マタイによる福音書20章1〜16節 「比べない」

逆説の言葉

 後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。

 この言葉は、聖書の本日朗読されたところ周辺で、繰り返されている言葉なんです。ということは大事だということです。マタイによる福音書の19章でも同じような言葉が記されていました。19章30節。

 先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。

 神の国についてイエス様がお語りくださるところです。神の国においては、前後が逆転するのだということが特に言いたいことなわけです。

 なぜ逆転するのかといえば、それは父なる神様のお心がそうだから。というのが一番端的な答えです。神様は父なる神です。父のように私たちを愛して下さる。その愛し方は、十分に満たされていないものを満たして行きたいと思われる愛です。欠けがあるのならば、それを補いたい。考えられないほどに豊かな方が、大きな視点で物事を見ておられるので、とにかく満たしたいとお考えになられる。

 我々の人との付き合い方というのは、満たされていないものを満たしたいのではなくて、満たされているものとつきあってその人から何かを得たいというようなものが多いのではないでしょうか。人格の素晴らしさや才能に溢れている人、そういう人とお付き合いをさせていただいて良い影響を受けたい。結局自分が何を得ることができるかに終始する場合が多い。

 しかし、神の愛は、何を得られるかではない「満たしたい」「与えたい」のです。だから、後にいるものが先になるということが起こる。

 よくテレビドラマなどで、母親が「お兄ちゃんは良く出来てすばらしいわねぇ。」と言いながらニヤニヤしながら長男をかわいがって、次男ができが悪く、学校での成績が芳しく無いゆえに母親が「なんであなたはお兄ちゃんに比べてうまくいかないのかしら」などと言いながら苦々しい顔をしているなどというワンシーンがあります。あれは、神の愛と真逆ですね。神様ならば、その出来の悪い次男の方に手をかけてより力を注がれるはずだと思います。その結果、後のものが先になるということが起こるところまで神様ならば助けを送られることでしょう。

ぶどう園の主人

 イエス様は、その神様のお心がよくわかりやすいように、ぶどう園の主人として神様を登場させるお話をなさいました。主人は夜明けに出て行って、しっかりと正当な賃金を支払うとの約束で労働者を雇った。

 しかし、主人は、雇われた順調な人への関心ではなくて、雇われなかった、仕事を見つけることができなかった、今日生きることが一体どうなるのか不安な状態にならざるを得ない、そういう人達のことにこそ心が向かっています。だから、もう一度9時頃に雇い人を待っている労働者がいるのではないかと、見にくるわけですね。

 普通に考えて、朝一で雇われなかった労働者というのは、何か問題があるのではないかとか、ただ広場でたむろしているようだったので、怠惰な連中じゃないかとか、いろいろ想像することができますし、経営者として、労働に勤勉ではない可能性があるものを雇うということはそれはそれでリスクを背負うことになるので敬遠するでしょう。しかし、そういうリスクがどうこうということではなくて、このぶどう園の主人は、その労働者が仕事につくことができなかった悲しみに共感して、少し遅い時間になっても労働者のために、9時にその場所に行くのです。

 イエス様とお出会いになる方というのは、多くの場合心に何かしらの悲しみを抱えておられる方である場合がほとんどでありましょう。それは、神様がそういった人にこそ心をさいておられて、そういう人の出会いを準備しておられるからに違いないと思っておりますが。とにかく満たされて仕事も順調、家庭も順調、近所づきあいも順調というような人が自分から神様を求めるということは難しいといいますか。19章で書かれている金持ちの青年というのはまさにそういう人なわけです、人生がうまい具合に運んでいてそれを手放したくないのです。だから、手放せと言われてそれはできませんと去っていく。現状が満たされている人のところには天の国が広がるということが難しいというのは確かなことでありましょう。

 神様は9時におこしくださるのです。悲しみを抱えた人を探して再び来られるのです。このことを受け入れると恐れというものがスッと消えてなくなっていきます。どんなに大きな苦しみや困難を抱えていても、なんかうまく人生運ばないなぁと感じている。それならなおさら、そこに主人がおこしくださる。主人はそういう人をさがしに9時におこしくださる。あぁ、なんか人生時を逃し乗り遅れた、うまくいかないなぁなんて思っているそこにこそ神様はおこしくださるのです。

主人は常に探し歩く

 5節を見ますと、主人の姿がよくわかります。神様のお姿がよく分かります。

 主人は、一二時ごろと三時頃にまた出て行き、同じようにした。五時頃にも行ってみると、

 一体一日何回、労働市場にこの主人は赴くのでしょうか。ひつこいですよね。まともに朝から働いている人達の、あの真面目な人達への監督はどうなったのでしょうか(笑。主人はとにかく、今日働く口を得ることができず、生活の安定を欠いてしまっている。不安でたまらない。時に自暴自棄になり、広場でずっと地面を見つめているようなそんな人のところに、何度も時間をさいて、おこしくださる方であるというのです。

 一般的な当時のぶどう園の主人だったらこんなことはあまりにも非効率でありますので、しないでしょう。朝一で集まるものだけ集めて、それで効率的な作業をすすめることでありましょう。しかし、このぶどう園の主人は、ぶどう園がどういう利益を生み出すのかということではなくて、労働者の心が一体どうであるか。労働者がどう今日生きることができるか。労働者がどう喜びで満たされるのか。充実感で満たされるのか。労働者のいわゆる欠けといいますか、満たされていない部分がどう満たされるのかに関心があることが分かります。それが天の国である。神の愛である。

わかりきった質問を。。。

 六節の主人の労働者に対する質問がありますが。これってわかりきった内容を質問しています。

 なぜ、何もしないで一日中立っているのか。

 それは仕事が無いからに決まっています。仕事が無いからと立ち尽くす人を探して主人は来たのです。しかし、そういう質問をしつつ、主人はこの労働者の苦しい状況を聞き出そうとされるのです。対話をしながら、当たり前のことを聞きながらも、しかし、この対話において労働者の苦しみに触れようとされておられる。

 何か苦しんでいることはないか。大変なことはないか。

 こういう内容の問いというのは、多くの場合、親しいというか自分の最善のみを願ってくれている、そんな人の口から、親や兄弟や親友などからこういう言葉というのは聞くのではないでしょうか。主人はこういう問いかけをして、その労働者たちとつながりをつくり、その労働者たちに貢献できることはないかと考えている。そうとしか思えません。後に明らかになりますが少ししか働かないのに、朝から働いている人と同じ賃金を支払うというのですから、雇い人の側からしたら、それは損失とカウントされてしかるべき内容ですが、それを損失ととらえない。ということは、労働者の福利厚生といいますか、生活を豊かに満たすことこそが自分がなすべきことであると思っているということでありましょう。これはありえないほどに大きなことといいますか、労働者側からしたら、あまりにもありがたいことでありましょう。

 神が対話をし、私たちの言葉を聞きたがっている。祈りに私たちを導こうとされておられる。私たちの苦しみを通して、私たちに「何か苦しんでいることはないか」と問われて、その苦しみを 通じて私たちに貢献できること、助けることができることはないかと探っておられる。それが天の国がここにありということである。祈りがここにありということである。神がおられるということなのだとこの例えは教えてくれます。

より多くの悲しみを背負った人に

 そして、賃金の受け渡しの場面になると、これまた主人の心がこの賃金の渡し方にもあらわれてしまっています。8節をご覧ください。

 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来たものまで順に賃金を払ってやりなさい』

 最後に来たものから賃金が支払われます。なんと不当なことかと思います。朝から汗水たらして長い労働に耐えてきた人達のことはどうなるのかと。しかし、ぶどう園の主人の心は、この朝から悲しみをもって広場で仕事も無く不安な一日を過ごし、人生の悲しみを十分に一日味わったその人がはじめに慰めを受けることができるようにと、あろうことか、ぶどう園の中の統率というか、経営状況というか、利益というか、効率というか。そういったことはもう度外視で、労働者の心が慰められて励ましを受けるようにという決断で、最後に来たものから賃金が払われるのです。

 ぶどう園に一番貢献した人が一番評価される。そういったものでないと、ぶどう園の労働意欲は保たれないでしょう。経営も危なくなるんじゃないですか。しかし、そういうことは度外視して、目の前の個人の心の中、特に一番悲しみを抱えてきてしまったその人に目線を主人は向けて、その人が恵まれるようにとお考えなのです。

天の国の問いかけ

 私はこのマタイによる福音書20章1〜16節の言葉は、教会に対する問いかけの言葉であると思っています。これは厳粛に受け止めなければならないと思います。教会は天の国の鍵を任されている。ここに天の国がありと言えなければ、それはもはや教会と言うことはできないのではないか。私たちはこの天の国、この主人のように実際に動いているのか。もちろん、これは神様のお姿ですから真似するのも非常に大変といいますか、大きな犠牲が必要です。

 しかし、この例えによって問いかけられる内容は、私たちは誰かの苦しみに触れるために、9時、12時、3時、5時と頻繁に外に出ているか。もちろんこれは比喩ですから。一日中外に出ろということではないです。ぶどう園の中にいる労働者ではなくて、そこに入ることができなかった労働にありつけなかった、その悲しみを抱いている人のところに出て行っているか。ぶどう園の経営がどうなるかばかりがきになって、労働者の心に触れることを、特にいま社会の中で一番苦しみを抱えているであろう人のところに行こうとしているのか。

 自分たちの慰めを求めて、互いに自分たちが満たされることばかりを考えているのではないか。それは天の国を知っているもののあり方ではありません。天の国を知っているものは、今一番苦しんでいる人はだれかを見出して、その苦しみに触れて、自分の心ではなくて、その人の心が慰められることを求めるのです。そうやって他者の心が慰められることを優先してしまうことにこそ、天の国の秘訣、そして、その満足、神の国の住人としての満足、神がお喜びくださるその姿を見ることができるのです。

 どうやってあの人を満たすか、ではなくて、どうやって自分が満たされるかを考えている限り、妬みが次々とやってきます。一デナリオンの賃金で納得できなかった人のように、他者との終わりの無い比較、そして比較の中で自分が上にでることを考えてしまいます。そうじゃなくて、天の国は、どうやってあの人を満たすかに集中してしまって、その他のことへの関心はどこかへいってしまうということです。そう生きるときに、キリストがそばにおられる教会が建ち上がっていくのです。自分が満たされることに集中する信仰というのは何十年たっても得ることができない水を求めるようなものです。そうではなくて、相手を満たすことを考えて動き出す信仰。これは、常に自分も満たされていくしかありません。なぜなら、そこにキリストが必ず手を添えて一緒に行動してくださるからです。主人と共に行動することだからです。

 マタイ福音書10章39節。

 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 

賜物の違い

 ここには与えられるものの違い。労働者の賃金は1デナリオンでみんな一緒の額なんですが働いた時間が違いますので、相対的な違いが出てきてしまっています。そのことに対してイエス様は15節で。

 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。

 とおっしゃられており、似た言葉がローマの信徒への手紙9章15節にあります。

 わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ。

 恵みや賜物というのはすべて神のご意思であって、それをどうすることもできないのです。

 賜物の違い、神から受けているものの違いというのを明確に感じる瞬間というのはあるのではないでしょうか。

 私も神学校時代に、説教演習というのがありまして、ちょうどこんなふうに説教をしているところを教授から評価されるんです。学生はみんな聞き役です。その時にやっぱりこの人は雄弁だとか、すばらしいとか、与えられてるものの違いというものが見えてきてしまうわけです。能力のちがいと言いましょうか。そんなときにある教授が、「説教は宣言なんだ。上手い下手を気にするんじゃない。もちろん話の上手い下手はある。しかし、宣言だ。神から聞いたことをどんな下手でも宣言せい」と言われた記憶があります。

 賜物はどうすることもできない。それは神のご意思で与えられる。その良し悪し、多い少ないを言ったところで、それは主人の責任です。それは主人に委ねたらよい。そんな主人の方に主導権がある内容を多い少ない言っても仕方ないじゃないですか。そんなことはだから気にする必要はないのです。賜物は少なくても十分、目立たなくても十分なのです。

 しかし、主人の心にしっかりと寄り添って慕って、主人の思いを代弁しているかどうか、主人の心を実行しようとしているかどうか、それは私たち教会の責任です。ご主人である、神様がいまどちらを向いて、どの人に集中して憐れもうとしておられるのか。どこに苦しみがあるのか。見たいと思います。アーメン。