マタイによる福音書21章33-46節 「実を結ぶ」

 新年あけましておめでとうございます。元旦礼拝に出席された方にとっては二回目になってしまいますが、まことにおめでたいです。神様が新しい業をはじめようとされておられる。誰かに向かって、ご自分のお心を伝えようとされておられる。神の思いを知って、暗い世界からよみがえるものたちが起こされる。そんな偉大な業が私たちを通して行おうとされている。

 時を支配しておられる神が、新しい時を与え、私たちそれぞれに使命を託し、誰かの所に送り出そうとしておられる。神の支配の中で心安らかに、その歩みを進めたらよい。

 神を知る民は真に幸いだと思います。苦難は去らないし、試練ばかりです。しかし、その只中で心安らかに、神の守りを期待することができるのですから。

 まぁ、私は年末から年越した気が全くしませんでしたが(笑)。元旦礼拝に出席された方、すみませんでした(汗)。ズタボロの姿をお見せして。元気が全くありませんでした。

 新年から。実は年末に、、、牡蠣にあたってしまって、ずっと寝込んでいました。しかし、そこで本当に大事なことを経験させていただきました。年末の31日。元旦礼拝の準備もしなければならない、パソコンに向かって原稿を。。。と意識朦朧と思っている時に。

 「お前が証ししなければならないのは、その苦しみの中に神がいるということだ。」と。

 「なんでこんな目に。と思えるその中に神がいることだ。」と。

心に響いてきました。どんな現実でも例外なく神がおられる。

 先に召された、この世での命を終えて神のもとに向かった神の民。その神の民が証ししてくれていたことも同じことだったことを思い出しました。

 「最後の瞬間まで神は守りたもう!」

 神は一緒にいる。だから、死の直前までなすべきことは、「神を求めること」だと、ただそれだけだと。そこに平安がある。インマヌエル、神我らと共にありという神は、どこにも例外はつくらない。どこにだって、信仰を持って見れば神がおられる。

 神は人間に信心だけを求めておられるだけですね。信心と言っても難しく思わないでください。それは見上げるということだけです。神学校の教授や神学者は、また牧師も自らを戒めなければなりませんが。そういう神を知っていると思っている人は、どんどん話を難しくしていきます。だから、一般の人々は信仰ってとっても難しいことなんじゃないかと、修行を積んでなにか悟りのようなものに達しないと得られるものではないんじゃないかと思いがちなのですが。しかし信仰は単純です。

 ここに神がおられると信じ、見上げるだけです。到底人間にはそれぐらいのことしかできませんよ。自ら清くなって神に近づくなんてことはできない。こちらが見上げたその瞬間を神様が見ていてくださって神様が手を伸ばしてくださるのです。

 鳥の雛みたいなもんなんじゃないでしょうかね。自分では何もできなくて、ずっと親鳥をもとめて鳴き続けているだけ。でもそれだけで親鳥はいいと言っている。見上げて泣いてくれと、見上げて泣けばそこにわたしがのぞもうと。

 この世界は見ようとすれば神のご配慮がそこら中に行き届いています。それが無いかのように感じるのは見ようとしていないからでしょう。地球が存在することしかり、地球と太陽との距離、月と地球の位置関係だって絶妙なバランスで保たれ、月と地球との関係性に支配されて、海に運動が起こり、潮の流れができ、魚が育つ。こんな不思議な連動。その魚を自分が食している。時に牡蠣にあたる(汗)。それによって命が保たれている。奇跡以外の何物でもないと私は思います。すべてが連動して、ここに向かっている。人間を支えよう、人間を生かそう。その究極の神の御心に世界が向かっているようにしか見えません。何か意思がなければこんな精密な製作というか、創造はできないんじゃないでしょうか。まさに神の支配ですよね。

 私の牧師室はカオスです(笑)。私の片付けようとする意思が弱いからですね。強烈な意思があれば片付きキチッとした部屋になるでしょう。しかし、意志薄弱で、カオスです。。。意思薄弱じゃ、カオスになるんです(笑)。神の意思をこの世界の時の流れ、この世界の動き、今日食べた食べ物。それらから感じます。

 本日の聖書箇所。とても恐ろしい話が記されています。ぶどう園で起こった殺人事件です。凄惨な事件を通して神様が実際にこの世で起きていることとはどういうことなのかをお教えくださっている。

 ぶどう園で働いている農夫たちは主人の僕を次々に殺していきます。最後にぶどう園の主人は自分の息子を送ると、この息子まで殺してしまった。なんという恐ろしい例え話でしょうか。しかし、これこそがリアルであるということを言いたいのでありましょう。

 このたとえ話で一番大事なところは、33節であることを覚えてください。

 もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を堀り、見張りややぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

 大事なことはぶどう園は農夫たちのものではないという大前提です。主人から借りているものであるということです。しかし、この農夫達は、労働を重ねていくことによって、自分たちの手による労働の実りというものを目にするようになります。其の結果、自分が自分の手によって稼いだ働きであるという意識が非常に強くなって、そこには独占欲が働き、これはオレのものであるという意識が支配的になった。でも、本当はすべて主人から借りたもので得た労働の実りでありました。

 実りが出るんですが。その実りが一体何によって生み出されたものであるのか。それを理解するその理解のものさしによって、人の行動が変わります。

 ぶどう園は、主人が手間暇かけて作り上げたものでありました。外敵から労働者を守るための防衛の措置もされていました。垣がめぐらされていたと書かれていますし、見張りやぐらが立てられていたといいます。農夫たちや、ぶどう、ぶどうから得られる収穫を守るための、最善の策がこうじられ、その全ては主人の配慮によってつくられていたものでありました。それがなければ、農夫たちは収穫さえ得ることもままならない、自分の命さえ守られないそんな大前提があったのです。しかし、農夫たちはその大前提をまるで忘れているかのように、主人の僕達を次々と殺してしまいます。

 

 環境や状況が与えられているものであるという視点を失うと人間はここまで不遜に、自分のしたいようにして、恐ろしい現実を造り出してしまうんですね。なんといいましょうか。寒気がするというか、しかし、これ実はどこか遠くの話じゃなくて、まさに身近な話なんですよね。

 すべてのおおもとは神のものであり、神から与えられたものであるという視点を失うことってしばしばじゃいですか。自分たちの力で得た、自分たちが独占する自分たちの実りを守るために誰かを犠牲にするとかいうことだって、実は世で起こっていることじゃないですか。

 神がご自分のご意思によってこの世界を形作り、守り、ご自分のご意思のままに形作ろうとされておられる。神のご意思がなることを信じて、与えられているものは、神から与えられているのであって、究極的には神のものであって、自分のものではない。

 収獲の時になって、この実りは主人の配慮により得る事ができた実りであるということを忘れてしまった農夫達は、主人の使いを敵としました。自分たちから収穫物を搾取する敵としたんです。本当は仲間なんですよ。全く敵ではないのに、本来主人の管理のもとに収獲があるということは正しいことなのに、そういった正しささえも、もともとの土台が見えなくなると、見誤ってしまうんですね。

 主人の息子を手にかけるなどとことん狂気の沙汰でしかないのに、それが狂気の沙汰だとは思えなくなる。そして、息子さえも殺してしまうのです。

 この農夫たちは、律法学者やファリサイ派、祭司たち。特にユダヤ教の中枢にいて、自分たちこそが救いの鍵を手にしていると自認し、戒律を課しそれを守れないものたちを蔑んでいた人々です。救いというものはすべて神様の側に権限があるのですが、その権限がこちら側にでもあるとでも言うかのような、とんでもない思い上がりに立っている人。そういう人のことを農夫たちにたとえているんです。

 救いは神のもとに。それは決して人の手の内にはない。神の民として集められる者たち、それは収獲に例えられるけれども、それらはすべて神のものであって、律法学者やファリサイ派の言いなりになるようなそんな人々をつくるためではない。

 私は牧師として生きる中で、ローマの信徒への手紙10章5節以下の言葉が極めて大事であり。まさに、私の伝道の意思を支えるものであることを実感しております。お読みいたします。

万人の救い(新共同訳の副題)

 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これはキリストを引き下ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。

 

 誰が天に昇るか、そうでないのか。それはすべて神の意思。神の意思であることに人は介入できない。だから、あの人は天にのぼりこの人は地に落ちるなどといえてしまうということは、人間の幻想にすぎない。思い込みです。

 しかし、もしもあなたの心の中にキリストへの信頼、神への信頼、おお神よ私を救い給えというような、神に向かう心があるのならば、その人はすでに救われているというのです。キリストはすでに十字架にかかり、その人を罪の縄目から解き放つという準備はすでになされている。だから、神を求めて神の世界に産声をあげて、神を泣き求める人を迎え入れるだけだということです。

 神よ、私は罪人です。なんとう不義理をあなたに対してしてきてしまったことでしょうか。あなたがご準備くださっていたこの歩み。あなたが与えてくださっていた私の生きる糧。あたなたがくださっていたこの環境。あなたがくださっていたこの人生の喜び、実り。これらはすべてあなたがくださったものでありました。

 あぁ、そうだったのか。これも神のご配慮。あぁ、これも。私にとってこれまで良くないことだととか、消し去りたい過去だとか思っていたこれも、私が神を発見できるようにするためのものであったのかもしれない。苦しみは無駄ではないし、この苦しみは神とつながる。神とつながればもしかしたらこの苦しみの経験は誰かを生かすことになるのかもしれない。

 神の国が心にある。神の支配がここにある。神がおられる。神が共に。平安。この中で誰かのために自分を削っていこう。あのイエス様を目指して。

 誰が救われるのか、誰が救われないのかではない。あなたが救われている。救われざるものが。それを徹底的に味わえ。インマヌエル。神は一緒だと。心の板に律法の記されたキリストの僕。そのあなたが神の国を伝えるのです。アーメン。