マタイによる福音書 13章36〜52節 「神は待ってくださる」

リアルな現実を見る目

 「こうあるべきだ」というものを想定して、その理想にそぐわないものを悪と簡単に決めてしまう悪いクセが人間にはあると思います。しかし、そんなに簡単に理想がこうであるということは決めることができるものなのでしょうか。確かにおぼろげながら、こうあったらすばらしい、というものは見えていますが、それでもその理想はおぼろげながらなのであって、私たちがそうそう簡単に見出すことができるものではないと思っています。そのとき、まさに天の父がおられて、理想を追い求めながらも、天の父に委ねれば良いというキリスト者というのはなんと幸いなのかと思います。

イエス様はたとえで天の国を説明なさった

 本日ご一緒に読んでいる箇所には対(つい)になる箇所があります。そのところを振り返っておきたいと思います。13章24節以下です。

 天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて蔵に入れなさい」と刈り取る者にいいつけよう。』

 この箇所に関する説明を弟子たちは求めていました。この話は弟子たちだけではなくて、多くの群衆に向かっても話された内容でした。しかし、この例えの解釈については、イエス様は家の中に入って弟子たちだけを前にしてお話をされていきました。

通り過ぎるもの、よく聞くもの

 イエス様の言葉は多くの人に語られていきますが、それを理解して、自分の生活にあてはめていこうと本気で思うものは、やはり弟子と呼ばれる人々となり、そうではない一瞬で通り過ぎる人々も多かったことがこの記事からも分かります。弟子と呼ばれるにいたらなかった大勢の群衆が常に描かれています。

 神の言葉がそこに確かに記されていると考えるものは、とにかくその言葉の周りで生活しようとします。それは聖書に神様がたしかに記されていると考えるのならば、ある意味当然のことでありましょう。最重要な書物として、とにかくその書物の周りでといいますか、離れずに生活するようになる。ちょうど弟子たちもそんな姿だったのです。

たとえ話は

 たとえ話は何度も咀嚼して噛みしめて行かないとなかなか正確な意味がつかめません。たとえ話など本気で受け止めないかぎり、簡単に通り過ぎることができる話かもしれません、人によっては。あぁ、単なる例えか、現実は違うよね。それで済ますことだってできる。しかし、たとえ話こそ、イエス様は本当に言いたい意味合いをそこに投入し、新しいものの見方を弟子たちに提供するものなのです。

 13章の24節言葉に注目してください。イエス様はこう言われました。

 「天の国は次のようにたとえられる。」

 天の国。これは天の支配とも言い換えられます。神様の支配権が伸ばされるところ、そのところはどんなふうになるのかということです。実際に神様の力をどうやって体験するのかということがここに書かれているのです。神はどう働かれるのか。

 「ある人が良い種を畑に蒔いた。」

 ある人と表現されるこの人は人の子。つまり、イエス様です。イエス様はある人と表現されるのです。特別な誰かというわけではなくて、単なる1人の人として描かれております。イエス様はある人にとっては単なる「ある人」であり、ある人にとっては特別な救い主である。外見からして簡単に判別することができない。まさに人として来られる。神の支配もそう、天の国もそうやって、外見からして判別できない状況で身近にやってくるということです。その時に大切なのは、簡単にイエス様の前を通りすぎないということです。

 皆様にとってはどういう方法で神様が皆様に近づかれたでしょうか。人によって全く違います。それは「一つこうだ」これしかないと一元化できません。ということは、逆に言えば、どんな手段を使ってでも、神は御自身を現されるということです。

 第三者が「こんなところに神の働きなんて無いよ」というその所にキリストは出現してくださる可能性がある。たった1人の「ある人」を通して皆様にお働きくださるかも。

 次週来られる鈴木崇巨牧師の息子さんを通して私は教会に初めて出会いました。彼が教会に誘ってくれなかったら、私は今ここにいないでしょう。しかし、その「ある人」を通してキリストは出会ってくださる。それは誰だか人には分かりません。だから、私たちは決してある人の救いについて諦めるということは許されない。あの人は、今日そっぽを向いて神様に反抗しているかもしれないけれども、次の瞬間、彼の人生を決定的に変化させる何かが起こり、それによって全く違った歩みをはじめる、その可能性を決して捨ててはならない。キリストが、種まく人がある人として現れてくださるということは私たちにとって救いなのです。

キリストが蒔いてくださるのは

 キリストが蒔いてくださるのは、常に良い種です。良い種は「御国の子ら」として生きることができる種です。それは具体的に言えば、福音です。この聖書の言葉です。聖霊という目に見えない神様のお働きです。聖書を読みキリストのお気持ちを知らされている私たちは、この種を既に受けているものです。

 しかし、悪い種もまかれる。それはキリストから蒔かれるのではなくて、敵によって蒔かれる。寝ている間に来て、毒麦を蒔いていく。毒麦というのはいわゆる雑草のことです。麦の吸うべき栄養も吸ってしまって成長し、何も実らないので何の役にもたたないものです。

 麦というのは人を活かします。しかし、雑草は人を生かさない。雑草が役にたたないとは、生物学者の先生からは怒られそうですが、これは例えであることを覚えていただきたいと思います。他者の命のために役にたつものを実らせる麦が「御国の子ら」であり、他者の命のために役立つのではなくて、自分が大きく成長することだけを目指す、すなわち人を生かすものを何も実らせない雑草が「悪い者の子ら」です。他者の栄養を全部すいとって自分のものにし、自己充足を目指す。悪霊とか、悪魔とかいう言葉で表現されます。

 

畑は世界

 畑というのは世界であるとイエス様がおっしゃられています。畑には良い種も悪い種も、蒔かれる。悪い種はこれまた悪いことに、いつのまにか気がつかない内に、悪いものによって蒔かれる。それが良いものなのか、悪いものなのか、区別がつかないぐらいに、いつのまにか畑に、世界に入っていく。それを選別して抜いてしまおうとしても、時には間違って良い種の麦をも抜いてしまうということが起こりうる。だから、どちらなのかほとんど判別ができない。まともさを装って、雑草は成長していく。だからだれにも分からない。分からないのであれば、それを神が最終的に判別されるその時まで、麦も雑草も一緒に育てていけば良い。それが神の憐れみの心です。

麦一本が抜かれることの悲しみ

 天の父は良い麦一本が刈り取られて捨てられてしまうことを悲しみ、良い麦が刈り取られることを絶対的に排除するために、悪いものも残しておかれる。それが神様の慈しみのこころ、憐れみのこころ。たった一本のために忍耐し、犠牲を払い、それを守るという行動に出られるかた。だから、私たちは神のもとで平安を得ることができる。誰が救いの手を伸ばさなくても神は、たった一人の私を見捨てるはずはないと思えるのです。

 私たちは全体が大きな被害を受けるのだから、ちょっと犠牲を出したとしても、全体が害を受けないように、麦も何本か抜いてしまうかもしれないけれども、悪いものをとにかく取り除いた方が良いと考えます。しかし、神様はたった一本の麦に集中されるのです。だから、悪いものを最後まで抜かないでおいておくのです。そのためのリスクは厭わないのです。

 理想通りこの畑すべてが良い麦でなければダメだ。そうでないのならば、この畑は悪い畑だ。悪い畑であるがゆえに滅ぼそう。もし、神様がこのような発想をお持ちの理想主義者だったら。理想どおりでなければ滅ぼすというお方であったらどんなにかこの世界は救いの無い世界であったかとおもいます。しかし、神様は極限まで忍耐されて、終わりの時まで待たれて、途中悪いものに影響を受けてふらふらしているものでも、その人も確実に救われていく、1人が救われるためならばあらゆる手段を用いられる。それが何年待つということになっても構わない。

悪いものは

 神から私たちを離れさせて、御国の子である確信を失わせるものは、一見してそれは悪魔的な形では私たちにのぞんでこないでしょう。それは時に立派であり、良く育っているようであり、この世の栄華を極めた装いをしている可能性もあります。私たちを幸せにしてくれるようなものであるかもしれません。それらは神によってとらないで、そのまま育つままにされていますので、成長できるでしょう。しかし、それらがもたらすのは、他者を生かす実りではない。他者を生かすのではなくて、自己充足です。種まきの主人が求めているものではありません。

種まきの主人

 種まきの主人はキリストです。御自身の命を弟子たちのために手渡すお方です。愛がその御心におありの方。愛とは意思、与える意思。人当たりが良く、愛そう良く誰からも愛されるような態度をとれる人が愛のある人ではありません。誰かに自分の命を手渡す意思を持つ。この意思の力が愛です。この御方が蒔く種によって成長させられたものは、一見立派ではないかもしれないけれども、麦のように命を誰かに手渡し、誰かを生かすものとなります。

良い麦か、毒麦か。

 自分の内にあるものが良い麦なのか、毒麦なのか。それらを自分でより分けて、自分の心の中にあるものを綺麗にしようとしても、それは自分でできることではありません。キリストによって種がまかれ続けられるということを経てはじめて、その人は御国の世継ぎとなっていく。自分の心の中にある種が良い種なのか、悪い種なのか。それらを分別して、取り除くということは不可能です。それは神様でさえなされない。そうではなくて良い種を撒き続けてくださるその種を受け続ける。悪い種をよりわけるのではなくて、良い種を受け続けるということに集中できるということが私たちにできることです。

自分の中に悪いものが

 自分の中に悪いものが、あるのは当然あるでしょう。神の御心にかなう純粋な天の人ではない。キリストとは全く真逆の利己的な瞬間だってあるでしょう。それを取り除こう取り除こうと考えるようになってしまうと、その人はいつか取り除けない現実に打ちひしがれてしまって、平安を失い心病むことになりかねません。そして、自分の悪い部分ばかりをみようとしていますから、人の悪い部分ばかりが見えてきて、人の悪い部分に翻弄されて、人に影響を受けすぎて、これまた平安を失うということになりかねません。

私たちが注目すべきは

 私たちが注目すべきは、ずっと私たちの世界や心に良き種を蒔き続けておられる神様のお姿であり、今日この聖書を通して皆さんに語りかけてくださり、聖霊によって心に示しを与えてくださるその神様の業です。

 さらに、業のみならず神様のお心、神は忍耐して、毒麦のような芽を心に宿してしまう私たちの現実に耐えて耐えて、それでもあきらめずに良い種をまきつづけて、私たち全体が良いものだらけになるまでに私たちに種をまきつづけ、そして時が来れば、私たちから悪いものを取り去ってくださる。私たちにできるのはその御方に信頼しつつ、弟子のようにとにかく種を蒔いてくださる、その近くに自分の身を置くことです。

刈り入れ

 刈り入れという終わりの時にならないかぎり、私たちの心から毒麦は、私たちの集団から毒麦は、悪い霊に影響を受けたものは、無くならない可能性がありす。いや、おそらくこの例えにあるように終わりの時までなくならないのでありましょう。しかし、そんな現実であり、決して理想的ではないこの私たちが抱えている現実を、寛容な眼差しでご覧になり、慈しみ忍耐されて、抱擁し、つつみ、やがてくる時に、すべて悪い麦を取り除いて、神の裁きのもと私たちを受け入れてくださる。その時には、キリストが蒔かれたキリストの種のみが私たちの心に残ることになるのです。

キリストの種を受け入れる畑

 キリストの種を受け入れる畑は、この世界とこの例えで示されていますが、これは私たち自身であるともいえます。このキリストの種を受け止め、キリストのものとしていかされ、小さなキリストとしての歩みを約束されている。キリストのものとしての教会。キリストの種を受け入れる人間。このキリストのものであるという何にも変えがたい尊さを共に味わうことができる。みなさんはキリストの種をやどした尊い畑です。アーメン。