マタイによる福音書18章21〜35節 「限度無く赦す」

模範解答を得ようとすると

 私が小さな頃から受けてきた教育というのは、答えが先にあって、その模範解答をどうやって導き出すかという教育でありました。しかし、人間にとって本当に大事なことは、自ら問いを立て、その問いへの答えを自ら求めて、汗水流して自分で努力していく。答えの簡単には見つからない問いへの答えを求め続けることが人を正しい方向に導いていくのだと思います。答えはこれだと決めつけないで常に求めて行くということです。

 イエス様のまえに行きますと、はじめから答えを見つけて問いかけているような問いは蹴散らされます。イエス様の方が逆に問い返されるような形にいつの間にかなって、人間がもう一度前提から物事を考えなおすことになる。  

Ora et Labora

 オーラ・エト・ラボーラという言葉があります。ラテン語です。ベネディクト修道会の合言葉です。「祈り、かつ、働け」祈りとは、神の前にひざまづくこと。神への讃美、問いかけや願い、決して答えが予め決まっているようなものではなくて、神の側に最終的にはすべてを委ねきって、答えが見つからないままに、日毎の仕事に精を出していく。祈りかつ働くその中で、光り輝く、神の恵みを人は日常の中で発見していくのです。

模範解答を得ようとしない

 ペトロはイエス様の前で、いつも何故か知りませんが、自分が模範解答ができるかどうかということにかなりこだわっていたようです。そんなところは、まるで日本人のようだと思ってしまいますが。18章21節を読みます。

 ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

 七回まで赦すというのはペトロが言ったことですが。これはペトロなりの模範解答なのです。イエス様がお喜びくださるであろうはずの。ラビの言葉、律法の教師の言葉に「人が罪を犯す場合、神は三度までは赦して下さるけれども、それ以上の赦しはない」というものがあります。これがペトロの時代の旧来のというか、ユダヤ人だったら誰にでも通用する常識であったのです。しかし、それを超えて、赦しの神であるということをイエス様がお教えくださったので、そのイエス様の言葉を反映しながら七回赦しが妥当だろう。七という数字は完全数だから、とことん回数を重ねて赦すというのが妥当だろうと考えたんですね。

 しかし、イエス様のお答えは度肝を抜くものでありました。

 七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

 完全数の7を完全数の7×10倍して赦しなさい。すなわち、無限に赦し続けなさいということです。これは非常に恐るべき教えです。イエス様御自身がこのお言葉どおりに実行なされたのですが。

 十字架につけられ、罵倒され、イエス様をペテン師扱いする人々のために、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。限度ない赦しがイエス様において実現し、このことこそ神の国が到来したという福音の中核。赦しがそこにあるということこそが福音の根本でありました。そして、この赦しを通してこの教会共同体を建て上げようとされておられるのがイエス様です。だから、私たちの教会においては、何度神に罪を犯して、懺悔して、悔い改めて立ち直って、それでもまた何度も神の前に罪を犯してしまうひとを受け入れ続ける必要があります。

七の七十倍

 七の七十倍という言葉は、実はもう一つの翻訳の仕方がありまして、これを「七十七倍」と訳しても間違いではありません。で、これをもしも七十七倍というふうに理解した時に、人々が思い起こすのは、創世記の言葉なのです。創世記4章24節の言葉です。

 カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍

 創世記4章には弟アベルを殺した兄カインの物語が記されています。そのカインの五代目子孫として生まれたレメクは、自分の力を妻たちに誇示して示すために。

 カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍

と豪語したのです。復讐の執念、復讐によって力を誇示し示すこと。血で血を洗う争いを起こさせるような考え方がここにあります。イエス様はこの考え方を逆転させて、赦しにおいてこそ神の力が示されるということを宣言したということです。神の支配というのはどのようなものか示したのです。

しかし、、、

 しかし、このように限りない赦しを説かれるイエス様ですが。赦さずにもちろん言論を通してですが、攻撃された対象がありました。それは、ファリサイ派と律法学者でありました。彼らに向かって「蝮の子らよ」とおっしゃられた。これはすなわちサタンの子たちよと呼びかけたに等しい言葉です。何故彼らを糾弾したのかといえば、それは律法学者やファリサイ派が天国を独占し、その門を閉ざして人を入らせないようにしていたからです。これは、自分に対して罪を犯したというようなことではなくて、より大きな視点で、いわゆる公的な視点において、一般的な事柄についてこういうことはダメだということは徹底的に糾弾されたということなのです。

 しかし、自分が被害を受けたというような私的な領域におけるものは、自分を放棄して、友を赦し受容していくことをイエス様は求められるということなのです。

パウロの言葉

 パウロの言葉にイエス様のお心が示されていると思います。その箇所を読んでおきたいと思います。ローマの信徒への手紙12章19節。

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる。」

 義である神様がその裁きを確実に実行してくださる。だから、信仰に生きるものは、すべてを神に委ねることができる。

何故赦さなければならないのか

 何故赦さなければならないのかということが、例えをもって語られて行きます。23節以下。

 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』と仕切りに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

 一万タラントンというのは考えられないほどに大きな額です。一タラントンというのは6000デナリオンです。デナリオンは一日分の賃金のことです。一日一万円と仮に設定するのならば、6000億円ということになります。6000億円の借金なんて個人が背負える額ではありません。ヘロデ・アンティパスが得ていた年収は200タラントと言われています。王でさえも200タラントンにすぎないのです。一万タラントの借金など背負えるはずはない。

 背負えない借金を受けてしまっているというのが我々の実際の現状なのであるということをイエス様は、ありえない例えで教えようとされているわけです。

 神様から受けた恩と、その恩に対して明確に応えきれておらず、むしろ、逆に負債を追い続け、神の心に反することをし続けているといことでありましょう。しかし、その家来が何とか赦してほしい、何とか助けてほしい、できることはなんでもして、命がけでそれを返していきます。そんな決意を感じた時に、主人は、全部を帳消しにしてあげようという決断をしてくださるというのでうす。それはもちろん、この家来の命がけの嘆願が、その心と必死さが主人に通じたからにほかなりませんが、ありえないほどの額をありえないほど恵み深く、憐れみ深くお赦しくださる。それが神様であるということです。

 神に触れていただく、神のもとに帰って赦しをいただく。それはこんなお金で勘定してしまったらチープになってしまいますが。6000億円の借金を無償で返済できたこと以上のことであるということなのです。借金を苦に家庭崩壊、人格崩壊、精神崩壊、そして自死に至るということはいたるところで起こっている問題でありますし、そういった問題がいかに深刻で人を縛り付け動けなくするものであるかということを知っています。しかし、もしも、全能の力あるお方が味方してくださるのであれば、どうなるのかは人には全く分かりません。しかし、神の下に迎え入れられるという恵みはそういう次元のこと。それほどに絶大に偉大なることなのだということだということなのです。

しかし、100万円で、、、

 しかし、その6000億円を帳消しにされた家来が自分に対して100デナリオン。すなわち、100万円程度の借金をしているものを徹底的に赦さず、牢に入れてまで、寛容になることを拒む。人間において起こっている出来事というのはこういうことなのだ。人を赦さないということはこういうことなのだ。神があなたを赦し、恐ろしいほどの負債を精算することをお考えなのに、あなたは少額の、神があなたを赦しているものと比較にならないほど小さな人の負債を赦さないのか。それで真に神の国の住人と言うことがきるのか。できない。ならば、自分で自分の負債を返済しなさい。と言われて、絶対に返すことのできないものを返すことができるようになるまで牢にいれられる。それは、すなわち、もう再び赦されることのない牢屋に入れられるということです。

 正しいことを求めていくということ、義を求めるということは極めて重要であり、私たちはそのことに対して赦しが大事だからといって、手を抜いて糾弾の声をおろしてはならないと思います。社会で起こっている出来事、そのことで犠牲になっている人。その人たちの犠牲をそのままにしておいてはいけない。立ち上がって救い出すことを考え、不義を行っているものを徹底的に糾弾して声を上げていかなければなりません。

 しかし、私たちの私的な、個別的な関係性の中で、私に対して罪を犯したり、私に危害を与えたり、私に悪意をもって接してくるもの、悪意がなかったとしても害を与えるもの。そういった者たちに対しては、まさに神の国に私たちは入れていただき、負債を帳消しにされたものとして振る舞う必要があるということなのです。それが天の国を受けたものの歩みです。その人の周りで実際に天の国が実現されるためには赦しがなければならない。

 私たちはどちらかといえば、社会的な事柄に対しては比較的に無関心で、赦しを言うことができるかもしれませんが、自分の個人的なことに関しては赦しを宣言することが難しかったり、呪いのような思いをずっと抱え込んでしまうというところがあるかもしれません。

 しかし、本当に大事なのは、私たちこそがまず赦されて赦されて、赦されつづけ、七の七十倍までも赦し尽くして迎え入れようとされた神の愛のもとにあるということです。

 個人に対する怒りで燃えるときにこそ、十字架でそれを受け止められて血を流されたキリストを思い起こすべきなのです。神の国の到来とは、和解の到来です。父の赦しが、私たち相互の赦しとして実現していくのです。クリスチャンというのは、人を赦しうる、人を赦さざるをえない、血を吐くようにしながらも、なんとかあの人を赦そうと、汗と涙を流す存在なのです。

 イエス様は本当に私たちにその道を指し示してくださいました。国や地域や民族、大きな視点で言えばまさに暴力や力や圧政でものごとを解決しようとするその力が止みません。しかし、そのことに対して大きな反対の声を上げながらも、しかし、もしもその国や地域や民族のその1人の方と出会った時には、その人をなんとか受け入れて、血をはくようにしながらも、涙を流してでも、なんとしても受け入れて天の国に入っていただかないとと汗を流す。それが私たちのあり方。キリストを追いかける道です。

 6000億円の借金帳消しのような、圧倒的な赦しの恵みを受け取り、それを人に手渡しましょう。そこにキリストがおられます。アーメン。