マタイによる福音書2章1〜12節 「救いが届けられるところ」

 私は2001年7月1日に洗礼を受けました。あの時からもう14年が経ちました。人生が変わりました。自分自身の人間としての器はほとんど変わっていないと思います(笑)。でも、人生は変わりました。何が変わったかって、愛を知ってしまったことが変わりました。十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という叫び。自分を捨てても人類を救うのだという強烈なイエス様の意思。それを知って、受けれてから、人生が変わりました。自分に足りないところ、ダメなところ、神に受け入れていただけないんじゃないかと思うところがあったとしても、キリストはこちらに向かって、「父よ、彼を赦したまえ」と叫び、ご自分の血を流して、命を与えてくださる。その愛。それはずっと変わることがないものなんだと。

 この愛は、ずっと与えられているものです。何をしたか、何をしないかで変わるものではない。だから、変わらないから気づいているかどうかということが極めて重要なのです。多くの場合気づいていません。だから、それに気づいていただくというのが私の仕事です。

 クリスマスというのは、キリストの愛に気付かなければならない時です。そうでなかったらクリスマスを祝ったことになりません。今日一日、キリストの愛が既にある。それが私に向かっている。このことに注目して一日を過ごしていただきたい。それが真のクリスマスです。

 「え、こんな私に。そんなはずありませんよ。」などと決して言わないでください。そんなこと言いだしたならば、私にも神様の愛が注がれていないっていうことになってしまう。そんなことは断じてありません。神の愛はすべての人に注がれている。問答無用なまでに(笑)。これを信じるかと問われている。

 年末になると、実家に帰省するということが家族で話題になります。私はいつも牧師として一杯一杯ですから、休みのことは何も考えていません。妻は真っ先に実家に帰ることを考える(笑)。それだけ実家というものが安心できる場所だって、気付いている。牧師になる前は伝道師と呼ばれるんですが、私が伝道師の時、妻は実家に帰る度に、泣いていましたね。休みが終わってしまって、実家を後にするとき泣くんです。新しい生活で気を張って、伝道師の時代は上司みたいな人がおられて、あたりが厳しかったものですから、辛かったんだと思います。

 私は全く実家に帰りたいなんて思いませんでしたね。もちろん、大変でしたので、休みたいとは思っていましたが。親元に帰りたいとは思いませんでした。しかし、年を重ねれば重ねるほど、また、愛というものの有り難さに触れ続ければ触れ続けるほどに、親元に帰れることの喜びというものを見出しています。だから、今は年始に帰れるのが嬉しくてしかたがないんです。

 何故、嬉しいかって。何があっても親は無条件で私のことを受け入れてくれるからです。私を守ることしか考えていない。それが親。親の偉大さに気づきました。イエス様の愛を知って。親の愛の究極、突き詰めていった究極がイエス様ですから。イエス様を知っていくと、逆に親の偉大さに気づきます。

 私には子どもが二人いますが、その子どもたちに、私の内にある愛が向かっているのに気付きます。私は自分の命と引き換えにしても自分の子どもを守ります。そういう愛を自分が持っているのは。私自身が受けてきたからです。私の内にあるのは、私の父母の愛です。だから、自分が受けてきたから、自分も愛さなくてはいられない。

 受け取ったものをそのまま人に手渡してしまうのが人間じゃないでしょうか。人っていうのは受け取ったものの制約の中で生きるのではないでしょうか。受け取ったものしか人に手渡せません。

 イエス様のもとに行くって、親元に帰ること以上のことだと思うんです。神のもとに帰ってくるものを全面的に受け入れようとしか考えておられない。神の子として歩むそのために必要なもの全部を準備して、イエス様は両手を広げて待っておられる。いや、待っているどころではないんです。イエス様は御自身の方から、こちらにお越しくださるというのです。そのメッセージがクリスマスのメッセージでしょう。あなたにすべてを神が与えるために神の方がこられた。

 人として生まれ、家畜小屋という汚い場所をも厭わず、とにかく人に触れるためにお越しくださる。

 触れる。この言葉は極めて重要だと思います。触れる距離にお越しくださる。それがイエス様がこの世にお越しくださったことの偉大なる意味です。

 私はどんな人とも特に苦しみを背負っておられる方には触れてお祈りします。というのも、この手を通して神様が触れてくださるということを信じているから。その方に触れたい、その悲しみにふれたい、その病にふれたい、その涙にふれたい、その人を背負いたい。それが神の思いであることは間違いないからです。神の愛の力が稲妻のように働きだすということを知っています。

 神が触れたいと思われる時って、人間が闇を抱えている時です。マタイ福音書2章が今日朗読されました。この時は、真っ暗。何が暗いってヘロデ王の心の中が真っ暗でありました。ユダヤ地方を治めていたのが、ヘロデ王でありましたが。この王は、もとはエドム人の出であって、当時もやはり人種差別のようなものがあって、エドム人というのは一段劣った存在のように考えられ、それゆえにヘロデ王はどこかにユダヤ人に劣等感を感じながら、ユダヤの王となっていたのでした。王でありながら劣等感に悩まされていた。

 さらにヘロデ自身がかなり暴虐を極めた王であったらしく、民衆から忌み嫌われておりました。何とかして、ユダヤ人として認められようと、ユダヤの由緒正しい血筋による、血統のしっかりした妻を迎え入れました。その妻の名はマリアムネといいました。

 マリアムネのことをヘロデ王は心から愛していたようです。そのほかにも合計10人の妻がおり、その妻同士での骨肉の争いのようなものもあり、王位をなんとか自分の息子に奪取しようという思惑が飛び交っていたようです。

 しかし、王はその王権奪取のための骨肉の争いという暗闇のなか、自分の親族から命を狙われるという思いに捕らわれてしまう。疑心暗鬼の中、どうしてなのか最愛の妻であるマリアムネを処刑してしまいます。このマリアムネの息子二人、アレクサンドロスと、アリストプロスも殺害してしまう。最初の妻であるドリスという人との間に生まれた、息子アンティパテルも殺害してしまいます。その息子を殺害した後に、激しい病による苦しみでヘロデは世を去りました。ヘロデは自分の王位をねらう者との絶え間ない争いという暗闇の中に、不安と猜疑心に悩まされながら過ごしたことが分かります。

 不安と疑い。これこそが、光とは真逆の闇としてこの世界に広がっていたのでした。王がそんな状態ですから、その王の周りも影響を受けます、王宮がそのような状態になれば、その地域、その世界全体が影響を受けていきます。

 マタイによる福音書2章1〜3節をご覧んください。

 イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

 占星術の学者が何故、王の誕生を読み取ったのかといえば、そこには彼らなりの根拠がありました。土星は古くからイスラエルの星とされていました。また木星は世界の支配者の星。魚座は終末、世の終わりを象徴するもの、この3つが出会う機会は794年に一度ということらしいです。その星の動きを見たので、世界の終わりに、支配者がイスラエルから現れると。占星術の学者は判断したのです。後にケプラーという学者が、まさにイエス・キリストが生まれた時に、土星と木星、魚座がかなさるということを証明したようです。

 ヘロデ王はこのことに動揺するわけです。自分の王位が危ういのではないか。キリストという王が来られるということは、この世の王位が奪取されるということでは全くありませんでした。だから、ヘロデだって神を迎え入れるという思いがあれば、王でありつつ、キリストの前にひざまづくこともできました。しかし、彼の頭の中には不安と疑いしかありませんでした。不安と疑いから導き出されるのは、このメシアは自分の王位を、自分の命を狙っているのではないかという結論でしかありませんでした。

 本日特に目を止めていただきたいのが、ヘロデの姿と、三人の学者たちの姿。この対比です。ヘロデ王は、不安と疑いに悩まされて、自分を守るためには、何をしても構わない、人の命を奪っても、人を苦しめても、人を犠牲としても。そういう発想になっていく。そして、後に乳飲み子を大虐殺してしまうという結論に至るわけです。

 それに対して、真の王を発見して平安と信頼に至った人達。三人の博士達。彼らは黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。これらは非常に高価なものであり、彼らにとっては全財産に等しいものであったのだろうと言われています。安心して、信頼して自分をささげていこう。この方のためならば、自分のすべてをお献げしてもかまわない。愛の力がこの三人にはたらき、天のお心がこの三人に満ち、そして、安心、平安、と信頼に満たされて、ひざまづいて自らをささげるという結論に至った。

 不安になって、疑いに悩まされて、抱え込んで堅く閉じこもっていく。これは死のイメージ。闇のイメージです。こんな状態の時に、愛を川のように流れだすことなんてありえません。抱きこんで飲み込んで、周りを死に至らしめる。まさに闇です。しかし、その闇を払拭するためにこそ、キリストは来られた。マタイによる福音書1章23節を見ますと。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 神は我々と共におられる。ということを発見し受け入れた人は、平安と信頼を得て、心を開く。

 三人の博士たちは、この平安を得るために何かしたというわけではありません。彼らは見つけただけです。救い主を。彼らの努力が実ったからこの救い主がこの世に来られたのではありません。彼らの努力とは全く関係なく、神の力によって救い主イエスはこの世に誕生したのです。神のご意思によって。それを彼らは発見しただけに過ぎない。

 「見つけて、受け入れる。」

 こんなに簡単で誰にでもできることはありません。インマヌエルだと、あなたと共にいると宣言し続けている神。この神は見出そうとすれば見つかります。神がそう宣言してくださるのですから。間違いありません。いやぁ、見つけるのが難しいんですよ。そう言われるかもしれません。しかし、それは違います。神はそばにいると宣言しておられるんです!見つからないのは探していないからにすぎない。見ようとしないと見えないです。ちょうど私がキリストの愛を知るまで親の愛を受けていながらも気づけなかったことと同じです。気づかなきゃダメなんです。応えなきゃ。そうしないと、その愛の価値が自分でもわからないんですよ。

 神は我々と共におられる。

 これをこの愛を見つけて、受け入れる。闇があっても、闇にキリストをはお越しくださるのは間違いない。ヘロデ王は深い深い闇を抱えていたのです。しかし、彼がキリストを受け入れていたら。神がそばにおられるんだということを心から受け入れていたら、平和がそこにあったはずなのです。神はあなたと共におられるのです。このことを受け入れるだけでいい。それが救いです。それがクリスマスです。アーメン。