おうとされているその神の御心を知ろうとしないことこそが罪。キリストのお姿を知らされたのですから、キリストの思いを示されたのですから、キリストが私たちに手を添えてくださることを信じていきたい。友を愛することを小さなところからはじめていきたいと思います。アーメン。