マタイによる福音書 20章29〜34節 「王の憐れみ」

忘れられているのではないかという寂しさ

 日本という一見恵まれているようにみえる社会の中で、寂しさを覚えながら歩んでおられる方は多いのではないかと思います。核家族社会となり、おじいちゃんおばあちゃんとのかかわりが薄く、さらに子どもたちが忙しい父親、母親とのかかわりを十分に持てないで育つということも多い。シングルマザー、シングルファザーである場合もあります。この賑やかな社会の中でたった1人で今この時を過ごしている子どもも大勢います。

 自分が誰からも覚えられていないという寂しさは恐ろしいほどの渇きとなります。

 マザーテレサの有名な言葉があります。

 「世界で一番恐ろしい病気は孤独です」

 インドのカルカッタに造られた「死を待つ人の家」で貧困や病気で死を迎えざるを得なかった、その人のすぐ近くに寄り添い、看取りをし、孤独にだけは触れようとされたマザーテレサ。彼女だから言える言葉であると思います。

 この言葉は真実でしょう。逃れられない境遇を見てきたマザーも、たった一人その人に寄り添う人がいるのならばその人の病は癒やされるのだという経験を重ねてきた。彼女が言える確信に満ちた言葉です。

エリコの町とは

 マタイ福音書20章29節以下の、舞台はエリコという町でした。この町はとても繁栄した賑やかな町でした。世界各地から人々がエルサレムに上るときに立ち寄る場所でありました。エルサレムより北部から来た人は必ず通らなければならない土地でありました。エリコからエルサレムまでは20kmほどの所にあります。

 エリコの町はローマの軍隊も駐屯していましたし、円形劇場や競馬場までそこにあったとつたえられています。ですから、軍事的にも、政治的にも重要な場所として富と権力がそこに集中してあったということができます。エルサレム巡礼のための人もそこに集いますから、宗教的にも重要な意味をもっていた場所であるとも言えます。

 特にこの時期というのは過越の祭りの前でありましたので、人が大勢街中にいたに違いありません。ユダヤ人はどんな土地にあったとしても、来年こそはエルサレムで過越の祭りを過ごしたいと思っているもので、それは今も昔も変わりません。だから皆がエルサレムを目指しているそんな時期でした。

 だから、エリコにはいろんな人が集まっていたのですから、富や権力や知識や知恵、そういったものにあふれた人々だって大勢いたに違いないのです。

神が注目なさるのは

 しかし、この雑踏の中、豪華絢爛な町並み、その中で神様が注目しておられるのは、力ある者ではありません。富のあるものではありません。人生が順風満帆でキラキラしているような人ではありません。神がその雑踏の中で目を向けられたのは、道端に物乞いとして小さくなって座っている目の見えない人でありました。

 29節にはこのように記されております。

 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。

 この時も一方ではお祭り騒ぎのようにして、人々は大勢イエス様のあとをついていったのです。その中で、イエス様が目を止められたのは、盲人でありました。彼は孤独であったに違いありません。

二人だったのか?

 その盲人は二人であったと記されております。30節。

 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、

とあります。

 しかし、他の聖書の箇所で同じ出来事が記されているところには、マルコによる福音書ですが次のように記されております。10章46節。

 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。

 マタイによる福音書では二人の盲人、マルコによる福音書ではティマイの子、バルティマイ。違うことが書かれています。さてどちらが本当なのでしょうか。と疑問に思われる方もおられるかと思います。しかし、マタイはマルコ福音書を参考にしながらマタイ福音書を書いたのだと言われています。ですから、マタイの方があえてこの記述を書き換えたのだと言うことができるでしょう。

 マルコ福音書の方が個人の名前が出てきて、より記事としては信頼のおけると言いましょうか、臨場感と言いましょうか、個人の顔が見えるような気がしてより良いのではないかと思ってしまいます。

 しかし、マタイはあえてこの箇所はティマイの子、バルティマイとはせずに、二人の盲人としたのです。そこにはマタイの意図があります。

あえて特定しなかった

 あえて名前を特定しないということは、どういう意味があるのか。それは、主イエスが見定められた、その相手というのは特定されないのだということです。その群衆の中で誰が選ばれるのか、それは分からないということです。あえて匿名性を持たせるのですから、だれがイエス様によって目を止めていただけるのかそれは分からない。ということを言いたいのです。

 多くの場合、「あの人には神様の祝福がありますよね。しかし、この私になどありません。」だとか、「いやあの人になんて絶対神の祝福が与えられるはずなど無いじゃないですかあんなひどい人に。」などといって、神さまが目を止めてくださるその範囲を人間が限定したり、狭めたり、ということをしてしまっています。

 「あの人の所にいったらあの人と神様とはご一緒してくださっているからいいコトあるんじゃないか。あの人のところにいったら神様はおられないんだから悪いことが起こるんではないか。」そんな思考になってしまっていたら、おそらく神の働きをいつの間にか自分勝手に特定してしまっているという罠にはまりこんでいるということになるでしょう。

 神様が目を向けられたのは、誰もが忘れ去り、誰もが軽蔑し、誰もがこの人は罪人だと判断してしまっていた人に対してです。すなわちそれは、私たちができれば避けて通りたいと思っているような、私たちが嫌悪する、そういう人に対しても神の目が注がれうるのだということです。

 当時の社会では絶対に癒やされることのない病を負った罪人と皆が判断して捨てさっていたその人にこそイエス様は目を注がれたのです。

誰もが嫌悪していたその人こそ

 誰もが嫌悪していたその人の中にこそ、イエス様に対する信仰が既に生きていました。30節の言葉を見れば彼らの信仰が分かります。

 「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」

 ダビデの子よというのは救い主よという言葉の言い換えだと思ってください。ダビデの子孫からメシア、救い主が生まれると信じられていました。だから、ダビデの子よというのは救い主よという意味です。イエス様に対して救い主よと呼びかけることができる。それが私たちの信仰です。天の父、子なるイエス。聖霊なる神。この子なるイエスがメシアであると信じることができるというのが私たちの信仰です。

 イエス様という方が救い主であり、神である。あのお方によって神の愛が完全に示されている。もしも、イエス様が本物であるのならば、自分たちに目を止めてくださるはずだ。そういう期待もこもった言葉でもあったでしょう。

 しかも、この盲人は本日のマタイ福音書においては、ただ「叫んで」イエス様呼び止めたとしか書かれていませんが、マルコ福音書を読みますと、より描写が具体的でありまして、マルコ福音書10章50節ですが。

 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。

 上着を脱ぎ捨てと書かれているのですが、これは脱ぎ捨てではなくて投げ捨てのほうがよりその状況を正しく現しているのではないかと思っています。なぜなら、物乞いをしていた人達というのは、自分の上着を広げていたから。その上着に、お金を投げ入れてもらっていました。だから、上着は着ていたのではなくて広げていたと考える方が妥当だと思うからです。

 しかし、その場合、彼らにとって上着というのはお金が入っているものであり、お金を投げ入れてもらうものであり、これが生活の糧とも言えた。だから、上着がなくなってもらったら本当に困るのです。しかし、そういった生活に今必要なもの、死活問題でさえあるもの、それさえすべて捨て去ってでもイエス様のところに踊り出て言った。すべてをかけてもお会いしてなんとかメシアに触れていただかなければならない。そういう必死の思いを抱いてイエス様の前に行ったのです。

単刀直入、必死な願い

 そして、彼が言った言葉というのは、またさらに、単刀直入で明快な願いでありました。これを主は受け入れられたのです。この単刀直入な願いというのは、実は20章20節に描かれている弟子の母親たちの願いとは対照的なものでありました。この単刀直入さをイエス様はよしとされた。弟子の母たちはなんと願ったのかといいますと。

 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。

 この箇所からも何か奥歯に物が詰まったようなと言いますか、なにか下心といいますか、これは言ってはまずいんじゃないかというような口ごもった言い方です。そしてそのあとに言った内容に関しても誰が支配権を持つのかというような内容です。これにはイエス様は応えられなかった。

 しかし、この盲人に対しては、二つ返事で応えられます。すぐに目にふれ癒やされた。

 矢内原忠雄という私の敬愛しますキリスト者の思想家、経済学者でありましたけれども、この方がこんな言葉を残しております。

 人間の真実は人間の祈りの他になく、人間の義(ただ)しさは人間の懇求(ねがい)のほかにない。(詩編講義 143編)

 願いばかり祈るのは問題だとよく日本人牧師は指摘します。私も指摘してきた気がします。しかし、人間の義しさは、嘘偽り無いその有り様は、願いの中にあらわされるのだ。ということはまことに真実であろうかと思います。何を願い祈っているのかというのは、その人のその時のそのものを現しているでしょう。人に見せようとする祈りをしてしまっている時ではなく、必死で何をも捨て去っても神の前にいかなければならなくて、捨て身の祈りをささげるときにその人の真実の姿が映し出されるのです。

 そして、喜ばしいことに、捨て身の祈りに確実にキリストは、即座にお応えくださるというのです。

盲人の人生

 盲人の人生は180度転換させられました。目が見えるということ、そのことをは彼がもはや物乞いをしなくても良いのだということを意味していました。180度人生が転換させられて驚くべき恵みの世界に入れらえたその人は、何の条件もつけず、言い訳もせず、ただただ「イエスに従う」というこの聖書の言葉に端的に記された、その言葉どおりに歩みだしたのです。「イエスに従う」そのままです。

 奥歯にものが挟まったような口ごもって従うことをあとにするようなそんな、歩みはもうできなかった。なぜなら、キリストが即座にお応えくださる方であることを知ったから。そのキリストに後押しされるようにして、彼は「キリストに従う」という言葉でしか現すことができない、シンプルな歩み、潔い歩みに入っていったのでした。

弟子と盲人

 20章20〜28節に描かれている弟子たちの姿と、この盲人の姿とは面白いほどに対照的といいますか真逆といいますか。違います。

 弟子たちは何を求めていたのかといいますと、「誰がいったい支配の座につくことができるのか」という、言うなれば組織の中で自分がどのポジションに立てるのかという思いでありました。しかし、盲人は主の憐れみによりすがり、これなしではもはや生きていくことはできないという必死さのもと主イエスに、心からの祈りをささげたのでした。

 この両者が並べられていて、明確にどちらの道をあなた方はたどるのかという問いかけをイエス様が投げられているというのが、今私たちが立っているところであると思います。必死の祈りをし、主の憐れみによりすがるのかどうか。それとも自分を守るために何かを考え行動し、自分がどこにいるのかをいつも気にして、自分を守りたい欲求によって自分を神から遠ざけてしまうのか。

 主の憐れみは、メシアの憐れみは、王の憐れみは、必死に祈りすがるその人に確実に注がれます。それこそが主の憐れみです。周りを意識して自分がどこに立てるのかなどと考えているうちはそれは受けることができません。しかし、必死にもうこれしか無いと信じて自分を投げ打ってでも単刀直入な祈りをささげるその人を主は1人にはされません。

 冒頭でマザーテレサが「世界で一番恐ろしい病は孤独」だとおっしゃられたと引用させていただきました。しかし、世界で一番恐ろしい病は孤独なのは真実ですが、その孤独の中にこそ、イエス様がお入りくださるのだということも真実でありましょう。そこをめがけて主はお越しになられますので、心からの祈りをささげ、救いを求めたいと思います。主が触れてくださいます。アーメン。