マタイによる福音書1章18〜25節 「苦悩の中に救いが宿る」

 イエス・キリストのお父さんであるヨセフさんの話から今日は福音を聞きましょう。ヨセフさんは、新約聖書の中では一言も言葉を発していないので、陰が薄いといいますか、あまり注目されない人です。

 しかし、このヨセフさんの決断がなければイエス・キリストの誕生は無かった。神は全能ですから、「たられば」など無く完璧に物事を実現してくださるのですが、人を用いられます。ヨセフさんは福音書で一瞬だけ登場するだけですが、最重要人物であると言って良い人です。

 マタイ福音書のはじめには系図が記されていて、この一人ひとりの選びに関して、どうしてこんな綱渡りのような歩みで、このイエス・キリストの系図が守られていったのだろうかと先週ご一緒に確認しました。不思議に思うような奇跡の出来事が重ねられて、時に罪や人間のドロドロとしたものが入り込んで、それでも神のご意思が貫徹され、ヨセフさんに系図が至り、イエス様がお生まれになられるわけです。

 ヨセフさんの計り知らぬところで選びはもう既にヨセフさんの時から1000年以上も前、先祖アブラハムにおいて選びがあり、そこからずっとつながっています。計り知らぬところですでに選ばれ、神の業がはじまっている。その事に気付いて、自分の身を委ねるかどうか。これはヨセフさんだけの問題じゃありません。今日この礼拝堂に集っている私たちの問題でもあります。神の選びが既にあって、神の業が私においてはじまっている。だからここに来ることができたんです。神の家族である人々が集まっているのです。この集団に人々を迎え入れる。本当に苦しんでいる人がいて安心できる空間にしたい。そのためには、私は今日選ばれてここにいて、神様は私を通してだれかにかかわられるかもしれない。と信じる必要があります。

 選ばれているっていうことを通してやっと納得できる今日を生きることができる。私は中学生ぐらいのときから親父に「なんで生きているの?生きている意味がわからないのになんで生きなければならないの?」なんていう質問をいつもぶつけていました。困った子どもです。でも結局親父は答えられない。だから、分からないまま。

 そして、聖書に出会ってやっとわかった。人は自分の計り知らぬところで選ばれて、自分の計り知らぬところで神から命を受けて、そして、神の御手の中で、いつのまにか生かされている。

 そして、かけがえの無い命を生きている理由を分からせてくださる時はきっとくる。ヨセフさんだって「あぁ、この時のために自分は選ばれていたのだな」と思ったことだと思います。その瞬間が来るまでもしかしたら確信は持っていなかったかもしれません。

 いや、イエス様の父となるなどということ、救い主の父となるなどということは全く予測もなにもできなかったはずです。しかし、その時は来るのです。これが自分が選ばれた理由だなと分かる時はくる。

 先日、ある方がしかもその方はまだ私たちの教会員ではない方ですが。礼拝後に私を呼び止めてくださって。「今日のお話はこころに響きました」っておっしゃられたんです。私は嬉しくて、そこで倒れそうになりました。生きていてよかったなぁ。苦しいことを乗り越えてきてよかったなぁとしみじみと思いました。

 キリスト者同士だとなんだか、聖書をお互い知っていて。私よりも知識がある方ももちろん信徒の中にはいて、ある意味ツーカーといいますか。あ、牧師はこれが言いたいんだな。って長年説教聞いてれば分かってきてしまって、通じてしまっている部分があるのですが。

 毎週こられているわけではない方が、「響いた」って言ってくださったら。もう嬉しくて飛び上がりそうでした。やっぱり自分はこのために神様から選び出された。誰か1人に、しかも聖書をまだ良く知らない方に、これこそが神だということを伝えることができたら。それだけで生きてきた意味があった。このための選びだったんだと。

 

 自分が生かされている理由、生きている嬉しさそれを、教えていただきました。教会員という身内も大事だけど、そうでない方も恐ろしく大事。私に神の言葉を、神の思いを、神がこうせよっていう思いを伝えてくださる。私はあの方の一言を一生忘れられないと思います。

 ヨセフさんにとってマリアのお腹の中に自分のあずかり知らぬ子どもがいるなどということは受け入れがたい現実であったでありましょう。しかし、それが選びでありました。マタイによる福音書1章18節。

 母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

 当時のイスラエルにおいては、婚約した女性は法的にはすでに妻と見なされていました。だから、これは表沙汰になれば不倫として取り扱われます。当時の社会では死刑に処されてもおかしくないほどに重い罪でありました。ヨセフさんはマリアさんと婚約して明るい未来を夢見ていたはずです。しかし、それが一瞬にしてパァです。奈落の底に落とされる思いだったに違いありません。

 神の選びにあずかるということは、この世の幸福が保障されるというものでは全くないんですね。むしろ困ったことが起こる。そして、ヨセフさんは重大なというか苦渋の決断を迫られることになったのです。

 それはどういうことかというと、法的な正義をとるか、マリアの命をとるかという選択です。

 法的な正義というのはこういうことです。申命記22章22節に記されています。

 男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かなければならない。

 マリアはこの状況証拠からすると、ヨセフと夫婦の関係に入りながらも他の男性の子どもを身に宿していることになるので、殺されるということになってしまいます。

 しかし、ヨセフは正しい人として決断をしたと聖書に記されている。神の正しさとはこうである。福音書の福音とは何であるか、それをヨセフを通して指し示すわけです。

 神によってヨセフを通して示されている正しさとは、旧約聖書の戒律を条文通りに守るということではなくて、愛を示すことだということです。イエス様はわかりやすい例えで後に愛について説明をしてくださっています。それはマタイによる福音書25章31節以下に記されております。

 そこには、異邦人かユダヤ人かを問わず最も困っている人、その人に愛を示したかどうか。それが義である。とハッキリとおっしゃられています。22章37〜39節以下に記された言葉がこの内容を端的に語ってくださっています。イエス・キリストの言葉です。

 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 ヨセフは憐れみをもってマリアの罪を覆い、穏便に事を収めようとしたのです。その愛こそが、正しい人と聖書でヨセフが評される所以であり、キリストの義とはこういうものであるとマタイは示すのです。

 ヨセフにとっては、マリアを静かに離縁して何もなかったかのように1人で生きていくことが、最善の決断。この難局を乗り切る妙案。彼はマリアの命が大事でした。だから、その決断を変えるということはできなかったはずです。

 しかし、その時御使いが現れます。ヨセフが考えもしなかったもう一つの案をヨセフに提示するのです。1これは神からの宣言と言って良い内容です。これしかない。という道が天から示されます。1章20節。

 ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。

 自分の身に覚えのない子の存在を受け入れるなどということは、到底人間にはできません。しかし、それを受け入れることができるとするのならば、それはまさに神の業。夢を通して直接にヨセフに示される。それがなければ受け入れることはできません。ヨセフにとってこの神からのお告げを受け入れるということは、自分自身を死にわたすといいましょうか。自分が考えていたこと、マリアを救う案や、もうこのように生きるしかないという人の思いは、全部脇にどけて神の導きに従うということを意味しました。自分を死に引き渡して神に従う。古い自分に死んで新しい自分に生まれ変わる。そこまで大きな決断であったでしょう。

 苦しみや試練の中で、人間は丸裸にされてしまい、心にある本心がさらけだされるのではないでしょうか。そこに神が働く。マリアと一緒に生活をしたい、でもできない。道義的に不可能である。しかし、この受け入れがたい現実は一体なんなんだ。神よ私を救いたまえ。

 心が素になって、神を求め始めた時、神は奇跡をもってヨセフにお望みくださいました。夢に天使が現れるのです。

 先日ある方のお話を聞いていて、心がフッと軽くなる思いがいたしました。娘さんが大きな課題を抱えていて、どうにもならなくて苦しんでいる。そのことを娘さんと一緒に祈っていると言葉が与えられて、それも考えてひねり出すというようなものじゃなくて、すんなりと聖書のこの箇所を読まなければならないという箇所が与えられた。その言葉を通じ娘さんに力が与えられた。勇気をもって与えられている現実を背負おうと決断したそうです。その日に、この虹を見たというのです。→写真。

 虹というのは神の約束の記しです。人間を滅ぼすことは決してすまいという神の愛の象徴です。勇気をもって、誰かを愛する決断をしていったときそれを見ることができた。誰かの重荷を背負おうという決断。まさに、愛を選択していく。そのときにやはり神は奇跡をもってのぞんでくださるのだと。偶然虹が現れたのでしょうか。偶然ではないと思います。この世で起こることは何一つ偶然などございません。そこには何かしら意味があるのです。この虹を見てご家族皆さんが神様のご存在を感じたというのですから。

 愛を選択すると言いましたが、これは語弊があって、キリストの姿を見ていれば、キリストの言葉に触れ続けていれば、自然と愛を選択せざる得ない状況に導かれるわけです。勇気をもって愛なる決断をした時にこそ、神は奇跡をお見せくださるのだということ。学ばせていただきました。元気をもらいました。勇気をもって、自分に与えられているものを背負っていこうって思いました。

 ヨセフはこう言っていたらどうでしょうか。「神のお心なんて受け入れられん。」と。イエスは自分の子どもではないから育てられないと。しかし、それはヨセフにとっても、人類にとってもの最善の決断ではありません。

 ヨセフはもう神の業の中に入れられていて、ヨセフの家庭だけのことで決断できなくもなっている。全人類の救いのために、今日イエスさまと私たちが出会うためにも、このヨセフが苦労を背負ってイエス様を育てなければならなかった。

 神がそばにおられるという喜ばしき知らせは、それを受け入れる人をより大きな次元へと引きあげます。ヨセフの個人的な悩みの中に舞い降りた神の業。そのヨセフに起こった、神の業の中に宿る主イエスの姿。その主イエスの姿はすべての人を救う。

 逃げ出したくなる現実の中に、インマヌエルなる「神は我々と共におられる」という神はおられる。そこでこそ神はご自分の業を行いくださる。人間の力に依存しない。神の業。

 「神が我々と共におられる」「インマヌエル」これだけが力の根拠です。教会に来てよかったなぁ。聖書に触れることができてよかったなぁ。と、最近しみじみと感じております。私が今日を歩む力の根拠も「神が共におられる」ということだけです。

 それ以外のことは結局頼りになりません。それ以外のもので勝負しようとするといつも道をあやまる。何か他のものを頼りにしようと思って、インマヌエルなる神、以外に寄りかかっていても倒れるんです。この世に存在するものすべてがやがて倒れるんです。人が人として信頼できるのは、人としての限りある信頼であって、神のように信頼はできない。だから、はじめから神にのみ信頼をしたらよいのです。

 世界を造られた神は、この世の現実の中に稲妻のように介入してくださる。その方にとっては困難は困難ではない。いつでも救いを起こすことだってできる。この苦しみは誰かのために神が介入するために備えられている困難なのかもしれない。そんなふうに思うことができたら、苦しみも単なる苦しみでなくなります。

 キリスト者の苦しみは1人の苦しみではないと思います。私の父母に神の愛を伝えるために、鈴木崇巨牧師は雨の日も風の日も、私の父母のために通い、祈りの世界とはこういうものであるということをお教えくださいました。父母は神に祈るという生活を殆どしていませんが、そうすることができたらどんなに楽か。

 まだ、祈りの世界は得ていませんが、そのために牧師が足を運んだというその姿。鈴木牧師の背中が私に力を与えます。

 キリストが忘れずに私の父母にお関わりくださるのだ。ということを思い出すのです。ならば、子どもである私に何ができるのか。そういう問いが必然的に起こってくるのです。

 

 大変な思いをして、あぁ、あのキリスト者もこのキリスト者も。本当に大変な思いをしながらも、日々を精一杯生きている。その姿が誰かを励ます。その姿が誰かに力を与えるのです。背中が語る。誰かを動かす。私が鈴木先生のご苦労によって動かされているように。

 ヨセフさんだってマリアのイエス様懐妊を知った時、泣いたかもしれません。すくなくとも、ふぅってため息をついたんじゃないでしょうかね。どうしようって。でも、その苦労は私たちの救いのために用いられています。

 愛する決断をし、誰かのために苦しみを負い続けよう。ヨセフさんの姿です。そこに神の正しさが見えてくる。そして、そこにまたイエス様の姿が見えてくる。愛する決断をし続けよう。イエス様の思いそのものの言葉です。愛する決断をし続けよう。どんなに苦しくても。

 十字架の主キリストがあなたの苦しみを見逃すはずはないんです。誰よりも苦しまれたのがキリストだから。苦しむ人は人の苦しみを蔑ろにしません。キリストは私を覚えてくださる。その信頼。

 私はあの十字架の主、飼い葉桶に寝かされた主、病める者に触れられた主。あのお方にだけついていきたい。そして、神の業を見たい。ご一緒してくださる方はどうぞ、心の中で今共に、お祈りください。アーメン。