マタイによる福音書12章9〜14節 「優先事項」

何を祈っても良い

 私はサッカー、バスケットボール、ラグビーと運動部に所属しその部活の中で育って来ました。監督や先輩からこっぴどく叱られたことが何度あったか分かりません。ですから、どうやったら監督や先輩に怒られないように自分が動くのかということを瞬時に考えて行動してきました。「どうしたら怒られないで済むか」と考え、顔色を伺いビクビクすることが癖になっていきました。言い換えるならば、何が正解なのかということを考えて模範解答を出すことを至上命令のように考えて生きてきました。

 しかし、聖書の神様と出会いまして、驚いたことは「模範解答を出す」ことよりも、「神様との対話を持つ」ことそれ自体を神様は大事にしてくださるということです。正解や答えなんて人間の側が持っている必要はない。神の前に模範解答など用意する必要などない。とにかく何にもわからなくても、神様の前に行って、わからないままの自分で神様と対話をすれば良いのだ。

 このことがどれだけ大きいことであったでありましょうか。人生においてなんとか誰の目にも正しく見える模範解答を出せるということを目指して生きてきた自分の価値観が崩壊していくようでした。しかし、これこそが、神を前にした自分自身の癒やしでありました。

 「これはこうでこのことが正しい」よりも「神様のお心はいったい」と神様に目を向けることこそを神は求めておられる。

 神様の人間に向かう姿勢というのは本日の聖書箇所の前のマタイ福音書11章28節以下に端的に示されています。

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 キリストはとにかく1人の人を大切に扱い、その人が疲れているのならば休ませ、キリストが軛を一緒に担ってくださることを知ることが大事です。軛というのは牛が農耕の時に担う農耕器具の横木ですが。重荷を担う時に、すぐ横でイエス様がおられてご一緒してくださっていることに目を向けること。そのようにキリストは1人の人の重荷を担おうとされている、お心を知ることが大事です。現在主は何を私になそうとしておられるのか。

切れ味の良い裁く道具

 神の言葉というのは切れ味の良い剣です。良いもの悪いものを一刀両断に切り分けます。何が正しいことで何が正しく無いことか。その切れ味のよい神の言葉を知った人間がいつも心においておかなければならないのは、神が今どうお考えなのかという視点です。しかし、人間は切れ味のよい裁く言葉を手にすると、それを使って実際に自分が誰かを裁くために使いたくなるのです。そして、神は裁こうとはしておられないのに、言葉だけをもってきて、自分の正しさを示したいという動機で人にチャレンジし、人を裁くのです。

 それはもはや悪意と言って良いものです。

会堂に入ると

 イエス様が会堂にはいりますと、その中に手の萎えた人がいました。目に見える病を負った人というのは、ユダヤ社会では非常に目立つ存在でした。癒やされない病を負っているものは、自分、若しくは先祖が重大な罪を犯してしまった罪人であると考えられていたからです。

 だから会堂の中にいる人達は全員が、「手の萎えた人」が今日この会堂の中に今いる。ということを認識していたはずです。そして、主イエスが次々と様々な場所で癒しの業をしていたことも、多くの人に知れ渡っていました。

 だから、ここに手の萎えた人がいると分かれば主イエスはその人をほおっておくはずはない。今日は安息日、どんな労働もユダヤ人の法である律法においては禁止されている。だから、主イエスは癒やしたくても癒せないはず、もし癒やすなどということをしだしたら律法違反で、このイエスという人物が偽物であるのだということが明らかにされてしまう。そういうことができるチャンスがあれば、イエスが偽物であると言えればすかさず言ってやろうと考える人がいたのです。

 イエス様を糾弾しようとしていた人というのは、神様がどう今お考えかということよりも、この律法という切れ味の良い裁きの言葉で、どうこの眼の前の人間を裁いてやるか。そのことに心が奪われていたのです。神ではなくて、律法にまるで力がるかのように、神をどこかに追いやって、律法を神とする。言うなれば律法を偶像化する行為にでていたのが彼らがしていたことです。神の言葉である律法を偶像化することもありうるのだということがここに書かれていることです。

神の名を背負わせることによって

 ある考え方があって、その考え方の良さ、素晴らしさを実感し、それを周りの人に伝えていく段階で考え方自体が絶対化して、誰も絶対に揺るがせないものになる場合があります。しかも、それを神がお望みであるなぞという考えがそこに加わって、神格化が進む。言葉が偶像化するということが起こります。その偶像化された言葉を絶対として、それを誰かにぶつけて、誰かをその切れ味の良い言葉で切り刻む。なぞということが起こります。

神とつながってほしい

 神様とまさに人がつながるということをいつも願っておられたイエス様ですから、言葉が偶像になってしまっている人達。すなわち神様との交わりが絶たれて、神がどうお考えかよりも、これが神の言葉で正しいので、絶対。神が今何をお考えかなどということを祈らなくなってしまった、言葉を偶像にしてひれ伏している人を立ち直らせようというのがここでのイエス様の思いです。

 で、イエス様がこの日安息日に会堂に入って、この手の萎えた人を癒やすということを堂々と行ったということは、おそらくイエス様は狙って、そうなされたのだとしか思えません。なぜなら、この片手の萎えた人を癒やすというのは、極端な言い方をすれば、安息日の次の日まで伸ばして、それから癒やすということだってできた。労働をしてはいけない安息日律法を守って、その上で労働をしても良い次の日に日をずらして癒やすということだって可能でした。

 この人は手の萎えているということで今日の内に命を落とすということはありえませんし、それほど緊急性の高いものというわけではなかったからです。だから先延ばしするこができたはず。しかし、あえてイエス様は先延ばしせずに、律法違反とさえ見えてしまうことを堂々とだれの目にもとまるところで、会堂という目立つところで、律法を違反していたらだれでもそれを指摘できる。そういう知識に溢れている人たちの前で見せつけるようにして、「絶対にしてはならない」と皆が考えていることをしたのです。

律法をもとに馬鹿げた議論を

 イエス様はよく分かっておられたに違いありません。律法をもとに馬鹿げた議論をどれだけユダヤ人が積み重ねていたことか。例えば、安息日に羊が穴に落ちた。羊を一匹持っている人というふうにイエス様はおっしゃられているので。おそらく貧しくて羊を一匹しか持てないそういう貧しさに苦労している人のことを念頭においているはずです。その人にとってその羊がどうなるのかということは非常に重大な死活問題なわけです。

 で、律法の学者達は、羊が穴におちてしまった場合は、安息日には引き上げてしまうと労働をしたことになり、律法違反になってしまうので、穴におちた羊に餌をあげておいて、餌をあげるということも積極的に餌を上げてしまえば労働になりうるから、ポイと餌を捨てるような形で投げ入れておいて、羊の命をながらえて。。。というような馬鹿げた議論をくりかえしていたのです。

 本当に大事なことは神様が羊を穴におとしてしまったその人の悲しみをどう見ておられるのかです。憐れみをもってその人をみて、特に貧しい人であったから、その羊をなんとか救出することを神様御自身も願われて、そのとおりすることをゆるすのだと。

 羊一匹に対してそれほどに救うことを考えてくださる神様が、神の似姿におつくり下さった人間に対して救い出そうということに躊躇することがあろうか。

 もし、イエス様の前に、神に触れていただけると必死で躍り出てきて、誰の目も気にせずに憐れんでください、私は罪人です。と思っている人をキリストがましてやほっておくことがあろうか。

 言葉を神のようにして偶像にして、それを死守して神の似姿である人間を傷つけるなどということをするな。神は神の似姿である人間を守ることを最優先されるのだと。神のお心に目を向けよとお教えくださっているのです。

その結果・・・

 そのやりとりの結果、言葉を絶対化し偶像にしている人はどんなことを思ったのかと言いますと14節。

 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

 と書かれています。結局この基準に見合わないやつは「亡きもの」にしてしまおうという結論に至ってしまいます。もう、ここには神様などおられません。神へ視点などありません。神の言葉、すなわち律法を巡っての議論なのですが。神のお考えなどどうでもいいのです。自分がこの人を赦せないから、亡きものにしてしまおうという、自分主体の発想です。

中世の暗黒時代

 1648年、カトリックとプロテスタントの宗教戦争の時代が終わりを告げたウェストファリア体制ができるまで、中世ヨーロッパは暗黒時代でした。何故暗黒なのかといえば、宗教戦争の時代だったからです。

 宗教戦争というのは「私が正しい、お前が間違っている。」「私が神の側にたち、お前は悪魔の側に立っている。」そうプロテスタントとカトリックが言い合うという恐ろしい戦争の時代でした。相手が悪魔だと決めれば、徹底的に根絶やしにして滅ぼし合う戦いとなってしまいました。残虐極まりない拷問が横行し、それはまるでこの世の地獄という光景が広がっていました。

 宗教戦争が終わりを告げ、講和条約が結ばれた後の時代をウェストファリア体制といいます。自分が神の側に、正義の側に立っているという認識をもつことで戦争をすることをもうやめよう。そういう自分が正しいからこの戦争は正義なのだという認識に立つのはやめよう。正しいから相手を滅ぼすということはもう決してしてはならない。

 神の言葉を絶対化して相手にまさに振り下ろしたのが、この宗教戦争の時代であったと言えるでしょう。

 しかし、イエス様はその千年以上まえにすでに、人間が正義を振りかざし、神ではなくて言葉を偶像化することの問題を大胆にわかる形で、あえて律法を犯すということを通して教えてくださったのです。

相手を殺すという結論に至る考え方

 相手を殺すという結論に至る考え方。

 はじめは良いことを、律法を守れと言うわけです。正義を守れと言うわけです。律法を守ることは極めて重要なことです。律法を守るということはそこに神との交わりという命の対話が起こることです。これを守ること神様に心を注ぎ出すこと、そのことを神様がお喜びくださる。神様に向けてこれを守るのだ。愛する主を愛するためにこの律法を守るのだ。生きておられる神様とかかわりを持たせていただくためにこれがあるのだ。

 その重要な視点を失い、御言葉の切れ味という、正しいものと悪いものとをわけるというその力にのみとらわれて、その力を振りかざすことに心が奪われてしまうと、もうそこには神との交わり、命の対話などありません。己の正しさを誰かにぶつけ、間違っているものをなきものとしようとする怪物がそこに現れてしまうのです。

交わりや対話を拒否すること

 交わりや対話を拒否して相手の間違っているところを指摘する。これが争いの原因です。本当は目の前の相手が大事であり、その人との関係性こそが大事なはずです。

 なのに、いつしか剣を振りかざしてしまう。時にメシアに対しても。

 いや、私たちがもしも人間である誰か1人に対して、正義をぶつけて、剣を振りかざしてその人をなきものにしようとするのであれば、まさにイエス・キリストを亡きものにしようと決意した今日の箇所にでてきますファリサイ派の人達と同じであるのだということです。いいきた交わりよりも、言葉を絶対化し偶像化してしまっているのですから。

 聖書の言葉というのはとても痛い言葉でもあります。私たちの本質を指し示します。

 神が今何をお考えなのかという視点がいつもどこかへいってしまいます。

 しかし、もっとも大事なことは。

 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる。

 とおっしゃられる主がそばにおられる。その御顔を拝見する思いで生きることが許されているのだということなのです。アーメン。