マタイによる福音書 22章1-14節 「選び」

 本日の聖書箇所にも記されておりました。「しつこい」までの神の招き。一度では決してあきらめない。何度も人を招く。それが神であると。本日ここに来られている皆様も招かれた一人ひとり。神が手塩にかけてと言いましょうか。何年も計画して、神の民として招き入れるためにどれだけ神の業があったことか。

 教会にはいろんな動機で来られていると思います。癒やしがほしいだとか、人恋しいだとか、人生の指針を得たいだとか。どんな動機でも構いませんが、私たちがここに座っている1人のひとを見るときに、「この人は神の招きによってここにおられるんだ」と見ることがとりわけ大事なことです。

 誰かの意思、私の意思、あの人の友達だから、あの人と仲が良いからとか、あの人に連れてこられたとか。そういうもろもろの事を差し置いて、神が1人を招くこと。神がその人と出会いたいと思っているということ。これを忘れることはできません。

 神が私と会いたいと願ってくださるからここにいる。この思いに立つことほど、心に平安が訪れること、心強いこと、心に力が注がれることはありません。しかも、これは誰に説明されて納得して信じるというものでは全くありせん。神がそう思っておられる。神の思いは誰かの思いによって影響を受けるだとか、変わるだとかいうことはない。

 人の心の中には恐れがあります。私のことを人はどう思っているのだろうか。私のことを良いと思っていてくれている人ばかりじゃないということを知るというか、恐れると人はいたたまれなくなって居心地が悪くなると思います。教会だって人の集まりですから。人は集まると、人について意見をもったり、善悪の判断だったりしてしまうでしょう。しかし、教会の強いところは、次のように言うことができるということです。

 「あなたのことを人がどう見ようかなどということはもうどこかに置いておきましょう。神があなたをどうみるかに集中しましょう。」

 ということです。

 「この世の中であなたがどういう生活をしているか。それはもちろん大事なことです。しかし、それは一旦置いておいて、この時は神と向き合いましょう。」

 ということなのです。

 神からの招きがここにあり!と思うのならば、人はそれ以外のことを何処かにおいておくことができるでしょう。どこかの国で、例えば王国において、王に招かれたら、その国民はほかのことを全部おいて、王に応えるということを考えますね。もちろん、人は自由ですから、拒否することもできますけれども。

 しかし、全部こころに引っかかっていることをおいて、神に向き合うことができるということ。これ以上に偉大な癒やしを私は経験したことがないですよ。キリストの言葉に次のような言葉があります。マタイによる福音書11章28〜30節。

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 私は根っからの享楽者といいますか、楽しいことが好きですし。お笑いとかですね。笑い転げることが大好きなんですね。だから、できれば一日の最後はそういったおもしろいものを見ながら「ギャハハ」と笑いつつ眠りにつきたい(笑)。しかし、そういう日は殆ど無い(汗)。何かに追い詰められつつ、次の仕事はなんだろうかって考えちゃってますね。焦りつつ、まだ終わらない仕事に追いかけられつつ。体が疲れて、精神も疲れてどうしようもなくて眠りにつく。そういう方多いんじゃないですか。現代社会においては。。。ゆっくりできませんね。

 しかし、この疲れきった時にこそ、神の前に自分が行けるというか、もうすでに神の前に自分の人生があったこととか。瞬時に祈りの世界に入っていけるということ。委ねきって脱力できるというようなこと。これがどれだけ大きなことかと思いますね。

 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

とおっしゃられた、イエス様の言葉は真実ですね。神を前にするだけで癒やしが得られるんです。イエス様が近くに来られたその人たちはみんな立ち上がって喜んで力を得ていきましたが、その気持よくわかります。何にもしなくても、神に意識を向ける。それだけで心に癒やしが流れ込んできますし。あぁ、自分も見捨てられてはいないんだという意識が次への活力になりますし。別に人に何と思われようが、王の前に自分はひざまづいて、王がこれをなすべきだとおっしゃられることに従えばいいんだって思えますからね。

 神の招きを拒否して、神の前に行かないとどうなるかって。それは本日の聖書のところに書かれていますが。基本的には変わらない日常に皆帰っていくことになるんですが、畑に帰る人、商売に出かける人。こういった人達は単に日常に帰っていくということなので良いかもしれませんが。しかし、いろんなことに追われて、重荷を下ろすところも無く、心に力が充填されることもなく辛い歩みになってしまうことが予測できますね。この例えで、実は人々を招き、その祝宴においては牛や肥えた家畜を準備しているんですよね。一杯食べて、王子の婚宴の場で喜びを共にして、人生を共にして新しい未来を見て歩める。そのことの方がよっぽど素晴らしい。そのはずだったのに、そういった良きもの全部を棒に振って自分の生活に帰って行って、結局疲弊するだけ。これが神を拒否する人間の姿だというのです。

 人生において「聖なる中断」というものがどれだけ重要なものか。「ストップ」をかけられることが重要なんです。

 「努力は必ず実る」

 確かにそういう一面はあるでしょう。しかし、「努力は必ず袋小路にはまる」ということも私は体感的に理解しています。出口のない迷宮に入って答えが見いだせなくなる。ただただ、肉体と精神に疲労が蓄積されてどうにもならなくなり、へたり込んでたおれる。しかし、その時に外からの助けを求める事ができたり、一度全部をストップさせて、より大きな視点を持っている人に何かを伺ってみたり、そのことがどれだけ重要かということはみなさんよく理解されておられるのではないでしょうか。

 だから、ちゃんと力ある御方の前で、自分自身の業をストップさせてひざまづけるかどうか。それが、私たちの人生を前にすすめる、神が与え給うためあてを目指すときに前に進むための極めて重要なことであるということなのです。

 何より大事なのは、信頼して、神がお招きくださるところは神がお招きくださるがゆえに、この世のことよりも重大な、私を生かす何かがあると信じることができるかどうか、だけなんですね。

 教会に毎週足を運ぶ。これだって、委ねなければ毎週はできません。教会に行くよりも、もっと大事なことがあるじゃないか。もっと働けばもっと利潤を出せるんじゃないか。この時間を使ったらもっと大きな何かを。

 私恥ずかしながら神学生の時にそういうこと思ったことありますよ。このレポートはあの礼拝の2時間を使えばもっと良い物ができて、もっと良い成績を!!!などと。。。しかし、礼拝で自らの手の業を休めてストップさせて、神の御心が宣言される礼拝に身を置いてこそ、自分の人生があるということを徹底的に認めることにこそ力があった。今にまでも、その力の継続、神の導きが続いている。

 結局人間の業で何とかしようと頑張ってみても、この例えに書かれていて、恐ろしい例えですが、王の家来たちを捕まえて殺すようなことを人間はしてしまうのだということが記されているのです。

 神の家来というのは、神の思いの代弁者ですが、その人を殺すということは神の思いを踏みにじって台無しにしてしまうということの比喩でありましょう。結局なんにも神の心にそぐわないことをしてしまって、その結果、どんなに頑張って努力していても、その業は永遠なる神の、王の業と繋がらないから、滅ぼされるということなのです。

 人は神の似姿につくられているという時点でその尊さを内に秘めていますが、俗悪な部分も大いにあります。人間のなすことは尊いこともありますが、そうではないことも多いものです。尊さと俗悪さというものが入り乱れて何がなんだかわからん。というのが実際の人間の姿ではないでしょうか。善をなそうとはじめは良き業に励んで見ても、結局は自分の自尊心を満たすためであったり、自分が人に善人と評価を受けるためであったり。すぐにはじめの志が変化して、俗悪さというか、罪といいますか。汚れといいますか。己の腹を満たすためということになる。しかし、そうではない部分ももちろん残しながら。そういった善悪混沌とした人間を生かすのはやはり神。

 神につながることによって、神の前にひざまづき続けることによって、その善悪混沌とした、いや結局悪人としか言いようがない人間が神の業に用いられていく。

 最終的に王の招きに応えた人というのは、10節以下に書かれています。

 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

 善人も悪人も、という言葉でイメージされているのは、聖書の言葉を守ることができる人も、そうでない人も。という意味があります。どんな人も例外なく、ユダヤ人にとってはそうでない異邦人もということ。最終的に王は分け隔てを全くしない。

 神の民として集められる人というのは、善人でも良いですし、もちろん悪人だって神の民として集められる。善人だとか悪人だとかいう区別はもはやないんですね。

 しかし、王がそのすべての人に求められることは、この王の招きに自分なりにちゃんと応えたかということです。11節以下。

 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が1人いた。

 これは王の招きに、その招きに当然の応答をしなかったということです。王の招きに自分なりに応えたのかということです。応えなかった人は、外に放り出されてしまった。

 衣というのは聖書の中では「行い」に例えられます。ヨハネの黙示録19章に記されているのですが。

 この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。

 と書かれています。神から救いをいただいた。そうしたらその救いにそのまま応える。そういう行いですね。例えば、別け隔てなく悪人であるにもかかわらず自分が迎え入れられた、とするならば、それなりの行動というものがあります。どんな悪人をも神は迎え入れてくださるはずだと信じて、どのような人をも大事にするでしょう。

 救いを受け取った人は、「あいつは救いにふさわしくない」だとか「教会にふさわしくない」「キリスト者としてふさわしくない」などということは口が裂けても言えなくなります。キリストを知らない人はクリスチャンに良く言いますよ、「あの人はクリスチャンらしくない」と(汗)。

 また、なんか自分にとって不都合な人がいたとします。例えば、不快な人。そういう人がおられたとしても、その人を神は迎え入れてくださるはずだと心で静かに信じるのです。神の救いに応えるという形で教会が形作られていったら。そこは神の国になりますね。真にここにキリストがおられると誰でも思うでしょう。神が私にしてくださったそのままを神に応えて、行動しようとするならば。

 そういう人達の集まり。自分はこう招かれた。だから、あの人も同じように招かれるんじゃないだろうか。暗闇に座して、誰からも見捨てられるような孤独な経験をした。確かに自分は人に迷惑を沢山かけたのかもしれない。どうしようもない自分。しかし、そんな闇に座している自分にキリストが手を伸ばしてくださった。だから、あの人にも同じように。

 多くを赦された感じているその人は、神の民として、より偉大な働きをする。

 使徒パウロの自己理解というのは「罪人の頭」であって。自分は殺人幇助を犯したのだ。キリスト者をつぎつぎと捕らえて、処刑していくことに加担していたのだと言います。これほどに恐ろしい罪を犯した人はいない。しかし、彼ほどに大きな働きをした人もいない。多くを赦された人は、多くの人を受け入れます。多く自分の闇を味わい、その闇から救い出されたと認識している人は、誰かを救い出す働きをします。

 私が神に受け入れられたんだから、目の前の人は例外なく。。。この認識で、すべての人に主の愛が注がれることを信じて歩みたいと思います。アーメン。