マタイによる福音書13章44〜46節 「隠された宝」

犠牲をささげる幸い

 この事のためならば、時間も財も、私に与えられているものすべてを犠牲としてもかまわない。そう考え、実際に犠牲にしていく。そういうものが見つかった人は幸いでしょう。与えられた命を何におささげしていくのか、そのことと真剣に向き合う。キキリストが命をささげてくださったのだから、私もと。

 ただ、本当の意味で「幸いを味わい受け止めるまで」は、自らをささげるというところまでは行きません。幸いというのはどのようにして味わうのでしょうか。

 私はある福音と出会って大きく変化した人を知っています。その人は大金持ちの令嬢です。礼拝に時々来てはおられましたが、礼拝の時に献金のために100円をいつも椅子の上に置いて、献金袋がまわってくるとひょいとそれを投げ入れるようにして献金していた。

 ある日その姿を敬虔で熱心なキリスト者であるお母様がご覧になった。そのお母様は怒ってしまいました。なぜなら、十分に娘にあふれる財のなかから必要なお金、いや一般的な家庭からするのならば、そんな額を普通小遣いとして与えるかというぐらいの額のものを渡していた。だから、お母様はキリストへの献身の印としてその一部であったとしても、ある程度の額の献金ができていると思っていたのです。しかし、その娘にとってははした金ともいうべき小さな額しかしていなかった。その額の感覚というのは人によって変わるでしょうし、経済状況によって全然変わることは分かっています。しかし、有り余るものがあるのであれば、その有り余るものの中からささげることはできるはずだとお母様は思っておられたのでしょう。しかし、そのことにいくら注意してもその娘の意識は変わらなかった。ずっと、100円を気軽に投げ入れるような献金をしていました。

 しかし、ある時、彼女はキリストと出会った。それまでも出会っていたけれども、自分の救い主として、命を与えてくださる方として、肉の命が滅んでも、新しい命の与え手としてキリストを受け入れた。死を恐れなくなっていった。そして自らは滅ぶべき罪人であるという自覚が深くなり、ついには自分自身をお献げしてキリストに仕えたい。自分そのものをささげたいと思うようになった。現在はキリスト教と宣教師と結婚して、自分をすべてささげる覚悟をもって教会を支えています。幸いな人というのはこの人のことを言うのではないかと思います。自らをささげるほどに愛すべき方、キリストを見出すことができた。そして実際に自分をささげてしまう。

 自分をささげるというところまでキリストの愛を受け入れた人こそが幸いです。自分をささげるというところまでいかないのならば、それはまだキリストを受け入れてはいないということかもしれません。

主イエスと一緒に歩む幸い

 幸いとは、あのお方と一緒にいることができるという幸いです。あなたの足を洗い、あなたの傷に触れ癒やし、あなたの未来が永遠に守られることしか考えておられないあのお方。イエス様がそばにおられることによる幸いです。この方と共にあることほど大きな幸いはありません。まず、そこには平安があります。

鈴木崇巨先生との出会い

 鈴木崇巨先生と皆様は先週、お出会いしました。私にとってはもう14年来のお付き合いです。先生は父のような存在です。何があっても先生は私の幸いしか願っておられないということを良く知っています。その上で、率直に冷静にアドバイスをくださいます。「石井くん、それはまずいよ」とか「石井くん、それはとても良いことだと思う」とか。真正面からご自分のお考えの意見を言ってくださいます。そういう方がそばにいてくださると本当に安心します。その背後にはイエス様がおられて、イエス様は(鈴木先生には失礼かもしれませんが)もっと偉大な何にも壊されることの無い愛をもって私に臨んでくださっているわけです。鈴木先生はそのイエス様のご愛をうつしだす、主の器なわけです。私は久しぶりに、ホッとして肩の力が抜ける思いがいたしました。

 この世で経験することは多くの場合、私たちに条件を突き付けてきます。このような能力を発揮できたら、あなたを受け入れようとか。何か結果が出たらあなたを受け入れようとか。なにか人をぱっと明るくするようなことができたらあなたはすばらしいとか。

 一緒に努力して一緒に汗して未来を見てくれるのではなくて、「とにかく結果を出せ」と迫ってくるのです。たしかに結果を出すことは大事ですが。本当に大切なことは、互いに尊重して受け入れて、共に汗を流し、未来を見るということなのに、なかなかそういう関係に至ることは少ないものです。

イエス様がそばにおられるという幸いは隠されている

 イエス様がご一緒に歩んでくださっているというこの天の国の幸いは、隠されています。当初分からないものであります。「畑に宝が隠されている」ように。一見して全く分からないものなのです。しかし、あるキッカケを通して、気づくことができるようになる。それはたまたまのようにみえる。運が良かったのではないかと思えてくる。確かに人間の努力によって発見するわけではありません。

 イエス様との出会いは、こちら側が何かしたというような、作為によって出会ったというわけではない場合が多いのではないでしょうか。こちらがわは意識はしていなかったけれどもいつの間にか出会ってしまっていた。ある拍子にたまたま発見してしまったかのように思える。しかし、それはずっとそこにあったのです。隠されていたんですから無いわけじゃない、ずっとそこにあった。イエス様のご存在はずっとそこにあった。それを見つけていなかっただけなんだ。そのことに気づくと人は変わります。

大事なことって

 大事なことって既にそこにあって、それに気付いていなかったんだということがほとんどです。メーテルリンクの青い鳥は真実を言い当てている物語でしょう。青い鳥を探しにいったら、それは実は自分の家の鳥かごにいた。親の存在しかり、家族も。私を導いてくれた教導者しかり、教育者しかり、そして今こうして自分の周りのおられるすべての人々。この人々によって間違いなく私たちはとがれていくのです。大事なことはすぐそこにあって、その大切さに気付いていない。何より、神の見えざる御手がすでに守っておられる。守られているうちは、守られていることにさえ気付かないのかもしれません。赤ん坊が母親の腕の中ですやすやと何も考える必要も無く安心して眠っているように。しかし、確かに守られていた。守られていたことに気づくかどうかなのです。大事なことは。

ヘブライ人への手紙

 一般の人には見えないように隠されていて、それを見つける人がいる。その見つけた人は、見えないものを見ていることになる。見えないものを見る、それが信仰の世界です。関連する聖句として、ヘブライ人への手紙がありますのでご一緒に読みましょう。ヘブライ人への手紙11章1節。

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

 望んでいる事柄というのは未来に得るであろうが、しかしまだ得ていないもの。それは復活の新しい体であり、命であり、新しい御国での私たちの生活です。神様のもとでいこっている姿でありましょう。それを確信し、見ようとしなければ見えてこない一般的には見えない事実を確認すること。これが信仰であるというわけです。

隠しておく

 「見つけた人は、そのまま隠しておき」

 という言葉があります。畑で見つけた宝は絶対に失われないように、なんとか隠して誰の目にもとまらないように、確実に得ることができるように慎重に扱うのだということです。大切に大切に慎重に扱う。

 どうしても得たい、得ることができる可能性がある。そういうものを見つけた時には一日中そのことを考えているのではないでしょうか。誕生日プレゼントに親に何かを買ってもらいましたが、その前日なんて一日中そのプレゼントのことばかり考えていました。また、恋人同士なんて、本当に一日中相手のことを思っているということもありえます。大事だと心から思えることに対して人間は時間を投入することを苦とも思いませんし、絶対に得ることができるようにと考えぬくのです。

持ち物をすっかり

 持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

 未練がましく、財を投入することを渋ることをせずに、潔く全財産を投入してもかまわないとさえ思う。そのようにキリストがご一緒にいてくださるという宝を大事にする人のところに天の国は実際に来るのです。持ち物をキリストのためにすっかり売り払う覚悟のある人のところに天の国は来ているのです。後ろ髪ひかれる思いで未練たらしくキリスト以外のものを欲するような人のところには天の国は来ないともいえます。天の国はそいうものだと教えてくださっています。

捨てる、投入する、犠牲を払う、失う、労苦する

 持っているものをキリストのために捨てることができるか。犠牲を払うことができるか。労苦することができるか。こういったところに、人間の心の本心が現される。心のそこから天の宝を欲しているか、欲しているのならば、それ以外のものを捨てることができる。

 これは、あるいみ恐ろしいことですが、命さえも捨てることができる。そういう人が教会の歴史の中にどれだけいたことか。迫害でキリストを主と告白したら殺されるという状況の中で恐れず告白する人。自分の命を犠牲にしても他者を助けるために身をなげうつ人。恐ろしい狂気に満ちた選択のように思えることを時々信仰者達はします。自分の命が失われることさえも恐れない。それは、天の宝を欲し、それを主が与えてくださると確信しているから、それ以外のことをすべて捨てても構わない。命さえすててもそれでも天の父が受け入れてくれる。

今日この生命が

 今日この生命が削られてしまって失われてしまっても、なお得る宝がある。それは神のもとでの自分、キリストが寄り添ってくださっているその自分。あの憐れみ王が、御国の世継ぎとして私たちを扱ってくださるという、恐ろしいほどに大きな恵み。今命が失われてしまっても、それを恐れない。それが信仰者の姿です。

Kさん

 先日、聖餐式を守るためにKさんという方のお宅に伺いました。どんな祈りをささげているかというような話をしている時に、Kさんは、ふいに「私は死ぬことがもう怖くありません」とおっしゃられました。日に日に体力が衰えていくその中で、主の祈りを毎日祈りつつ、神に委ねるということに専心しながら日々歩んでおられるそうです。

 Kさんの近くで、私も心の底から平安を受けた思いがいたしました。自分はあくせく努力して頑張ろう頑張ろうとしているが、もっと大事なことがある。それは、徹底的に委ねきるというその心。神が望むのならば死をも覚悟して、神が決して悪いことはなさるはずがなく、最善しかなさらないと信頼して、死を迎えることになってもそれもまた良きことと神がしてくださる。その一点、神にすべてをかけるという一点で生きていけばよい。

 神を信じる、委ねるというこの一つのことに、自分の命をかけて、生涯をかけて取り組んでおられる。そんなKさんの姿を拝見することができました。信仰の道、信仰はたしかに、あらゆる財をすべて投入しても惜しくは無いもの、持ち物をすっかり売り払ってでも得たいもの。そうであったはずだと、自戒の念をもちながら思いおこさせていただきました。

どうして、、、

 どうして、人は信仰の道を歩んでいながらも、鎧で自分を守り、武装し、何かを得ることで自分を守れるかのように思うのでしょうか。そうではなくて、信仰の道というのは、持っているものをすっかりうりはらって、なんにも持たない状態のようになること、まったくすべてをなくして、それで神に信頼するということに全てをかける道なはずです。

たまたまはたまたまではない

 畑に宝を見つけるという出来事は一般的には奇跡的なできごとでもあり、また偶然ともいえることでもあります。こういったことを日本語では「たまたま」という。45節からの真珠の例えも、偶然にも商人が良い真珠を見つけたように書かれている。探してはいたけれども、欲してはいたけれども、それはまるで偶然のようにして、宝が目の前に現れるということ。

 しかし、それら宝は「たまたま」そこにあったのではない。神によって探す人が見つけることができるようにと、探せるようにそこにおいてあった。そこには神の作為があった。神様の意図が、意思があったわけです。言い換えるなら、神のお導きがあった、神のお招きがあった、神の業があった。というのです。しかし、一般の人からみたら「たまたま」です。しかし、信仰者にとってみたら「たまたま」ではもはや全くないのです。

偶然ではない必然の歩み

 この事実を発見した人は、ものごとを見る目が変わっていきます。この世で起こることになど偶然は存在しないのであると。神の意図、意思、作為がそこにあるのだと。信仰者が「これは神様の業だったのですねぇ」と言うと、第三者は「はぁ」と困ってしまうこともあると思います。しかし、それはしかたがない。自分に起こったわけではないことを、「これが神の業」と言われてもピンとこないかもしれないのです。しかし、自分では確実にわかる。どんなに周りの人が白い目で見て、荒唐無稽なこじつけだと言おうとも、「これは神の導きだ」としか本人には言えない導きを発見していくのです。

 見えない神の導きの手を人生の中に見出した人は、自らをささげる、何かを捨てる、犠牲をはらう。という生き方に確実に足を踏み入れることになるでしょう。キリストを見て、キリストに従うのですから。そして、キリストに委ねるという歩みに入っていくことになるでしょう。しかし、捨てる人は良く知っている。

 これは捨てたことにはならないと、捨てるものは必ず得る。神の力によって。そこには宝が眠っている。だから捨てられるのです。誰にもわからないかもしれないけれども、捨てたもの以上のもものがそこに眠っているのを知っている。絶大なるものがそこにあるのを知っているからこそ、それ以外のものを捨てることができる。それがキリスト者の歩みです。アーメン。