マタイによる福音書25章14〜30節 「タレントは神から」

 もう既に外来語として日本人に定着しています「タレント」という言葉。タレントさんという使われ方が定着しています。才能のある人というもとは意味でしょうが、テレビに出ている人という意味合いで使われています。

 しかし、これはもとは聖書の言葉です。お金というか重さの単位です。銀貨1タラントンは現在の日本の価値で換算すると6000万円ぐらいでしょうか。神から託された財産。それがタラントン、タレントということ、才能という理解につながっていったのです。

 マタイ福音書1章14節を読みます。

 天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

 この状況って一体どんな状況なんでしょうかね。例えですから、具体的な何かをさしてキリストは、何かを言いたかったのでありましょう。その具体的な何かってなんでしょうか。

 この言葉が残されたのは、イエス様が十字架におかかりになられる直前でした。ということは、ご自分が死んで復活し、天に昇る。弟子たちは赦されて神の国に迎え入れられて、神のものとして生きる。神のものとして生きるものには、聖霊が下されて、この世において天の国が心にある状態になる。イエス様御自身は天の父の右に座しておられる。だから、肉眼をもってイエス様に出会うことはできない。しかし、聖霊が、神の力が私に望んでいる。そういう事を弟子たちは体験することになりました。

 主人が近くにいない。旅行にでかけている。財産が託されて、それを運用することが求められている。キリストはそばにはいないけれども、神の国の福音、神の言葉が託されている、また一人ひとりに必要な何かが託されて、それを運用することを求められている。まさに、キリストが天に昇られた後の教会のことをこれは指しているわけですね。

 ご自分が去られた後に、教会がどうなるのか。そういうことにイエス様はいつも心をさいておられる。これから、ご自分は痛い思いをするんです。痛いというか、まさに身をさいて、文字通り、血を流して死ぬという歩みをするわけです。すべての人の罪の犠牲の小羊として捧げられていく。しかし、ご自分が苦しいとか、そういう感情はもはや無いのですね。とにかく、人を救うためならばどんな犠牲をも払おう。だから、自分のことはもうどこかにいってしまって、弟子たちの心配をして、後の教会の状況を心配して、お言葉を残していかれるんですね。

 私はまことにこの方のお心のある所に天の国はあると思います。これこそが天です。自分の痛みなどどこかにいってしまって、天の父が受け止めてくださるという信頼のもと、自分の痛みは委ねることができて、そして愛するもののために犠牲を払うことができる。こういう思いが満ちているところを天と呼ぶことができる。

 さて、タラントンを預けられている状況が教会、という前提にまず立っていただきたい。15節をご覧ください。どのようにタラントンを預けられるのか。

 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、

 それぞれの力に応じて、与えられるその量が決められた。と書かれております。それぞれの力。ってどんな力なんでしょうか。漠然と書かれていてよく分かりませんね。能力ということなんでしょうか。しかし、話の流れからすると、単に能力というわけではないようです。

 後に、お金を託した主人は、このタラントンをちゃんと運用した人のことを評価しております。そこにこの力とは何なのかということのヒントがあります。20節を読みましょう。

 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『ご主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 主人の言葉を注意して見てください。主人は忠実であることを評価しています。「忠実な良い僕だ」と。ではこの場合忠実ということはどういうことを意味しているのでしょうか。

 五タラントンを、主人は運用したいと考えていたわけですよね。まず、そのことを知っていなければならない。ということは、主人がどのようなお考えをお持ちであるのか。ということを僕は常に考えていたということになります。与えられた財産があって、それを主人はどうなさりたいのか。ということを考えている人ですね。そういう人が忠実な人、力のある人です。

 人間は、力の大小を比較します。能力の大小。そして、あの人はすごい、あの人はすごくないとか。優越感や劣等感を抱くものです。本屋に行けば「すごいナニナニ」という本が徹底的に流行りましたが、それはやっぱりみんな大というか、能力が大きい自分を想像したいからでしょう。しかし、本当に大事なのは、能力の大小ではない。

 与えられているものを神が望んでいるように使おうとするかどうか。

 ということです。神のお心に沿ってそれを使おうとするのならば、もちろんあたりまえのことですが、神のお力添えをそこに期待できますよね。だから、そういうふうに神のお心にそって自分に与えられているものを使おうとすれば、大きな広がりを見ることができるようになるわけです。

 主人のお心通りに運用すれば、何が起ころうと大丈夫だ。例えこの元本が減少し、五タラントンが四タラントンになったとしても、それでも主人は私のことを評価してくださるに違いない。そういう信頼がないと、リスクを犯して勝負することはできません。

 主人の心を聞いて、主人が願っているように、さらには主人の憐れみに信頼して、大勝負に出ることができる勇気がなければ、忠実であることはできなかった。聞く、信頼する、憐れみ深い主人。主人に対して恐怖を抱いていないんですね。

 信仰生活において、最大にして最強の敵は「恐怖」であると私は思います。神への信頼ではなくて、恐怖におびえて行動している場合がいかに多いことか。恐怖っていうのはどんどん膨れ上がっていって、事実とは違う妄想を生み出し、その妄想によって、その人の心が制限されて、行動が萎縮し、物事がうまくいかないということに陥ります。

 本日のたとえの中に出てくる、財産を地中に隠していた人。この人の言葉の中には恐れがあります。マタイ福音書25章24節以下。

 『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

 自分で言葉にしていますね。「恐ろしくなり、出かけて行って」何故恐ろしいかと言えば、主人がこういう人だから恐ろしいと言います。

 御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だとしっていましたので、

 畑の農夫と、羊飼いのイメージが背後にあります。畑の農夫は、種をまくこともしないで収獲だけを得ようとし、羊飼いは羊の群れを野に離してエサを与える事なしに多くの羊をかき集めようとする。これは言い換えると自分は何もしないで収獲だけをもとめていく強欲な人間であるという意味です。主人がこういう人だということを自分で勝手に決めている。実際は違うのに、こういう人だと思い込んでいる。で、結局自分を守る行動に出て、自分を守るために、ご主人に怒られないように、地中に財産を埋めておいたというのです。

 良き僕は主人の心を「聞く」、その結果ちゃんと「信頼する」、正しい主人に対する理解ができあがる。主人は「憐れみ深い」人だから、自分が精一杯頑張って努力してその結果どうなっても大丈夫だと思えた。

 しかし、悪い僕は、主人のお心を聞くのではなくて、自分の中の心の声を聞いたんですね。主人は働かない強欲なものであると。事実は全く違うのに。ひどい人だから私も自分を守る。怒られないようにと。結局自己保身と、自己愛です。

 主人がどういうお方か。神がどういうお方か、それによって人は信頼するか、しないかということを決めるわけです。だから、神がどういうお方であるかということを知ることが大事なのですね。

 今週の祈祷会の申命記5章に十戒が記されていました。十戒は十の戒めが書かれているけれども、その十の戒めの前文が大事なのだ。この前文を受け止めないといつまでたっても人は戒めを実現できないというお話をさせていただきました。逆にこの前文を本気で受け止めると戒めを実行することになる。するとある人が今日の聖書箇所とつながっていますねと、ご指摘くださいました。その通りですね!と嬉しくなりましたね。御言葉を共有した瞬間でした。十戒の前文とは。

 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導きだした神である。

 神が救いだしたという、この救いの神という大前提。これこそがまず思い起こされるところに、人間が人間として生きるその道が示される。そこでいつも躓いているから罪を犯すんだと。

 本日の聖書に繋がる内容です。神がどういう神であるかを、どう理解するかで人間の心が決まる。心が決まれば行動が決まるのです。その時のポイントは恐れです。神をどうみるかで恐れが生まれてしまう。やっぱり人間にいつも付きまとう、最大で最強の敵。恐れですよ。真の神、不在の状態。それが恐れの状態。

 恐怖で行動すると、まず喜びがなくなります。苦しくてたまらなくなりますね。本日の箇所でも、地中に財産を埋めてやりすごさなきゃいけなかった人は、これ苦肉の策といいますか。なんか、窮屈さというか。何も喜びもなにもないでしょうね。そんな歩みは楽しくもなんともないでしょう。

 恐れとしっかりと向き合う必要があると思いますね。恐れがあるのか無いのか。恐れがあるのでれば、徹底的に神の前に行って。その心のたけを打ち明ける。一体何に私は恐れているんだろうかと。もしも、そのためのお手伝いが必要ならば、私もご一緒させていただきい。どんな恐れを抱いていて、どんな神を心に抱いてしまっているのか。ご一緒に明らかにしたい。恐れと向き合い、神の前で恐れる必要がないことに気付かなければいけない。

 恐れがなくなった心の状態というのはどんな状態か。喜びに支配された状態。感謝に支配された状態。聖書の箇所をご一緒に見てみましょう。テサロニケの信徒への手紙一5章16〜18節。

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

 喜びと感謝にサンドされて、祈りが生まれる。そんな気がしますね。

 キリストという明確なあのお方を心に抱けるって恐ろしく大きな恵みです。あのキリストを見れば、神がどんなお方かわかる。

 間違いなく目の前の人々を天の国に入れようと、言葉を尽くして語り、行動をもって仕えてくださって、十字架によってご自分の命を投入してくださる。すべては救いのため。

 そういうお方を前にして一体何を恐れる必要があろうか。あなたのそばにお越しくださるインマヌエルなる神。あなたは神に受け入れられている。あなたは神に守られている。恐れる必要など実は、はじめから無かったんです。天の国を心に宿しているものとして生きればよかったんです。

 25章29節以下を見てください。

 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

 持っている人はさらに与えられる。持っている人というのは、恐れではなくて、神への信頼、神のお心を聞く心。何があっても主はお支えくださる。ということに信頼している。すでに救われている。そこから、受け入れられているという喜びから、憐れみの神に信頼して自らをささげて冒険をする人。リスクを背負っていく人ですね。5タラントン、現代の価値に直して3億円で商いを恐れずにすることができる。まさに忠実な僕のことです。その人にはさらに与えられる。与えられて、更に与えられるのですから、与えつくされて、信頼がまた信頼を生み出すのです。

 忠実な僕というのは、能力があるとか、特別な人であるとかそういうことじゃないです。ただただ、神のお心を聞いて、それを本気で受け入れて、平安を得て、神がこういうお方であるからと心から信じて行動していく人ですね。恐れを締め出す天の国。神を信頼する心。天の国は誰かの心の中に広がれば、どんどん広がって、周りにも良い影響を及ぼして、いつか天の国が誰かの心にもまた広がる。そんな光景を見させていただきたい。今日神の国を、平安を、憐れみを受け入れましょう。アーメン。