マタイによる福音書25章31〜46節 「人にすること。神にすること。」

 

 終わりの時の話。イエス様が十字架への道を目指しておられる時。この世の終わりの時にどういうことが起こるのか。教えてくださいました。十字架へ向かうご自分の痛みではなく、どう終わりの時に皆がなっていくのか。そのことへ関心のほうが強いようでありました。自分のことより弟子たちのことを気にかけてくださっていた。

 終わりの時には裁きが起こる。裁きの時。具体的にはどんなことが起こるのか。裁きの座に座っておられるのはキリストです。31節に「人の子」とありますが、イエス様のこと。

 羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。

 右というのは神の側という聖書的な意味があります。羊と山羊というコントラスト。羊と山羊は人間です。羊は白い、山羊はシリア周辺の山羊は黒いようです。黒と白、はっきりと分かるようにわけられる。

 山羊は気性が激しく強い。指導者のイメージに山羊が旧約聖書の中でも用いられています。私たちはそういう人を信頼しついていくことが多いかもしれません。

 しかし、イエス様が集められるのは、貧しい人、悲しむ人々。取税人、罪人と呼ばれている人。弱々しさを抱えている。助けを必要としている人のところに向かわれました。

 羊は自分が弱いのを知っていますから、弱いのを知っている人は、他に弱さを持っている人に共感をもって接することができる。自然に、助けをだれかに。ということになりますね。で、弱い人は簡単に人を助けるんですが。善行をしたとは自分では思っていない。当たり前のことをしたと、自分がしたいことを自分の心のままにしたと思っていますから。善行かどうかなどということに関心が無いというか。鼻にかけている様子はない。

 35節以下には神が人間の行為を評価されているその言葉が記されています。どんなことを最後の審判の時に問われるのか。

 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。

 神はご自分を小さな1人の人と同一視し、その1人にしたことは私にしたことだとおっしゃられる。しかし、これは実際そんなに大変なことではないですよね。誰でもしようと思えばできること。「難しすぎてできません」ということではない。しかし、そんなできることを、しているかといえば、していない。

 実行は途端に難しくなる。ホントはやろうと思えばできるのに。例えば、梅田を歩いていた時、飢えてそこに座っている人がいたとする。その人に何かしたか、と言えばしなかった。この大都会で、この主が求めておられることを実行できた人はいるのか。ほとんどいないんじゃないか。できるのにやらない。

 主はその小さな1人にしたことをこういうふうにおっしゃられる。40節。

 はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。

 ご自分と小さな者とを同一視して、あの時わたしはあなたが目の前にしているあの人のところにいた。そうお考えになられるのですね。そこまで深い憐れみを1人の人にもって、しかも、兄弟とまで、助けられるべき人のことを扱っておられる。

 助けられるべき人は私の兄弟。そう思ってくださるのが神であり、キリスト。だからこそ、そういうお方の裁きであるからこそ。人も、キリストがされたように、誰かに憐れみを示したかどうか、それが審判の基準であるというのです。

 たった一人の小さなものに自分を投影しているか。これが憐れみを神から受けて、生かされているということ、神の救いの中を現実に生きているのかということの証明かもしれませんね。こういうことはやろうとおもってすることじゃない。憐れみに満たされて満たされて、もうそんな自分がせざるを得なくてすることでしょう。

 ある刑務所の教誨師をされておられた牧師に聞いたことがあります。その時に、「先生、かつて犯罪を犯した人と対面するのって、その人がかつて罪を犯したってことでも、怖くないですか」って聞いた。そのときに、その牧師は「怖くないよ。あんまり僕自身とみんな変わらないからね。」とこたえてくださったことを覚えています。

 自分を投影して、自分をそこにみて、自分と同一視できると、その人も神に愛されていることを認めるしかない。そうすると、普通に手を差し伸べたくなるんだと思うんですね。

 でも、これって時として本当に難しいことですから、できる時とできない時とのムラがどんな人にでもあると思うんですね。だから、究極的には、この神の憐れみに生かされて、神の憐れみを常に実行しつづけるというこの基準には立つことは不可能に近いです。

 でも、この話はなんだかループするというか、そんな実行できていない、小さな1人をも神はご自分と同一視してみてくださって憐れんでくださるということも読み取れます。実行できないということをも、助けを必要としている兄弟と見て下さるに違いないんですね。

 じゃあ、この話で、裁きの中で、一番大事なことっていったいなんなんだろうかと考えていくと、裁き主はキリストであり、私たちは羊であるというところでしょう。この大前提です。山羊ではない。羊というのは弱さの象徴ですけれども、水も草も自分で探せない、狼と戦えない。羊飼いに助けを求めるだけです。山羊のように力あるようなものではなくて、神の前で力なきものである。そのところに生き続けるかどうか。すなわち、キリストを主として信じつづけるかどうか。行動はもうだめである可能性が強いわけですから。

 そもそも、ここにでてきます羊として右にわけられた人も、山羊として左にわけられた人も、自分がどんなことをしたのか。どの部分が神に受け入れられるのか。そういうことに全く気付いていないんですよね。

 善行をつんだという羊もこう言っています。いつ私は王であるあなたに仕えたでしょうか。逆にお咎めを受けた山羊もいつお世話をしなかったことなどあったでしょうかと言っているんですね。だから、行動において自分が実行できたかできなかったなどということは、自分でも分からないんですね。結局。 

 だから究極的に大事なのは、どう行動したかということも大事なのですが、その神が求めておられることさえ実行できない自分を神が憐れんでくださると信じ、どこまでも神にすべてをすがって頼りきった羊であること。主人を信じるきるというただ一つのことにすべてをかけて実際生きているということ。これだけですよね。羊であるためにできることって。

 キリストの十字架が自分に。キリストの命が自分に、キリストの守りが自分に。何の値もなしに。ただ受け入れるというこの信仰のみによって、全く弱々しい羊でしかない。その羊をお守りくださり、ご自分と同一視するほどに、見守ってくださる。それを心の底から受けれていけば行動は自然と変わる。本当に受け入れてえいればです。キリストに憐れみを示されたように、自分も示さざるを得なくなるのです。

 

 逆に、もし山羊のように、飢えていた時に食べさせず、のどが渇いていた時に飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のときに、牢にいたときに、訪ねなかったのならば。今、信仰を、心を見直すチャンスでしょう。そこにキリスト御自身がおられて、その人にしたことはキリストにしたことだ。キリストがともにおられるということを心の底から信じていたわけではなかったのかもしれないと問いかけてみても良いかもしれません。

 もう一度、羊としてキリストの前に立たせていただいて、あらゆるところにキリストの憐れみが例外なく注がれている。まず、この私に徹底的に望んで、神は神御自身と私とを同一視するほどまでに、親しく神思っていてくださることを受け入れることです。

 天地創造の時から用意されている国を受け継ぐのか。悪魔とその手下のために用意してある永遠の火で焼かれるのか。帰結は恐ろしいですけれども、人間が行き着く先は、その二つであるとイエス様は教えてくださいます。国を受け継ぐか、火で焼かれるか。

 キリストの前に、羊として弱々しくもすべてを委ねきるのか。山羊として主人の助けなどいらんというような顔をして歩んでいくのか。それだけ。それは自分の心が決めることです。私たちは幸いにどう自分の心を神に向けるのかということに関して全くの自由を神からいただいている。

 残されている時間。この裁きの時まで一体どれだけの時間があるのか。キリストがいつ来られるのか。それは全くあずかり知らぬところです。ならば、今日のうちに準備すべきです。今日の内に、キリストの前に羊として行って、そこから出てくるあらゆる賜物を手にすべきです。圧倒的に大きな恵みなんですから。

 私にむかってくるキリストの思い。関心、キリストの目、愛。憐れみ。キリストが手を差し伸べてくださる。救いの神ですから、救いが大前提としてそこにあるということに常に立ち返れる。その安心感の中で、さらに与えられる心の平安。救いが大前提というなかで自分は行動を起こすことができ、あらゆるところに助けがあると信じることができる。この私にさえもこの憐れみ、導きが与えられたのだから、私も誰かに。というこの共感というか、神の憐れみの連鎖。実行せざる得なくなる。この連鎖の中に身を投じる。

 もう、キリストにすべてを知られて、熱情の神が、あなたを見つけてあなたに向かってお越しくださる。その神が、今日をお守りくださるのだから、恐れることはない。キリストは花婿として花嫁であるものを迎え入れてくださる。親密に。

 ヨハネ黙示録22章12節以下。キリストが再び来られる時のことを読みたいと思います。

 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである。

 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清めるものは幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝むもの、すべて偽りを好み、また行う者は都のそとにいる。

 命の木とは、エデンの園でかつて人が、神と共に憩い、その木から好きなだけとって食べていた。神のもとにかえるという権利。そのためには、自分の衣を洗い清めなければならない。洗い清められた白い衣とは、宗教改革者ルターとカルヴァンが伝えてこの教会の中心にあらためて置き直した信仰義認。信仰のみによって人は救われる。羊になって神の前にひざまづく、私たちの白さはそれしかない。それだけで主のまえに行きましょう。迎え入れてくださる方にひれ伏して。アーメン。