マタイによる福音書 13章1〜9節 「100倍に実を結ぶ」

あなたに福音を届けるために

 思えば、この福音書に出会うまでの道のりというのは長いものでした。二十歳の時まで度々、聖書に触れる機会はありました。しかし、本気でこれが神様からの語りかけであったととらえることはできませんでした。偉人の言葉が記されている倫理の教科書程度にしか考えていませんでした。しかし、この福音書というのは驚くべきもので。私たちとイエス様との対話を起こさせるもの。イエス様がご準備くださる救いの中へ、天の国の中へ、人々を巻き込む書物です。この書物を本気で読み始めますと、必ずイエス様に出会う。そして、驚くべきは、イエス様はこの私を救うことを常にお考えくださっているということに気付かされます。

救うことだけをお考えに、、、

 人間は、自分に神様の目が向かっているということに注目するよりも、時として、「あの人は救われているのか」「いや、あの人は救われていない」とかそういったことに目が向いてしまう時があります。しかし、本当に注目すべきは、イエス様がこちらを見ておられるということのみです。本日ご一緒に読んでおります、マタイ福音書13章1節からのところも、種まきの例えが用いられて、種が私たちの信仰として描かれて、信仰がどのように邪魔されたり、育たないかということが書かれています。その例えを読みながら「あの人の信仰は道端に落ちてしまった種のようだな」とか「この人の信仰は石だらけで土の少ない所に落ちた信仰だな」とか考えるようでは、全くイエス様御自身の意図を読み取ったことにはなりません。

イエス様のお心は

 イエス様のお心が示されているところをまず読みたいと思います。13章11節です。

 「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」

 目の前のイエス様に近くにいる人、特に弟子たち。このイエス様とのかかわりを何より大事にする、その人達はすでに「天の国の秘密を悟ることが許されている人」であるとイエス様はハッキリと言っておられます。弟子の中にも不信仰な弟子たちがおりました。弟子は立派な信仰者なわけではない。しかし、弟子はとにかくイエス様の近くにて、いつもイエス様の言葉を自分への語りかけとして聞いていた人です。そういう人をすでに「天の国の秘密を悟ることが許された人」としてイエス様は扱ってくださっているということなのです。

種まきの例え

 種を蒔く人のたとえは、いろんな角度からいろいろに理解されてきました。さっき言いましたように、あの人は不信仰だあの人こそ石だらけのところにまかれた目の出ない信仰だ、という風に読むのはもっともダメな読み方です。そうではなくて、この箇所は、既に天の国を悟ることが許されてイエス様の前に集められている人が、人生の様々な場面において、起こりうる自分の出来事として、自分への神様の語りかけとして聞くのが最も良い読み方です。人はその時々によってある時は、道端にまかれて鳥に食べられてしまう信仰のような時があり、鳥というのは悪魔の例えですけれども、悪いものに心がついばまれるようにして信仰がダメになってしまうような時もあります。

 あるときは、石だらけのところで根を張れずに、信仰がしぼんでしまうような時がある。土地を耕すということを怠って、神様の言葉を聞いて心の中に何かが芽生えたとしても、その後何もしないので、根っこがはられずに、根っこがはっていないので簡単に吹き飛んでしまう。艱難や迫害が起こったときに、根っこの無さが災いして、一瞬で吹き飛んでしまう。苦しみが襲うと信仰を失うというのです。

 茨の間に落ちたものとは、日光があたらずに栄養を十分に蓄えることができずに、ダメになってしまう時もあります。受けるべきものを受けなければならないのに、何かこの世のものによって妨げられて神様から受け取るべきものを受け取らず、感謝せずに、この世に遮られて信仰がしぼんでいってしまう。世の中の思い煩いや富の誘惑によって信仰が奪い去れれてしまう。

 しかし、良い土地に落ちたものは、100倍もの実を結ぶ。

 良い土地に落ちるということはどういうことでしょうか。昔の種まきの仕方というのは、種を地面に撒き散らして、それを耕していくというやり方でした。種を蒔いてそこを耕して空気や栄養が十分入り込むように、種が必要なものを吸収できるようにするというやり方でした。種を蒔いてそれをしっかりと手入れして耕して、芽が出る状況にし続けていくかどうかということが良い土地に落ちるということの意味です。

イエス様の話は他人事として聞いてはならない

 イエス様のお話というのは、自分への言葉としてすべてを受け止めて吟味していくのが良き聖書の読み方です。それが良い土地に落ちるということです。本日の聖書箇所のすぐまえの所で12章後半で、イエス様がお話をされていると、外に立っているものたちがいました。外に立っているというのは実際に外に立っていたということもさることながら、これは比喩的な表現として読むべき言葉です。外に立っているというのは、自分は部外者として、自分への語りかけとしてではなくて、誰かへの話として、話を聞いていたということなのです。外に立っているものに対してイエス様はおっしゃられました。外に立っているのはイエス様御自身のお母様と兄弟たちだったようですが。そのご家族を横目にイエス様は、肉親ではないものたちに向かってこう言われました。

 12章49節。

 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 これは肉親に対して言われた言葉ではないというところが大事です。肉親は残念ながらこの時、外にたって他人事のようにイエス様の言葉を聞いていた。そういう人を本当は肉親であるのに、イエス様は他人のように扱われた。イエス様の言葉を自分への語りかけとして聞くものを家族というふうに呼ばれたということなのです。

聖書を読むと、、、

 聖書を読んで知識を得て、余裕をかまして誰かを裁くようになる。こういう読み方は良くない。いや往々にしてこういう読み方になりがち。自分を棚に上げて、人のことを責めるために神の言葉を使うことがある。これは外に立って読んでいる読み方です。

 イエス様の目の前でイエス様が自分へ語ってくださったこととして聞く時。その時は自分の罪や足り無さが暴露されてしまうような思いがして、いたたまれなくなります。

 13章1節以下の言葉も、すべて自分へのものとして聞くのです。あの時は自分は石地に種をまかれたもののようであったな。あの時は、茨が邪魔していたな。私はなんと不信仰だったんだろうか。そう読むと、いたたまれなくなるというか、神様に申し訳ない思いで満たされてしまうということが起こってくるのです。

 聖書の言葉というのは外に立って論理的に冷静な分析力でもって、余裕をかましてこれを知っているあれを知っている、だから自分はこのことを誰かに教えることができる。というような読み方では、いけない。それは聖書を聖書として読んでいることにはならないのです。聖書はイエス様の自分への言葉として聞かなければなりません。

御言葉というのは

 良い土地に落ちたというのは、その土地を耕し続けていくということ。もちろん例えですから、農作物に根が生えてきてまたたがやしてしまったらその根がダメになってしまうという現実はあります。しかし、このまかれた芽に対して、良い土地にしようとメンテナンスし続けるということ。このことこそが重要です。

 この13章の御言葉も、何度も反芻し吟味して読み続けなければ、イエス様がおっしゃりたいその意味というのが見えてこない。10節以下を表面だけ読むのならば、なんという排外主義なんだろうかと読んでしまうことだってできます。秘密を語ってもらえるものがいて、語られない人がいて、その語られない人、蚊帳の外にだされてしまっている人はいくら神様が語りかけてくださっても理解しない。だから、一見してこの箇所は弟子とそれ以外の人を区別し、弟子をとことん大事にしていく排外主義というか他のものは排除するような言葉として読む人がいるかもしれません。

 しかし、この言葉というのは、目の前に居る弟子、そのすべてに語られているのであって、先ほども言ったように、目の前にいるひとすべてをイエス様は天の国を受け継ぐという前提でお話をされている。語りかけているその全員に対してあなたがたこそ、天の国を受け継ぐのだという言葉です。この中には裏切る者もいました。でも、それでもイエス様は諦めることをなされずに、あなた方が天の国を受け継ぐのだというその前提でお話してくださっている。

種を撒き続け、語り続け、救い続ける。

 13章1節以下では、芽が出るかどうかという人間の側の信仰の話ばかりに目を向かわせてしまって、種まきをされておられる神様のお姿というものをあまり私たち人間はフォーカスしないものです。信仰の種を巻き続けてくださっているのは、神様であるという大前提を忘れがちです。ずっと何があっても、例え芽がでなかったとしても、そこにあきらめずに種を撒き続ける神様のお姿。

 悪いものについばまれてなかなか芽が出なくても、それでも種を巻き続ける。石地におちて、全然いつまでたっても芽がでないかったとしても、それでも種を巻き続ける。この世の誘惑や、富の誘惑に心奪われて信仰に栄養がまったく注がれないそいういう人のところにも神様は種を撒き続ける。とにかく種を蒔く人が休むということはない。種は撒き続けられている。その大前提があってことその話なのです。

 そして、たいして立派な人でなくても、イエス様のことをやがて裏切ってしまうような人であったとしても、少しでもイエス様の言葉を自分への語りとして、外に立たずに聞こうとするものをすかさず天の国、神の支配、神の守りのものとに入れようとされているそのイエス様のお姿がここには書かれているのです。

 13章10節以下の、聞くものは聞くが聞かないものも多いというこのイエス様の言葉は、裁きの言葉というよりも、神の嘆き、神の悲しみの言葉です。語りに語り続け、種を撒き続け、あきらめずに人類のために働き続けてきた、神様のその徒労の中にある悲しみの言葉なのです。

 何度やってもうまく行かない。何度語ってもすぐにダメになってしまう。でも、それでも神は語り続ける。その神に対して、自分の意思で一瞬でも応答しようとするそのものを、天の祝福で満たす。イエス様の言葉を自分への言葉として聞くことができるということがどれだけ偉大なことか、それを語っている。

 神様御自身にあられましては、人間が応答してくれるというそのたった一つのことを切望なされ、それを一身に求めて休まずに働きかけて来られた。

 その神様のお姿が見えてくるということこそが撒かれた種をしっかりと耕すということです。良い土地に種が落ちるということです。

13章12節の言葉は

 13章12節の言葉は、父なる神の言葉として、私たち人間は悲しみのあまり聞いていられないような言葉です。あふれる程に満たして子として独り立ちさせようと、信仰によって歩むものにしようと働きかけて、子どもが立派に育つようにと、あふれる愛情で満たそうとされているのに。

 「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。」

 持って豊かになってほしい。にもかかわらず人間は自分でその信仰を捨てるというようなことを行ってしまう。与え尽くしているのに、それが取り上げられてしまうという現実がある。その現実を悲しみの眼差しで見ておられる神様の姿がここにあるのです。

唯一大事なもの

 唯一この世界で大事なもの。ただひとつ選ぶのならば、それは神との関係だけです。神は徹底的に私たちとかかわりを持ちたいと願っておられる。まさに、父として子を愛そうとして待っておられる。その関係性の中で父に目を向けて、父からすべてを受け取って生きていく。必要なのはこの事だけです。それを得続けることに集中していく時に、100倍もの実りが達成される。信仰によって世界が恐ろしいほどに広がり、神を愛する誰かとつながり、人生が驚くほどに豊かになっていく。天の国とつながり、天を国籍とするすべての人とつながり、神がまねこうとされている誰かのところに私たちは遣わされる。

 神の言葉が注がれている。間違いなく。これはここにおられる誰一人例外ではない。その言葉をついばみ邪魔しようとし、世の出来事が、神の言葉を思い巡らすことを邪魔します。しかし、それでも受け入れ、心の土壌を整えつづけ、自分への語りかけとして聞いていくのです。100倍もの恵みというのは、なんともアバウトなと思いますが。それだけ言葉にできないぐらい倍に倍に倍を重ねるぐらいの恵みが与えられるのです。それが天の国が心に広がるということの現実なのです。アーメン。