マタイによる福音書13章51〜52節 「新しいもの、古いもの」 石井和典

永眠者記念

 神の前に、皆で集える。永遠の命を待望しながら、この体はいつか朽ち果てるけれども、しかし、神が守りたもう。神の世界がそこにある。神の支配というその世界に足を踏み入れる。それが死である。ある信徒の方がおっしゃっていました。今日もし死ぬことになったとしても、安心。イエス様のところに行くのだから。むしろそこにはうれしさしさえあると。死ぬことがうれしいなんて!なんて突飛な発想なんでしょうか。しかし、ここにこそ、私たちの信仰の髄があります。

 死さえ恵みに変化するのですから、疲れや疲弊も恵みに変化する世界。それが信仰の世界です。肉体のほころびが恵みに変化するのです。神のもとに行った時に、良くやった忠実な僕よと、そう言われるためならば、この身を削るような努力をして、疲れきってしまっても構わない。

 私は以前はどちらかと言えばディフェンシブというか、守りに入りがちな人間だったと思います。今まったくその傾向が無いかといえば嘘になってしまうでしょう。しかし、何かのために自分の健康が危うくなるというようなことは恐れなくなりました。睡眠時間が足りないから寝なきゃとか、疲れているから休まなきゃとか、それは人間の自然な欲求でありましょうが、そういうことを飛び越えて神がこれをなせと命じられていることのために自分をささげていくことこそ喜びです。それによって寿命が縮まろうが大したことではないとも思っています。こういう発想をおかしな人間だという人もいるでしょう。

星野富弘さん

 星野富弘さんの詩で、私は強烈に影響を受けた詩があります。私は大学生になって、20前後で教会に通うようになるのですが、キリスト者になるかならないか、そんなときに読んだ詩で、おろしく私のこころをえぐると言いましょうか。バシーンと頭を殴られるような衝撃を受けた詩です。それはこういう詩です。

 いのちが一番大切だと思っていたころ/生きるのが苦しかった/いのちより大切なものがあると知った日/生きているのがうれしかった

 星野富弘さんは、中学校の体育の先生であられましたが、クラブ活動の指導中に頸椎を損傷し、手足の自由を失ってしまったそうです。その後に、口で筆をくわえて文章や絵をお書きになったということです。そして、洗礼をお受けになられた。キリストの歩みを知り、肉の命よりも大切なものがあるという発想になられたのだと思います。何より星野富弘さん御自身が徹底的に体の自由を失って、それでもなお神に恵まれるその世界を知ったからこそ、体の幸いよりももっと大事な魂の幸いを得たのでありましょう。

 自分の命より大事なものってあります。それは親にとっては子どもでしょう。また愛しあう恋人同士でしたら相手のことをそう思うかもしれませんが。信仰者にとってみたら、それはイエス様や神様になるでしょう。自分の命よりも大事なものを見つけた時。その時に、はじめて人は満足を得るのではないかと思っています。星野さんは「生きているのがうれしかった」と記しております。

 自分の命を捨てるほどに、何かを大事に思うと、逆説的に、そう思う自分の命がどれほどありがたいものか。生きていることがどれほどうれしいことかということに気づくということです。イエス様の言葉にこのような言葉があります。本日のマタイ福音書13章の少し前ですが。マタイによる福音書10章39節以下。

 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

天の国

 この信仰の世界を得ることが天の国を得るということです。イエス様のお心が、イエス様がお教えくださることが、心の中に広がっていって、どんどん定着していく。そうすると、その人の心自体が天の国となっていく。イエス様の思いが広がるところ、永遠の命がそこにありと言えるのです。その人の心は滅びることがない。その人は主イエスと永遠に生き続けるのです。

種のようであり、宝のようである

 イエス様がおっしゃられる言葉というのは、種のようです。「天の国はからし種に似ている」とおっしゃられましたが。からし種というのは、小さな1ミリ程度の種です。一見するところゴミと勘違いしてしまいそうなぐらい小さい。しかし、それがからし種の種であるのならば、確実に育ち、家の天井を超えて、何メートルにもなる木に育つ。キリストの言葉を聞いて、キリストのお心が心に広がっていくものたちは、そのように大きく成長します。

 天を恐れて人を恐れない。人のために命を注ぎ出す覚悟をつけている。そのような人がどうして大きくならないはずがありましょう。キリストの命につながれて、大きく成長していきます。今も昔も、本当に人が必要としているのは、こういう人の存在です。人の顔色を気にせずに、人を愛し身を裂く決断をしている人です。キリストがその最たるお方でありますが、そのあとを本気でついていく人を、この社会もこの世界も、世界中の人が必要としている。また、皆がそのようになったら一番良いと思います。

 でも、この信仰を真に宝として扱っている人は少ない。宝のある所に心があります。イエス様もルカ福音書でこのようにおっしゃられています。ルカによる福音書12章34節。

あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。

 何を自分の財産としているのか。それこそが大事なことで、何を財産と考えるかで、その人の心が決まる。天を財産としているのか、キリストを財産としているのか。自分の所有しているものを第一の財産としていると、その人は守りに入るでしょう。また必ずそれらは失われますので、状況や環境、また人を恐れるようになるでしょう。解放されて心が神に向いていて、自由だとは言いがたくなる。

新しいものと古いもの

 かと言って、それまで持っていたものが全く重要ではないかといえばそうではありません。人間にとって、この地で与えられた生活というものは大事なもので、その窓を通して人と出会い、誰かとのかかわりを作り上げていくのですから。すでに持っているものというのは極めて重要なことに変わりはありません。

 また、既に持っている習慣や日本の伝統。こういったものももちろん重要なのです。これらがなければ私たちの存在そのものが否定されてしまうことにもなりかねない。倫理観、習慣、伝統。大事です。しかし、それらはキリストが現れて、キリストが天のことをお教えくださって。ただただ信仰のみによって神へのまったきより頼みのみよって救われていく。また天の国を第一とすることによってあらゆるとらわれから解き放たれていく。シンプルに天を自分の財とすることによって、財を第一としなくても良い歩みへと解き放たれていくのです。

 しかし、それでもなお、古い基準、持っているもの、倫理基準、習慣、伝統を捨てる必要は無いのです。それらは、新しいものを大事にすることによって更に見直されて行くのです。イスラエルの民にとって、本日の聖書に書かれている古いものというのは、律法、旧約聖書でありました。13章51〜52節をお読みします。

 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

 天の国を知った人は、新しいキリストから教えられたものと、古い旧約の教えや律法、イスラエルの伝統。それらも宝として扱うことができる。だから、本日まで旧約もちゃんと聖書として残されているわけですが、とにかく、天の国を知った人は、古いものを全否定していくのではなくて、古いものをもう一度、宝として新たに受け入れ直すということです。新しくキリストを知ることで宝である価値がより良く分かって行くということです。祈祷会におこしの方はよく分かっていただけると思います。旧約聖書はキリストを知ることで、そこに自分が書かれていることがわかるようになると。4000年もの前の出来事が今日の出来事でもあるということ。あの4000年前の記事に自分の姿があると。

前にあったものを全否定ではなくて、再発見

 前にあったものを全否定して、新しいものを受け入れていく。そういう発想に人は流れやすいのではないでしょうか。かくいう私も、聖書のイエス様の言葉に出会うまではそうでした。新しい何かを発見して、新しいものによってこれまでのものを全く塗り替えてしまおうというような発想が強かった。しかし、イエス様の言葉を聞いていると、もちろんイエス様から与えられる天の国。この信仰の世界。そして新しい命の希望。これらを知りますので、それ以外の例えば、肉の命や、この世での関係性。そういったものは、一番が決まると二番になってしまう。神を大事に、神を礼拝すると、それ以外のものが二番になる。

 しかし、そうなった時にはじめて、神以外のものをこころから大事にできるということが実現するのです。古いものをちゃんと宝として大事にすることができるのです。自分の財産も天国の基準から考えて、いろいろ使いかたを考えることもできる。また、家族に対する態度も絶対的に変わる。古い基準のものを心から大事にできる。それは新しい基準であるキリストを知ったから。そういう歩みをキリスト者はできるはずなのです。

この世界は

 この世界はあるところ、悪の力がはびこっている世界であるとも言えるでしょう。恵みの主との結びつきを断つような力がある。また人の人格を徹底的に破壊してしまうような力がいつもどこかにあります。それは悪の力。しかし、この世界は同時に、神の畑でもあります。神様が徹底的に種をまきつづけておられる神の畑でもあります。ということは、神が種を撒き続けている畑なので、この世界には宝が眠っているということでもあります。キリストを知った私たちこそが、この世界に、この日本に眠っているその宝を見出すことができるのではないでしょう。古いものから宝の部分を抽出し、蔵から古いものを取り出す一家の主人のようになることができるのではないでしょうか。

本日

 本日、私たちが見出すべき宝というのは、この眼の前に掲げられておりますこの遺影の中にうつるこの神の似姿に造られたお一人お一人、この方を通してどんな種がまかれたか。宝が畑にうめられたか。神に業がそこにあったか。そのことに思いをはせてみてください。必ず、そこに神の宝が眠っている。

 十字架の主を信じ、新しい命をいただき、新しい視点で、神の手を見ることがゆるされた皆さんにこそできる、驚くべきこと。蔵の主人とさせていただいているのですから。宝をしっかり見たいと思います。アーメン。