マタイによる福音書14章22〜33節 「安心しなさい。わたしだ。」

神を神と信じる難しさ

 神様を私たちは礼拝しています。しかし、その礼拝の対象である神様がどのようなお方か、心の中でハッキリと受け止めきれているかと言えば、そうではないことも多いのではないでしょうか。インマヌエルなる主を信じる。共にいてくださる神様を信じている。これが教会の信仰の言葉です。では、神が共にいてくださるということはどういうことなのか。

 それは神様がどのようなお方であるかということにかかっています。

 神様は創造者です。この世界をお作りになられた。この時も、宇宙も地球も星もすべて神が造られた。この秩序はすべて神によってのみ保たれて、神が思われたらこの秩序は変化し、終わりを迎えることだってありうる。

 そんなスケールの大きなお方が、私たちと共におられるということ。あまりにも話しが大きすぎて、いつの間にか忘れてしまうこともあるのではないでしょうか。まさかこんなところに、こんなことで、私をお助けくださるはずもなかろう。そんなふうに考えているところに、イエス様は現れてくださる。天の父の権威を帯びて、全能の神の力をいただいてそこにおられるのです。その方に声を上げることができるかどうかが、キリスト者としての私たちのなすべきことと言ってよろしいでしょう。

神様はどんなお方か

 神様はどんなお方か、イエス様御自身のことを見ていくとすこしずつ分かってきます。イエス様は5千人もの人々、特に病める人々に触れられました。イエス様はひとりひとりに丁寧に向き合い、そのご愛をお示しくださいました。おびただしい群衆に取り囲まれて、さぞかしお疲れのことだったと思われます。主イエスは人であり、神であられる。人間の限界を持ちつつ人間の限界を飛び越えておられる方。しかし、人としての疲れは覚えられたことでしょう。

 だけれども、イエス様はお休みになられません。休むのではなくて、祈るため山に登っていかれました。先週もご一緒に読みましたが洗礼者ヨハネが殺害されてしまって、そのことを静かに祈るというそんな時間さえ群衆に囲まれてありませんでしたので、静かに祈るために、山に登って行かれました。愛するものためならば休まないのです。

やはり、休めない。

 でも、イエス様はやはりここでもゆっくりと心を落ち着かせて殺されてしまったヨハネのことに思いを寄せるということができませんでした。弟子たちが湖に舟で漕ぎ出し、その舟が悪天候によってなかなか進むことができませんでした。イエス様は山におられました。どうして弟子たちが困っていることを遠くから知ることができたのでしょうか。それは祈っておられたからでしょう。天の父のお示しだったと思いますが、またまた自分の悲しみではなくて、他者の困窮に応えるために出ていかなければならなくなります。文句を一言も言われることなく、愛する弟子たちのところに向かわれるイエス様のお姿がここに記されております。

お休みになられない。

 イエス様はご自分の使命のために、常に出て行かれて休みをお取りになられない。そんな生活をなされています。これは今も昔も変わらないのではないでしょうか。あらゆる祈りをお聞きになり、その祈りにお応えておられる。どんな人の困窮に対しても寄り添われて、そこにおられる。イエス様のこのお姿を見ていけば、あのマザーテレサが抱いていた確信を持つのは当然のことかもしれません。どんな人にも神の姿を見る。そこに神がおられる。小さなキリストをそこに見る。いま力無く事切れていくその人の中にもキリストを見る。そこにキリストがおられる。

キリストはここにいるここにおられないとは。。。

 キリストがここにおられる。ここにはおられない。そんなことを平気で口にする人がおられます。信仰深そうなその人をみれば、そこにキリストがおられると言い。逆に信仰が薄いような人をみればそこにキリストはおられないと言う。はたしてそんなことって1人の人間が言うべきことなのでしょうか。言うべきことではないと思います。キリストは、苦しみの声を聞けば。本日の箇所をみればわかりますが、そこに飛んで行かれるような方です。先週の5000人の人々が食べて満足するという記事がありましたが、実はあの記事の中で食事にあずかったその人達の多くは後に反キリストにまわるわけです。そんな人々のためにわざわざ食事の準備や、病に触れるということをする必要などあるでしょうか。そういう反キリストに周るような人は神様から捨てられても仕方がないのではないかと人間は思ってしまう。しかし、そうではない。神の思いは違います。キリストはそのような信仰のうすそうな人というか、すぐ手のひらを返してキリストを裏切ってしまう、その人のところにも行かれるということをこの5000人の給食の記事は指し示しているのです。イエス様はその人がこの先どうなるかというような打算的な思いではなくて、今その目の前にいるその人に精一杯の思いを込めてお仕えになられるのです。

 私は教会は打算的な発想をすべきでは無いといつも思います。それはキリストに倣うのが教会だからです。教会にとって利益になるからこれをするとか、これをすれば信徒が増えるからこれをするとか、そういう教会に+になるようなことを最終目的とすべきではないと思っています。

 もちろん教会にベネフィットを生み出すようなことを絶対にしてはならないということではありません。しかし、利益を最終目的や行動の判断基準にしてはならないということです。今日の箇所を見ていても分かりますが、イエス様にとってはなんか利益になるようなことをイエス様御自身がされているでしょうか。

 イエス様は全くそんなことをお考えになられる方ではない。その時に、その時すべきこと、神様のご愛に応えて。そのご愛の中を生きるためになすべきこと。誰に何を言われても、めちゃくちゃ損失が出たとして、それでもすべきこと。それをなされているのです。

イエス様のご命令がそもそも、、、

 イエス様は22節において、弟子たちにお命じになられました。

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群集を解散させられた。

 弟子たちは強いて舟にイエス様のご命令によって乗せられたのです。自分たちで舟に乗ろうとしたのでは全くない。そのイエス様のご命令に従ってみたら、弟子の集団にとって利益になるようなことが起きたわけではないのです。むしろ不利益になること、命の危険を覚えるという船旅を強いられることになってしまったのです。

 さらに、言えばこのイエス様に対して信頼を寄せつつあった、イエス様によって満腹させられた、パンと魚を腹いっぱい食べて神の恵みを経験したあの5000人の人々こそ、集まって、新しい信徒の群れを作り、イエス様を信じるものたちの集まりを増強すれば良かったではないかと思います。5000人というマンパワーを集めればもっともっと偉大なことができるのではないか。と勘違いしてしまいますが、そのような判断をイエス様はなされずに、とにかくこの時は解散をさせて、弟子たちを舟にのせるということに集中なされたのです。

利益によって、マンパワーによって

 教会が受け継ぐことができる利益というか、良いと思える何ものかによって教会を保とうとか、教会にたくさん人が集まってくれば教会が良いものになるのではないかとか。そういった発想をすぐに持つものですが、そうではないのです。イエス様が求められるのは、神様を神様とするたった一人の信仰者です。弟子たちをその信仰の担い手として選ばれて、強いて舟に乗せ、訓練をなされたわけです。たった一人、神を神とする人の祈りがそこにあれば、そのことを通して周りの人々が良いものに預かる。そのたった一人がいなかったら神を神とする信仰は受け継がれないのです。

全能の力をもってお越しくださる。

 弟子たちはまだイエス様が、神であるということを、正しく受け入れきれていませんでした。イエス様は父なる神と同一のお方である。もしそれがわかっているのならば、イエス様を見て、「幽靈だ」などとは言わなかったでしょう。イエス様が水の上を歩いておられる姿というのは。創世記1章2節の言葉がその背景にあります。創造の一番はじめの記事です。

 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 この言葉を思い起こさせ、この神の力がイエス・キリストに宿っていることを受け入れて、腑に落ちて、弟子たちが神をまことに体験できるように。イエス様はご本人が湖の上にお立ちになられて、神と等しいお方であることを弟子たちにお見せになった。そして、旧約聖書の中で神様が度々イスラエルの民におっしゃられてきた。「恐れることはない」という言葉を、御自身が神であることを示すために弟子に言われるのです。旧約の中であなた方が読み、あなた方が信じ続けてきたその神があなたのそばにいる。目にみえる形をとって、人間となってあなたのそばにいる。そのことが、あなたの力となる。神を神とする。その信仰こそがあなたの力となる。

ペトロは頭ではわかっているつもり

 ペトロは頭ではイエス様が神であることを受け入れていた。だから、イエス様がお命じになられれば、自分も湖の上をあるくことができるはず。全能の力をお持ちのお方ならば、それが可能だと考えたのです。しかし、一度、強い風が吹くと、その信仰の確信がどこかに風と共に吹っ飛んでしまいました。信じることができなくなって、ペトロは湖のうえで沈みかけます。「疑い」が神の力が流れ込むことの妨げとなってペトロに神の力がおよばなくなり、ペトロは沈みかけます。そこでペトロは叫ぶ。

 「主よ、助けてください」

 するといつもと同じようにすぐにイエス様はその必死なペトロの叫びに応えてペトロをお救いくださいました。

 ペトロは頭ではイエス様を救い主、神様として受け入れていた。しかし、それが腹まで染み渡っていなかった。心の底から信じているかといえばそれは甚だ怪しかったのです。イエス様を神様と言葉では告白できたけれども、その神を全能者として求めることは難しかったのかもしれません。

そもそも私たちの信仰とは

 そもそも私たちの信仰は、実は吹いて飛ぶようなもの。カラシ種の信仰を持っていれば良いとイエス様はおっしゃられましたが、まさにそのとおりで、カラシ種の信仰でしかない。カラシ種はまさに塵のように小さなものですが、その種と同じくらいの信仰しか実は持ちあわせていないのだということを認めることが大切なんだろうと思うのです。ペトロの信仰を支えていたのは、ペトロ自身の信仰の偉大さではなくて、イエス様です。イエス様がペトロの信仰を支えているのです。

 「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」

 とペトロを見捨てずに、いつも伴走してくださるイエス様がおられるから保たれているわけです。そのイエス様のお力によって自分の信仰が実は保たれているのだということを心のそこで認めること。このことこそ、主が私たちにまず求めておられることです。自分自身で自分の信仰さえ実は守れていないのだということです。嵐がくれば、すなわち自分にとって都合の悪い現実が襲ってくれば、その現実によって信仰はカラシ種のようにいとも簡単に吹き飛んでしまうということです。

 そんな信仰薄き私の信仰がなぜ保たれているのかといえば、それはイエス様御自身が守ってくださっているからです。助けてくださいと叫べばそれに応えてくださる。信仰薄き者よとの、お叱りを受けますけれども、それでも見捨てられることはない。その神の憐れみの中で涙しながら、「本当に、あなたは神の子です」と言って主にしがみつくのです。

弟子たちにこの経験をさせた

 キリストの業をこれから担う弟子たちにまず、この経験をさせました。

 不信仰、信仰の薄いままでも、まずキリストにしがみつく。そこで風がしずまり神の力が現されていく。不信仰なまま神にしがみつくという信仰を神様は弟子に教えられた。これこそが、この後あらゆる苦難を乗り越えるために必要なキリストの弟子の信仰の態度だったのです。教会にあつまるのは信仰深い人ではそもそもありません。信仰なき人が神にしがみつきながら神に従う。そこでこそ神の業が見事に証されうるのです。

 イエス様のお声が聞こえてくるようです。

 あなたは自分自身のことを勝手に自分で見限ったり、人に見限られたりされてはならない。あなたの欠けを通して神の業が現される。だから私によりすがり、私に頼りなさいと。泣き叫んででも私のところに来なさい。私たちをいだき止める準備を既に神はなさっておられるのです。アーメン。