マタイによる福音書26章36〜46節 「祈られている」

 十字架、という死に向かわれる中、イエス様お一人だけが死への自覚を強くされておられました。弟子たちはそのイエス様の決然たる意思を汲み取ることができませんでした。ペトロという弟子は、「たとえ、みんながあなたにつまづいても、わたしは決してつまづきません」と言いましたが、それは言葉だけであって、実際はイエス様を三度知らないと言ってしまうのでした。

 キリストに従い得ない弟子たちを引き連れていたのが、キリスト。それは、はたから見ればなんという頼りない集団だということもできたでしょう。しかし、従い得ない弟子たちを集めていたということこそ、イエス様の愛の現れているとも言えます。弟子たちは裏切り、眠り、忠誠心は宿し始めてはいましたが、非常に不完全なもので、いつも敗北が待ち受けていた。イエス様への裏切りという形で、自分自身の本当の姿が顕にされていくのでした。

 イエス様は確かに一人ひとりに対して、おっしゃいました。パンを差し出しながら。26章26節。

 取って食べなさい。これはわたしの体である。皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のためにながされるわたしの血、契約の血である。

 弟子を集めて、天の先取りである食卓をご準備くださいました。イエス様は人の心をご覧になられる方でありましたので、食卓についている弟子たちのことを理解しておられたに違いありません。だから、弟子たちが、信じますと言った舌の根も渇かない内に、裏切るものであったことはご存知であったはずです。しかし、それでも、主の食卓に弟子を招くのです。

 皆さんどうですか、自分の食卓に招く人というのは、ある程度信頼できるという人ではないですか。まぁ、今は本当に気軽に食事を共にできる社会ですが。それでも、個人的な食卓に誰かを招くという時に、結構ハードルをもうけたりとかありうるんじゃないですか。あの人とは一緒に食事したくないとか。

 でも、私は教会に招かれてから15年になりますが、ご自分の自宅の食卓に次々といろんな人をお招きになる方を知っていますが。そういう人は、人を分け隔て全然しません。キリストに受けいられるということがどういうことなのか深く深く受け止めておられるに違いない。自分こそが本来キリストの食卓に相応しくない、信じると言ってその舌の根もかわかないうちに裏切るものである。しかし、それでも食卓にキリストが私をお導きくださる。その憐れみに触れているからこそ、人にも憐れみを示すというか、どんな人でも受け入れようと思えるのでしょう。憐れみを示せるかというところに、神の憐れみを受けているかということが如実に出てきてしまうんですね。

 目を覚ましていなさいとキリストは何度もおっしゃられますが。目を覚ましているということはこういうことです。キリストがどんな思いで私たちを迎え入れてくださったのか。そのことをいつも思い。実際に普段の行動にそのキリストの思いが出てきてしまうというか。

 イエス様の愛というのは、にもかかわらずという愛ですね。相手の不従順を知っていても、にもかかわらず愛する。この食卓についているものが裏切るとわかっていても、にもかかわらず愛する。裏切りさえも包み込んで、赦して受け入れて、一緒に食事をして、その人がいつの日か心を変えて、神のもとに純粋に帰ってきて歩みを共にする。そういう人にやがてなるのだという、あきらめない心をいつも抱いておられる方。

 26章35節の言葉。痛々しくて読むのがはばかれるところですが。ペトロの言葉、そして弟子全員の言葉ですが。

 たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。

 弟子たち全員が同じことを言った。しかし、全員が裏切った。それが実際です。そのことも分かりながら、イエス様は祈りの場へと向かわれました。

 ゲッセマネというのは、おそらくイエス様が静かに1人祈るときに良く訪れた場所であろうと言われています。ペトロとヤコブ、ヨハネを近くに伴われて祈りの場へと進んでいかれました。ペトロとヤコブとヨハネという人は、特別に選ばれた人です。この人達は後に大きな働きをします。ペトロはローマ教会の礎を築いた人、ヤコブははじめに殉教の死を遂げた人です。ヨハネはペトロと共に指導的な立場にありましたが、長生きをしてヨハネ福音書や、ヨハネ黙示録を記したのだと言われています。

 イエス様の近くに連れてこられた人は、大きな働きをしますが、大きな働きをすると同時に、イエス様が背負われていた苦しみを最も近くで共に味わうことになる。26章37節ですが。

 わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。

 キリストが血を流されたのは、犠牲の献げ物として捧げられるためです。と同時に、神から捨てられて、裁かれて、人間が罪の結果として負うべき滅びをご自分の身に背負うということです。天の父との断絶という時を味合わなければならない。天の父を全面的に信頼していればいるほどに、父から離されるということの痛みを強く、狂おしいほどに感じておられるわけですね。信頼が強ければ強いほどに、離される痛みが強い。

 人間は、罪に染まってしまっているところがあるので、神の守りから離されると感じても、はて何に困るんでしょう。と言ってのけるかもしれない。しかし、全面的に、すべてが神の力によって保たれていることを心から受け入れれば、そうでない状態。神の守りが無いという状態、神に捨てられてしまう。呪われたものとして、十字架につけられるということがどれだけ苦しいことか。それは全き信頼を神に抱いているイエス様にだけ分かることかもしれません。

 愛するもののためにどれだけ痛みを深く味わうことができるか。そこに愛がある。人類の救いのために痛みを引き受けられた。代わりに十字架にかけられて呪われたものの姿をとる。神から捨てられるということを引き受けられる。最も深き痛み。「死ぬほどに悲しい」とおっしゃられるほどに。何も恐れなかったイエス様が恐れをいだいているようにさえみえますね。26章39節。

 父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。

 この苦しみを取り除いてくださいと願っている。どんな嘲りや蔑みや不信や、暴力。そういったものを受けても心を騒がせることがなかったイエス様が。これだけはあまりにも苦しいので取り除いて欲しいと願うのです。神から離されてしまうということは、この世のどんな苦しみよりも深い苦しみ。絶対に人が通ってはならない苦しみ。魂の奥底にまで届く闇。まさに滅びと言うにふさわしい闇に落とされるということ。神との関係が途切れるということはそういうことであると。イエス様はこの苦しみの姿から私たちに教えてくださっている。この苦しみを取り除くためにこそ、御自身が背負われたわけです。

 十字架は愛する人間の手によって、自らを処刑の場に連れていかれてしまうという恐ろしい場所でもあります。人々に触れて、癒やし、人々に神とともにある喜び、まさに天の国を知らしめ、一緒に歩む道を与えようとされたのに。その愛する人間の手によって十字架に釘付けにされて、愛する人間の口から罵声を浴びて、愛する人間に蔑まれて、さらしものにされる。

 愛が中心にあるイエス様には耐え難きものです。神から断絶されて、人からも拒絶されて。とことんまで落とされる。それが十字架の瞬間。しかし、それでも愛するものを神の側に立ち返らせるのだという意思をイエス様は強烈に持っておられる。だから、どんなに弟子が裏切ったとしても心は変わらない。弟子のため、人類のために動き出される。

 イエス様はゲッセマネの園で神様に祈るために祈りの場へいかれます。が、同時にもどってこられて弟子たちのことをご覧になられます。神のところへ行かれる、と、同時にこちらがわへ戻ってくださる。三度同じことが繰り返されます。

 弟子たちは相変わらず三度も眠ったままでしたが、イエス様はそのことも気になされずに、三度、神のところへ行かれ祈り、三度弟子のところへ戻ってきてくださいました。三度というのは象徴的です。完全数と言われていて、この数が記される時は、なんどもなんどもという意味であったり、絶対的にという意味であったり。いろんな含みがそこにでてくるんですね。

 なんどもなんども神に祈りに向かってくださり、なんどもなんどもこちら側に帰ってきてくださる。そして、相変わらず弟子たちは三度も。。。徹底的に眠りこけていますが、それでも戻ってきてくださって。弟子たちがどうあろうがイエス様の決意は決して変わらない。45節を見ていただきますと。

 あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。

 三度眠りについた弟子たちに向かって、しかし、立て、行こうとおっしゃられる。時が近づいた。というのは神の御心が行われる時。十字架の時です。三度、すなわち徹底的に眠ってしまっている弟子をも見捨てず、「立て」とおっしゃられて、ご一緒に神の御心のために動き出そうとされる。それがイエス様なんですね。

 目を覚ましているということは、これまでも見てきました。10人のおとめのたとえ。タラントンのたとえ。目を覚ましているということはどういうことなのか記されていましたね。おとめは主人の帰りを待ってともしびをともして、油を絶やさないようにしている。すなわち、常に準備しているということが目を覚ましているということの内容でした。さらに、タラントンのたとえは、頂いたものをちゃんと運用していくということ。神が良い方であって、恐れる必要はない方であることを信じて、与えられたものを運用していくということ。

 またマタイ福音書には24章にはノアの箱舟のことも記されています。主人である神の御心を探り、知り、実行に移す。それが目を覚ましているということでした。

 神以外のものに脇目もふらずに実行していうるかどうか。ですね。本当に簡単に言ってしまえば。人を批判したりすることもまぁ、別に悪いことではないかもしれませんが。一番は、自分が目を覚ましているか。御心を実行しているかということなんですね。他人のことなんてあなたに神様は問われませんよ。あなたがどうであるかです。

 キリストが背負われた痛み。神に捨てられるという痛み。十字架での痛み。キリストは十字架で叫ばれました。

 わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。

 この痛みは死ぬほどの痛みなのです。死ぬほどに悲しいとイエス様がおっしゃられる通り。その痛みを人間がどうあれ、不信仰であれ、眠っているにしろ、私が背負うという覚悟をもって立ち上がったイエス様。

 その姿の意味がかつてはわからなかった、響かなかった。そういう人も多いかもしれない。しかし、もしもこのキリストの決然たる意思。人を愛する意思の眼差しを、十字架への道を、心の中に見るのであれば。そのキリストの力に押し出されていく。

 キリストが私を背負ってくださったのだから。私が背負うべき十字架は一体なんだろうかと思う。キリストが背負えと差し出してくださるものは。神の御心は。私が背負うべき痛みとはなんだろうか。目をさますことができるのではないでしょうか。聖霊の助けによって。

 世界中が痛みを覚え叫んでいる。父を失った痛み。愛を失った痛み。キリストを失った痛み。しかし、キリストは何度も弟子たちのところに帰ってきて下さる。三度どころじゃないんですよ。何度も何度も何度も。弟子たちのことが大切で、大切でたまらないんですね。帰ってきて下さる。眠っていても。

 眠っているなら起きよう。キリストの御心はなんだろうか、私に対する。そのことを思い、実行に移そう。キリストは何度でも起こしくださるのですから。アーメン。