マタイによる福音書8章23〜27節 「主よ、助けてください。」

恩恵は困難から

 イエス様を知るためには、苦しみを経なければならないと思います。苦しみの底から叫んでこそ、キリストの偉大さを知ることになる。そうでなければ、キリストがそばにおられる有り難さというものに気付かない。イエス様と出会う時は、今まで思いもしなかった状況にぶち当たってどうすることもできなくなった時です。自分がこれは安心だと思い込んでいたことが安心でなくる。頼りにしていたことが頼りにならなくなってしまった。そういう状況でキリストを知るのです。

 だから、キリストに従う歩みは冒険の歩みです。今までどっぷりとここは安心だと座りほうけていたところから立ち上がって、別の場所に行くということがおこり続けます。

 本日共に読んでいます箇所は8章23節からの湖の場面ですが。この場面に先立ってどうしてもふれておかなければならないのが、18〜22節です。この箇所が枕詞となって、本日の箇所があると言えます。

18節。

 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。

 イエス様という主に向き合う信仰の言葉として、これ以上に素晴らしい服従の言葉はないように思います。律法学者の言葉です。まさに模範解答と思えます。しかし、イエス様の返答は、「よろしい、すばらしい応えだ」というようなものでは全くありませんでした。20節。

 狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。

 この応えは、え?何のことですか。と言いたくなるぐらい、「どこへでも従って参ります」という律法学者の言葉に見える対する応答とは思えません。はたしてここにはどんな意味があるのでしょうか。

 イエス様は、この律法学者の模範解答を言おうとする思いに対して、その表面だけをなぞるのではなくて、心にあることを読みながら、応えられているのです。

 律法学者と言えば、イスラエル民族の中で、安定した生活を営み、指導的立場に立っていた人です。しかし、その一切を捨て去って、律法学者という立場を捨てて、無条件に従う気があるのか。そのように問われた問いなのですこれは。一読したかぎりでは、分かりません。しかし、言葉の意味を噛みしめると分かってきます。

 イエス様に従うという道は、そもそもどんな道であるのか。イエス様に従うということは、この世での平安が約束された道ではありません。むしろ、イエス様はどんな場所にも入って行かれた方ですから、イエス様に反対する者たちが大勢いるようなところにも入っていかれました。さらに言えば、この世の王のように経済的に恵まれていたというわけでも全くありません。

 ですから、イエス様に従うということは、枕するところもない不安定な放浪の生活を受け入れなければならないという道でありました。だから、イエス様は人の子には枕する所もない。人の子というのはご自分のことですが、落ちついて平安に枕するというようなところはない。しかし、あなたは平安をこそもとめて今の律法学者という地位についているのではないか。まずは、自分の安定を捨てても構わないという覚悟を持って従えと言われたのだとうことです。

模範解答

 それからもう一点律法学者ではなく、弟子たちがまた「模範解答」のような信仰の言葉をイエス様に言います。21節。

 「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」

 と言います。ユダヤ社会において、父を大事にするということは至上命令とでも言うのでしょうか。絶対的に大事なことでありました。十戒にも「あなたの父母を敬え」とあります。そして、信仰を伝えて来てくれたのは父であり、その父を大事にするということは、神様御自身から頂いた恵みを大事にするということにつながる。だから、父を大事にするということは誰も反論できない、ユダヤ人にとってなすべきことの第一とでも言ってよいことでありました。しかし、イエス様は言われます22節。

 わたしに従いなさい。死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせなさい。

 とおっしゃる。なんというひどいことを言うのか。大事にすべきことを大事にして何がわるいのか。父が亡くなったこと、その葬儀を優先させることがいけないことなのか。そのように反論したくなります。

 しかし、イエス様のおっしゃりたいことは、この弟子への召し、イエス様の招き、これらはすべてのものに優先される。この神と人との絆ここそがどんなこの世のことを差し置いても優先されるべきこと、主の支配、神の国があなたに望むということは、そういうこと。主権は神にあり。本来神を信じるということはそういうことではないのかという、究極の問いかけです。主はあなたではなく、主である神である。

 律法学者に冷たく接せられたのも、律法学者というのは、基本的に自分の学問体系、自分の考えの中の一部にイエス様のお考えを組み込んでその学問体系の中で物事を考え、組み立てていっている人です。自分がやはり主となり、それによって自分の視点から物事を考えて行っていた。そういったことをすべてお見通しであったのです。だから、自分の主権をすべて明け渡して、イエス様にすべてをお委ねする歩みに本当に入る気があるのかと問われたのです。

 主権をすべて神にわたして、委ねる気があるのか。

信仰者の証し

 私はもう教会とのかかわりが始まってから、14年ほどになりますが、数々の信徒の証しを聞いてきました。多くの方々が試練の時に、信仰が開かれる思いがした。そして、委ねるということ。自分を明け渡すということ。自分のこだわりを捨てるということ。そのように神の前に脱力して、ぺしゃんこになって、神様もうあなたにすべてを委ねるしかありません。と言ったその時から、神の聖霊がくだり、神の憐れみがくだり、誰かの助けがあたえられたり、環境が整えられたり、時宜にかなった聖書の言葉が与えられたり、人生が開けていったり、そういう変化と神さまのご介入を経験したのだ。ということをいろんなところで聞きます。

 ある信仰者の言葉に。

 恩恵はただちに来るものではない、困難をとおして来るものである。困難は恩恵を身に呼ぶための中間物である。

 という言葉があります。まさにそのとおりのことがいたるところで起こっている。神様は困難をご準備されてその中で神様と人間とが出会うということが起こる。そんな証しで溢れています。

湖を渡る弟子

 湖をわたらなければならなかった弟子たち。これも彼らにとっては試練でした。本日の箇所。23節。

 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。

 病気を癒やす特別な力。神様がまさにここにおられるとしか考えられないような主イエスの業。イエス様ご本人から発せられる天の国の言葉。それらに、弟子たちはこころ奪われていたことでありましょう。ですから、イエス様と湖を渡るということで、ここでどんな素晴らしいことが起こるのか。期待を込めて一緒に舟に乗ったのであろうと推測します。

 しかし、イエス様と一緒に乗った舟はどうであったでしょうか。湖には激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになりました。イエス様についていけば安心、大丈夫。というわけではないようです。むしろ、大変なことが起こるのです。24節に出てきます。嵐という言葉は、「セイスモス」というギリシャ語がもとは使われていまして、このギリシャ語は特別な言葉です。たんなる嵐と訳すだけでは足りない。セイスモスは「地震」とも訳される言葉です。

 イエス様が亡くなられた時に、地震が起こったと記されていますが、その地震と同じです。マタイ福音書27章54節あたりに出てきます。あとでよろしければご覧いただきたいと思います。波が起こり舟が飲まれそうになった。ガリラヤ湖は突風が時々起こるのだということがよくいわれます。しかし、ここに書かれているのは、セイスモス、地震でもあるので、それ以上のものでありましょう。その証拠に25節の弟子の言葉に注目していただきたいのですが。

「主よ、助けてください。おぼれそうです。」

 しかも、「おぼれそうです。」は「滅びます」とも訳せます。もう、滅んでしまう。救ってください。どれだけ弟子たちがこの状況に危機を感じ、もう自分たちが滅びに至ってしまうのではないかという恐れさえ抱いたということですから。天変地異が起こってもうこの世界がダメになるのではないか。ということさえ匂わすような発言をしているということですから、よっぽど恐ろしいことが起こっていたということでありましょう。

しかし、その中で眠る

 しかし、イエス様は弟子たちがそれだけ危険を察知しているような現状の只中で、すやすやと眠ることができました。ちょっと待って下さい、先ほど20節で。

 人の子は枕する所もない。

 と言っていたその方が、枕して眠っているではないですか!

 確かに、状況を考えたら枕する所もない、安心できない状況がイエス様の周りを取り囲んでいた。この時も天変地異に値するようなことが起こっているのですから。しかし、イエス様が人々に開き示そうとしておられる信仰は、天変地異のその只中でも、神様とつながり、神への信仰に生き、すべてを委ねて、主権を明け渡して、その神の主権に信頼するというあり方なのです。

イエス様のお心

 イエス様のお心、イエス様の視点、イエス様の神様への信頼。こういったすべてを委ねて、天の父の視点で、この状況は滅びに値しない。大丈夫だ。そのように思えたら一番良いと思います。そのような心が与えられるように、と見えない聖霊なる神が心に満たされるようにと願います。しかし、多くの場合は、人間はほんの小さなことを恐れて、ほんの小さなことを気にして、そのことが自分を滅ぼすということは決してないのに、まるで滅ぼされるのではないかのような発言を繰り返しているのではないでしょうか。

 全然、父なる神の大きな視点とは程遠い、目の前の不安で、右に左にとブランブランと振り回される現状ではないか。

 しかし、そういった時にこそ、私たちが教会という場に身をおいているということがとても大きな意味をなすのです。私は以前遠州教会という教会で伝道師をしておりました。隣の浜松教会という教会がすぐ近くにあるのですが。その教会のデザインは舟でありました。まさにどう見ても舟としか思えない、礼拝堂の形でありました。すばらしいものです。私たちの心がたとえどれだけ平安を失って、心が乱されて、神に委ねるというような状況に至っていなくても、イエス様がおられる舟の中に入り、眠っておられるイエス様を揺り起こし、なんとかしてください。滅びそうです。と言うができる。この環境こそが私たちにとって大事なものです。私たちの心はふらふら、安心したり、突然不安になったり大変なものです。そして、心が定まらない内に、次から次へと試練がふりかかってくる。

 その時に、この弟子たちのように「主よ、助けてください。おぼれそうです」とイエス様に言うことができる。これこそが私たちが頂いている絶大なる恵みなのです。

 このイエス様と目と鼻の先、この距離に自分をおいているかどうかが大事なのです。助けてくださいといくら不安な状況を抱えて心乱れていても、イエス様にいうことさえできれば。そこに救いががるのです。

 「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」というお叱りは受けるのですが。そのお叱りを受けた時に、はじめて自分が何に恐れていたか。それは神の支配のもと本当に恐れる必要のあったものだったのか。神の御手が自分の上に確かにあったではないか。何があっても救われる。何があっても、キリストがお守りくださる。その神の手の内にあったではないか。とお叱りをうけて初めて気づくのです。

お叱りを受けて聞く

 私は、こっぴどく傷めつけられて、痛い思いをして、その上で親や周りの人にに叱られて、それではじめて大事なことは何だったのか、気付かされて来ました。皆さんもそうではないでしょうか。時にそれは環境が試練になったり、誰かが試練になったり、しかし、その中で真に私を愛してくれるその人からのお叱りを聞くということが起こっていくのではないでしょうか。痛い思いをしてこそです。後悔をしてこそです。自分の視点を一度捨てざるをえなくて、そこから立ち上がるというプロセスを経て大事なことを心の底で受け止めるのです。

 それはやはり、聖書のなかに描かれている父なる神様も、私たちを育てるため、必要なこととして、試練を経験させ、心の中にある思いに気付かせ、叱り、神の支配の何たるか、神に委ねるとはどういうことなのかをお教えくださるのです。そこではじめて物事を聞いた、受け止めたということになるかと思います。

新しい地平が開かれる

 弟子たちは言いました。27節。

 「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」

 滅びそうな苦難を経験して、イエス様という方はどのようなお方であるのか。どういう力によって自分たちが守られているのか。新しい視点が彼らには開けていきました。

 それまでは、風や湖はイエス様には従わない。と考えていた。1人の人間のようにしか見えないイエス様の姿を目の前にしていれば、いくらメシアだと受け入れようが、大自然はこの方に従うはずはなかろう。さすがに、、、。と思っていたのです。しかし、その先入観が打破されて、偉大なる神の力という視点へと目が開かれていったのです。その御方がそばにおられると心の底から受け入れたら、人生観や、人生に対する態度は大きく変化していきます。

 キリスト者にとっては、神様への理解が広がっていくこと、このことによって人生に対する態度というものも自ずとかわっていきます。それは、私たちの信じるキリスト、メシア、イエス様というお方は、まさに弟子と一緒に船に乗って、その弟子のそばで昼寝をされたり、叱りつけたり、すぐ近くにおられて近くでキリスト者をおまもりくださるお方だからです。だから、その方のそばでの生活ですので、その方への理解が変われば、人生そのものが変化していくということが起こるのです。

状況、環境、人

 状況、環境、人は常に変化し、かならずしも私たちにとって心地よい状況が続くというわけではありません。アゲインストな状況、嵐のような状況、地震のような、地盤から自分の人生が揺らされるような出来事が起こります。しかし、その時に、我々のこころは動揺しますが、見るべき方向はイエス様ということは変わらない。

 人に何か言われたり影響されたりして、その人のことばっかり考えて、やがて呪いに思いが変化する。キリスト者は呪いに支配されるのではなく、キリストを見るのです。どうしていいかわからないから、イエス様に助けを求めるのです。イエス様がどうお考えなのかそのことに思いを向けるのです。多くの場合、お叱りを受けるでしょう。「一体なぜ神が守っているのに、なぜそんな小さなことで恐れるのか」と。しかし、その言葉を聞くことこそ、私たちにとっては神の支配のもとに足をもういちど踏み入れて、その平安の中でいきるチャンスなのです。

 もうみなさんは舟に乗せていただいている。そこに眠っておられるイエス様にお声をかけるだけです。そこに救いがある。アーメン。