マタイによる福音書 18章10〜14節 「たった一匹のために」

思い込んでいる価値の転換

 親はみな子どもの幸いを願っています。もっているもの全部、子どもに手渡したいと。しかし、そんなことを考えている時に、自分が「与え手」であることばかりを考えているように思います。

 子どもに祝福の祈りをするときに「与え手」であることを少なからず意識します。しかし、神の前にひざまづく時に、全く別の視点も見えてきます。今この祝福すべき子どもを私のもとにお送りくださったのは、天の父である。天の思いがあるからこそ、私のもとに家族があり、友人があり、また本日このようにご一緒に集うことができる皆さんがおられる。

 そういうことを思った時に、「与え手」は同時に神からの与えられるものの「受け手」であったことを知るのです。今日もし誰かのために自分をささげること、誰かのために働くこと、誰かのために祈ること、これら何かを手渡し与えることができたとき、その時には、すべて神のご介入があり、そこに神のご配慮があり、天の意思がある。その神の導きの受け手であったことに奉仕者は気づくのです。神の前にひざまづくと価値の大転換、まったく真逆のことにまで思いを広げることになります。

子どもが偉い

 イエス様の周りに集っていた弟子たちは、「誰が偉いのか」を議論していました。まさかこんなことを自分たちの中で、声に出して度々議論していたはずはなかろうとは思いますが。もしそうだったら恥ずかし過ぎますが、、、でも時に声に出して議論していたこともあったようです(笑)。皆の心の中の関心事は誰が偉いのかということだったのです。

 現代もあまり変わらないと思います。誰が偉いのかは言葉に出さなくても、この人は素晴らしいとか、この人についていこうとか、この人はいいけどあの人はダメだとか。そういった意味で皆で何かの基準において誰か価値判断をして、誰が上で誰が下というようなことをつけているのではないでしょうか。牧師というのは目立ちたくないけれども、目立つ存在にならざるを得ないので、いつもそういうまな板にのせられているということを感じます。

 そういう人の上下をつけたい弟子に向かってイエス様がどんなことをおっしゃられたのか、ということが本日のマタイによる福音書18章周辺に記されている内容です。弟子たちはイエス様に聞きました。18章1節。

 いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか

 そこでイエス様は子どもを呼びよせて、真ん中に立たせて言われました。

 はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国にはいることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。

イエス様のお言葉に心底安心を得る

 イエス様がすごく立派な倫理的に優れ、人前で素晴らしい言葉を語ることができ、人にすさまじい影響力を与えることができるような、大預言者というか、弟子の中の弟子のような、聖人の中の聖人のような人をつれてきて、「この人が偉い」などと言われたら。そこには何の慰めもなかったのではないかと思います。順当な判断です。人間が普通に考えることです。素晴らしい人が素晴らしいのであって、そういう人が偉いんだということになったら普通です。

 しかし、イエス様は全く逆のことをおっしゃられたんですね。子どものように低きものが天の国に入るのだと。誰が偉いのかと聞いて、誰が天の国に入るのだという話にイエス様は巧みにすり替えておられますが、その話かたも本当に慰めに満ちています。

 私たちの関心事は、自分がいちばんになりたい。というものであることがあります。一番とはいわずとも、優れたものと判断されることによって自尊心を守りたいという欲求があるのではないでしょうか。しかし、イエス様はそういう一番とか、人よりも優れているかとか、比較ということではなくて、天に迎えいられれるかどうかということがもっとも大事な価値基準だと教えてくださるのです。誰が偉いかなどということは問題では無いのです。誰が神のもとに迎え入れられるかということだけが大事なのです。

最も大事なことは

 子どものように低くなってただただ神の国を受け入れるしかない。子どもというのは無力です。人からものを受け取るしかできない無力なもの。無力であるところに帰って受けるというところに立つことこそ、天の国に入る入口である。

 先ほども言いました。与え手ではなくて、受け手であったのだというところに立って。すべてを見直し、すべてを神様から受け取りなおして、低く低く恵みを受け取るものとなる。子どものようになる。このことそこ天の国に入るための秘訣であるのだとお教えくださるのです。

小さな者こそ

 そのように考えていきますと、「小さな者」「子どものように受けるしかないもの」こそが神様が迎え入れようとされてるその一人であるのだということに気付かされます。その小さなものに対する視点が本日ご一緒に朗読したところで中心的に語られていることです。

 ある教会で、社会的な地位が高い人が役員に選ばれる。そういう人でなければ役員にしない。という、私に言わせれば神の言葉に従っていない、そういう教会役員選挙がなされていました。神様の言葉を聞くことには全く熱心ではなくて、礼拝するために、祈るために礼拝に来ない。神様の前で自分がいかに小さいものであるかということより、自分の事業がいかにあたって大きなものになったのかということを自慢する。人に仕えるのではなくて、人を仕えさせることを考える。そういう人が教会の役員で選ばれる。その教会は悲劇です。この神様の言葉、特に本日の聖書の箇所に書かれているような、天の国の基準というものが蔑ろにされていくような現実がありました。

 もっとも小さな者が、もっとも人の助けを必要とし、神を求めて、神によりすがっていくそういう人が大切にされる。そういう神の心をうつしだした教会。そのところに天の国があるのです。

天使が味方??

 10節の言葉を読みますと驚くべきイエス様のお言葉が記されています。

 これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。

 天使が一体どんなものであるのか、私はハッキリとは分かりません。新約聖書ほヘブライ人への手紙の中にこんな記述があります。ヘブライ人への手紙1章7節。

 神は、その天使たちを風とし、ご自分に仕える者とたちを燃える炎とされる。

また、1章14節には。

 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。

 目に見えるのか、見えないのか、それは人によっては時に見えることもあるのかもしれません。西洋絵画の中には天使たちが描かれています。見えるにしろ、見えないにしろ、確かに神様の手が伸ばされて、それは時に風のようであったり、霊のようであったり、人間の認識の領域を飛び越えて働くことがある。そういう不思議な神様の使いたちが、小さな1人の人を守ろうとしてくれている。すなわち、神の業がそこにあり!ということです。

小さな者

 小さな者を軽んじないようにとイエス様がご注意くださるのは、私たちは平素から、小さな者を軽んじているからです。偉そうな人を偉い人として扱うのです。素晴らしい人格者を偉い人として扱うのです。それは当然ではないですか。しかし、イエス様はおっしゃられるのは、そうではない人を軽んずるなということなのです。人から軽く扱われてしまうその人をこそ、軽んじないようにということです。そこに、私たちが真に天の父の子であるかどうかということが反映されてくるのです。

迷い出た羊とは

 迷い出た羊というのは、その他の99匹にとってはとても迷惑な羊です。なぜなら、ストレートに水のありか、牧草のあるところにその一匹の羊が迷い出たことによって行けなくなるからです。水のところにすぐに行きたい、牧草をすぐに食べたいと思っている羊にしてみれば足手まといです。しかし、それがいかに水や、牧草に遠回りであっても、苦労を増し加えることになっても、その他の羊にしたら迷惑な、たった一匹の羊のために、わきめもふらずに捜索に出てしまう。それが私たちの天の父であるということなのです。

本当に大切ならば、

 本当に羊が自分の命よりも大切ならば、他の羊に迷惑になるかどうかよりも、その羊の命が救われるというそのことに全力になるはずです。羊を子どものように考えているのであれば、自分の命の危険も顧みずに、一匹の羊のために飛び出していってしまうのです。それが私たちの天の父の姿なのです。また、イエス様の姿なのです。

愛ゆえに、愚かになられる熱情の神

 どう考えても、全体の利益のことを再優先にしているのならば、99匹の羊を放置しておくことの方が危険が高いです。全体の利益のために、1匹のために99匹をおいていくなどということは絶対にしてはならないことです。しかし、羊飼いは、たった一匹を限りなく愛するために、時に愚かなご判断をなされるのです。そこまで、犠牲を払いリスクを負い、一匹を救い出すために策を講じられる方なのです。

イエス様のお誕生は、、、

 私にとっては、イエス様のお誕生は、イエス様が私を救うために、犠牲をはらってこの世にお越しくださったことであると受け止めています。まさに一匹を救い出すために(もちろん一匹だけではありませんでしたが)、壁を乗り越えて、人間として生まれるというリスク、人間の限界の中で生きてくださるというリスクを全面的に背負って、神の領域という壁を飛び越えてこちら側に救うためにお越しくださったことです。それはある意味愚かというか、人間のために人間の犠牲となるのではなくて、もっと別の、外からまったくご自分の血を流さないで、救い出すということも可能であったかもしれない。しかし、愛ゆえに、ご自分の血を流すのだという決断をしてくださったのです。

本当の愛

 本物の愛というのは、血を流すということだと思います。その意味で、私は母親には絶対に勝てない(勝ち負けではありませんが(笑))。子どもを胎に宿した時から、この子どものために血を流すということが決まっている。そのための覚悟を出産まで作り上げていく期間を経るわけです。出産はスイカが鼻の穴を通るようだという、震え上がるような例えが使われて、私は本気で怖気づいてしまいますが。しかし、そういう覚悟をつくり、そして実際に血を流すのです。

 しかし、その痛みは出産後まるで無かったかのように、子どものためにまた動き出す。これ以上の愛はこの世にないんじゃないかとさえ思います。1人の子と出会うために、人間には超えられないんじゃないかというような壁を乗り越えて、愛する小さな無力な存在と出会う。出会うためにすべての犠牲を払うのです。しかし、どんな犠牲を払ったとしても、その小さきものと会いたいのです。それが愛でしょう。

キリストがこの世界に現れたその姿

 キリストがこの世界に現れてくださったその姿は、親が子どもにどうしても出会いたくて待ちに待っていた、その姿と重なります。

 なるほど、キリストは弟子の足を洗われるわけです。心から大切に思っているから、子どものために血を流す覚悟をしておられるからです。足洗うなどイエス様にとっては当然のことなのでしょう。

 なるほど、どんな「汚れた」と考えられ病んでいたもののかたわらに寄り添うことを優先されるはずです。しかも、その傷にふれられるわけです。心から子として扱っているからです。

 そんなお方がおそばにお越しくださる、愛そのものが私のところにやってきた。キリスト。

 たった一匹の羊を見つけた喜びに、イエス様の方こそが私たち以上にお喜びくださっているのだと。ここに記されています。私たちとの出会いを喜んでくださるなんて泣けてきます。アーメン。