マタイによる福音書21章28〜32節「汚れたものこそ救われる」

 わたしの生も死も主よすべてあなたのものです。あなたの御心がこの身になりますように。というこの世界、信じるという信仰の世界ですが。このことほどに楽なことはないでしょう。週報にも記させていただきました。実際に委ねれば心がどんどん軽くなっていく。重苦しいものを、主の前で下ろすことができる。絶対的な包容力と愛で、私たちを包み込んでくださるその愛がある。その愛は「わたしのもとにいつも帰って来い」と言ってくださる。だから、キリストを信じるものはつらい現実の只中でも、オアシスを持って、いつもオアシスに帰っていける存在です。

 しかし、そんな神様との交わりを閉ざすものというのがありますが、それは「自分はこれだけやっている」というような自負心や虚栄心や、自分の素晴らしさを他者に知ってもらってそうでなければ満足しないような、なんていうのでしょうか。自分は神にも人にも受け入れられていないから、なんとか受け入れてくれというような思いを抱いていると、なかなか素で神とも人とも向き合うことができないかもしれません。そういった盾や鎧のようなものを捨て去って、良い部分も悪い部分も全部を神様に見ていただいて、それで、神の前に悔い改めもして、全部受け入れてもらって神との交わりを得ることができたらどんなに楽かと思います。

 究極の源である神様との関係が私たちの人生全てに影響を及ぼし、神様がどういうお方であるかを知ることによって魂の深い部分での癒やしを受け取っていく。本日も神様がどういうお方でどう関わってくださるのかを見てまいりたいと思います。マタイ福音書21章28節をご覧ください。

 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。」

 言葉と行動とが分離していますよね。逆のことをしています。こういう状態って人間によくありますね。言行不一致というものです。もちろんイエス様はお兄さんの方を良いたとえとしてあげているのですが。でも、お兄さんは当初はちょっと感じ悪いといいますか。「いやです」とハッキリ言ってしまうんですね。しかし、この例えをじっと見ていると、やっぱりお兄さんはちゃんとお父さんと向き合っているんですね。嫌だと答えているのは、それはこころの底からいやだから(笑。それをお父さんは理解してくれるという信頼があるから、信じているからそう言えたわけですよね。自分の思いを受け入れてくれると思っていなければ人間は正直な意見を言えない。

 お父さんを信頼しながらお父さんの言うことをちゃんと聞いて、それに対して向き合って、自分なりの考えを恐れることなく言ったんですね。そして、お父さんの心を考えているからこそ、お父さんを尊重し、お父さんの意見には何かあると思っているからこそ、自分の考えを後にかえて、最初は嫌だったけれども自発的に働きに行ったんですね。

 お兄さんは、お父さんとしっかり向き合っていると言うことができます。その結果、お兄さん自身が変えられるということが起こって、お父さんの意思が成し遂げられるわけです。

 弟はどうでしょうか。表面上は合わせています。それはもし合わせなかったらお父さんの顔を潰すとでも、またもしかしたら、怒られるとか、そういったことを思っているのでしょう。おとうさんにあわせて、お父さんを信用しているようで信用していない。ハッキリ物事を言えて、それでも関係が崩れないと思えるというのはやっぱり絶大な信頼感ですよ。そういったものがお父さんとの間に無いんですね。後で行かないんですから、本当ははじめから行きたく無かったんです。だけど、言葉で表面上だけ繕ってしまう。結局お父さんの気持ちよりも自分の意思を通すということになります。不思議です、ちゃんと自分の意見を言って、自分を捨てなかったお兄さんはお父さんに従って、お父さんに従っているように見えた弟はお父さんに従わなかったんです。

 この話、まさに神を信じて生きるという生活そのものでしょう。良い言葉ばっかり並び立てて、結局、神の思いから遠いというか、神の心にかなわない決断をしてしまう。

 そういう判断をしてしまう時というのは、自分がどう見られるかとか、どう立ち居振る舞ったら一番得かとか、神の思いをみるということじゃなくて別の何かによって物事を決めてしまっていたりする。そうするとそこに神の業が起こらないから、なんか満たされないんですね。

 しかし、言葉が美しいとか、周りがどう見るかとか、そんなことを度外視して、神様のお気持ち、御心に集中していって、その神の御心に触れて、あぁ神は私を受け入れてくださっているのだ。神は神の心があり、あそこに行けと言われたにはそれは大きな理由があるはずだ。それに自分が気付いていなかったんだと、最初は嫌だと言っていても、嫌だと言っているうちに気づいていって、神の思いがここにあり、父の思いがここにあり、そうだ父の思いに従おうと思った時に、神の奇跡が起きるんですね。このお兄さんの心がお父さんの心によりそって、お父さんの心を実行するようになったというこのお兄さんの変化はある意味奇跡と言って良いと思いますが。そういったことが次々起こるのが、神との交わりなんですね。

 先日、ある集会でご主人をなくされた方がおられて、その方の話に私は度肝を抜かれたというか、その方と一緒に不思議な喜びを覚えました。どういう話なのかというと、ご主人はすでに天に召されているのですが、そのご主人ずっと神などいないと言い続けて来た方だったらしいんです。研究者で、学者で、正しいことを追い求める生活を続けられてきた中で、本当に納得できないものに対しては首を縦に降らない方だったのでしょう。無神論者そのものという感じだったらしいんです。しかし、そのご主人は亡くなられる時に、奥様に「教会に行け」と言ってくださったというんです。論理の世界をもう飛び越えてしまって、最後の瞬間にやっぱり神を求めておられたのでしょう。そしてそのご主人はついに意識の無い中で、洗礼を授けられたということでした。

 やっぱりどんな人も神様に造られたのだから、心のどこかで奥底でそれが大事なんだと分かっていて、そして、その人が心の底から求めたその思いに神様はどんなことがあってもおこたえくださるんだ。例えご本人の意識が無かったとしても、それでも神は働き、その神と通じあったその瞬間からその人を周りの人をお用いになられながら、環境をつかわれながら神はお守りくださるのだ。

 たとえ、もし私の意識がなくなっても神は守りたもう。そんなことを思っていたら心の底から平安が湧き上がってきて。体の力が抜けていくような思いを覚えました。意識がなくなっても神が守りたもう。

 私は、よく言われるんです。あっけらかんとしてというか、悩みがなさそうで良いねぇ。でも実際は、夜寝ていて朝方の眠りの浅いときでしょうが、急にパッと目がさめて、よく理由の分からない恐怖心に襲われることが良くあります。そして、それは何故なんだろうと思うと、終わることの無い仕事の山というか、牧師って仕事があるようでない、ないようである。しようとしたらいくらでも仕事がある。でも、人間限界がありますから背負えないものもあります。そんな無限の仕事地獄のようなものの中で自分が恐怖の中に立ち尽くしているというような感覚に、急にパッと起きてなることが多々あるんです。

 そういう時には、「神は私を受け入れておられる」という祈りというか自分に対して言い聞かせる言葉というか、神様の思いの中に入っていこうとするんです。そうするとやがて平安が訪れるんです。

 またいつそういう恐怖の瞬間が訪れるか分かりませんが、その時も、今回ご婦人から聞いたご主人の出来事が大きな励ましとなります。もし意識が無くなったとしても、私が知らなくても神が守りたもう。

 神とつながる瞬間って、その人が素になったとき特によく味わうことになりますね。

 イエス様はこの例えを少し進めて。こんなこともおっしゃいました。31節です。

 「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう。」

 あなたたちとイエス様が相手にしている人とはまず誰なんでしょうか。23節に書かれています。

 「祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。」

 まさにその集団のリーダー的な存在。そして、戒律を立派に守ってこの人こそ神のおっしゃることに従っている。というようにはたからは見える人たちでした。しかし、そういう外見(そとみ)が整っている人ではなくて、外見が整っていないその人のことをイエス様はとりあげておられます。ととのっていない人というのは、徴税人や娼婦たちです。

 徴税人はユダヤ教コミュニティーの中で、いわゆる売国奴と言われていました。ユダヤ教やユダヤ社会を金で売った人間です。それはローマとユダヤ社会との間に立って、ユダヤ社会の利益のために動くのではなくて、自分とローマの利益のために動く人間と考えられていたからです。その社会に所属しているけれども、その社会全体の利益など露にも頭にない、利他的ではなく利己的な人間として蔑まれていたのです。

 娼婦は戒律に抵触します。だから神の法を明確に意識的に破るものとして、ユダヤ社会からのけものにされてしまう人です。

 イエス様はまさに立派に自分たちが守るべきものを守っている人ではなくて、そういったものを守れない人々こそがヨハネのところに来て、洗礼を受けて、新しい道を歩み始めたと言っておられるのです。だから、外見や外聞とか、自分がこれだけできるとかできないとかそんなこと一切度外視して、神の呼びかけに答えて、神の心によりそって神のところに来るひとならば、どんな人でも、そこには全く別け隔てなく、周りからこの人は悪人だと判断されてしまっている人であったとしても、別け隔てなく神はその人を受け入れるのだということをお示しくださったのです。

 洗礼者ヨハネが求めたものは、道徳的にすばらしい人間になれということではなくて、とにかく方向を変えろということでした。それはもちろん神の方を向けということでありました。

 ヨハネは、ファリサイ派など当時のユダヤ教の主流派が、律法を守って倫理的な生活を送ってきたことを誇っていることを批判しました。戒律を守れるということを基準として、守らない人びとを汚れたものとして裁いていました。天国の門を自分でコントロールまるでしているような。別け隔てをする心を痛烈に批判しました。

 神は人々を受け入れて、人々を神の国に招き入れようとされている。それがお心であるのに、その御心に全くふれもせずに、自分たちがいかに倫理的に素晴らしいか、戒律を守っているか、その視点のフォーカスが全部自分にむかって神を見ていないことを痛烈に批判したのです。

 今まさに自分が神に反することを行っているのではないかという疑いを持ちつつ、それをやめられない。もはや自分の病が私に罪を犯させるだとか、もう社会的な境遇やその他のことで自分をコントロールできずに、神のまえに胸をうって自分は罪人でしかありませんと言わざるをえない、そういう人こそが神の方を向き受け入れられていくのだ。もうすべての人が、神を向くように、そうすればそこから恵みが溢れでてきて、その人の心が満たされて、神のご意思で満たされて、行動から何からすこしずつ変えられて、平安を受けて、神ものとして歩みだす。その1人の悔い改めるものが、光を受けて立ち上がる。それが娼婦であろうがそれはもう関係ない。どんな人でも分け隔てなく、神の光を受けて立ち上がって、心がよみがえって、実際に神の力を受けて力をもって歩み出すその様を神は見たいのです。

 あなたが立ち上がる、救われる、そのことのためならば、私は命を捧げようと十字架に向かわれたそのイエス様の心を知ってその心に憩って。癒やしを頂いて一週間をはじめましょう。皆様に必ずキリストがご一緒してくださいます。アーメン。