マタイによる福音書26章47-56節 「必ず実現する意思」

 裏切り者のユダを前に、しっかりと向きあってくださっているイエス様。裏切りものですよ。しかし、最後の食事の席にもユダがいます。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」とイエス様はユダに言われます。イエス様の話のフォーカスは、ユダが幸いかどうか、なんですね。イエス様御自身が苦しいとかそういうことではない。裏切らなければならない状況に追い込まれたユダを憐れんでおられる。

 本日の聖書箇所にも。まさに裏切りの現場で、「友よ」と語りかけておられる。裏切りがわかっているのならば、せめて最後の晩餐ではユダを排除しても良いではないですか。とも思います。しかし、イエス様はユダをのけものにはしないんですね。最後まで「友よ」と呼ぶ姿勢は変わらないのです。

 人がどう自分に行動するかとか、どう忠実であるかとかいうことですぐに態度を変える、私たちのあり方とは全く違います。

 常にユダのことを追い求めている、救おうとしておられる。これがキリストであり。キリストに従う弟子がまた歩む道でしょう。

 今週も十戒を祈祷会で学びました。「姦淫するな」という戒めがありまして、姦淫というのは夫婦間の不倫の話ですが。これは、神と人との関係における言葉としてつかわれることもある。神へ一直線に目を向けて、他に目を向けないことを神は求めておられる。他に目を向けることを嫌っておられる。

 姦淫するなと神が人に命じるということは、まず神が決して二心になられない。人間から目をはなさない。一直線に向き合ってくださっている。だから、そうでない姦淫は夫婦の間でも、神との間でもやめよと常に命じられるのだと。

 それが十戒に記されているのだと。私たち人間一人一人を愛して、その眼差しは全くぶれないのだ。人間の側は不忠実であることが多いけれども、神は決して心がぶれない。いつもこちらを一直線にみていてくださる。ということを祈祷会で分かち合うことができました。

 例えユダが裏切ったとしても、ユダに対するイエス様の態度は変わりません。友と呼びつづけた。

 ユダが大祭司にイエス様を売り渡す時、1人の弟子が大祭司の手下に刃物を持って斬りかかりました。絶対的な不利の状況ですが、1人はイエス様がこの場をなんとかしてくださる。力を持って、この大祭司たちを押さえつけてくださる。そういうふうに思ったのでしょう。おそらくこの眼の前の人達を押さえつけることができると思って剣を抜いたのでしょう。

 しかし、イエス様が全く戦う気も何も無いと知ると、弟子たちはみんなイエス様を見捨てて逃げてしまいました。26章56節。

 このとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げてしまった。

 と書かれている通り。なぜ、剣を抜くほどに威勢の良かった弟子たちは逃げたのでしょうか。弟子たちは、力ある救い主、新しい支配者、イエス様が真っ向からユダヤ教の中枢部に向かって戦いを挑み、理論的にもそれを打ち負かし、また人を次々と癒やし、救い、立ち上がらせて来た。また最後の審判の話にまでイエス様の言葉は至り、この世の王を凌駕する神の力をもった方。救い主、神の子。その神の子に対する期待は、目に見える形で私たちを力あるものから救い出してくれるはずだというものでありました。

 大祭司が力を使って、イエス様を力でねじ伏せようとした時。イエス様は全く抵抗なされなかった。弟子たちは雄々しく戦って勝ってくださるだろうと思っていたはず。だから、勝てるはずだから剣をもって威勢よく斬りかかったのです。しかし、イエス様はその後全く無抵抗であられた。イエス様がおっしゃられたのは、26章52節。

 剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を送ってくださるであろう。

 実際にイエス様がおっしゃるようにイエス様を守るために、天使たちの軍勢が現れたら。。。弟子たちは逃げなかったでしょう。自分たちが信じた救い主は、救い主としてこの世の力にも勝つことができるとの実感を強くし、イエス様のそばにいることができたでしょう。

 しかし、彼らは全く失望したわけです。天の軍団と大きなことを言っているけれども、実際何の力もないではないかと。

 イエス様がこの状況は預言の書に書かれていることの実現とおっしゃられているのは、イザヤ書53章の「苦難の僕」の預言です。

 屠り場に引かれる小羊のように毛を刈る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。

 このことが実現し、犠牲の小羊としてイエス様が捧げられて罪の赦しが起こることが預言の成就なわけです。しかし、弟子たちはダビデ王のような政治力をもった人が、いやダビデどころではないもっと絶大なる力をもった人が、力によって君臨なされる。その様を夢見ていたかったのです。

 天使が私を守るだろうと言いながら、実際に何もできずにユダヤ教組織にも対抗できないようなそんなやわな人がメシアであるはずがない。この人は違う。そう判断したから、逃げたのでしょう。

 この後、イエス様が十字架にかけられていくとき。27章ですが。ユダだけがおそらく、自分がしてしまったことの罪を自覚していました。ユダを徹底的に悪者にする人も多いですが。私は、彼こそが最も深く自らの罪を自覚し告白した人であると思います。27章3節。

 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪をおかしました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

 と記されております。ということは、この段階ではユダが多くの弟子たちより先に、自分がしでかしてしまった罪に気付いていたということです。彼がどうしてそんな自分の罪に気付くことができたのでしょうか。それはイエス様のたった一言のそのお言葉以外に考えられません。「友よ」という言葉です。

 裏切りの接吻をした瞬間も「友よ」と呼んでくださった。友よという言葉を口にされた、イエス様の姿、眼差し、イエス様の思い。それらがユダの心を離さなかったのでしょう。あれだけ徹底的に、絶対的に変わらず私を大事にしてくださった。にもかかわらず、私はなんということをしてしまったのだろうか。こんな罪は決して赦されるはずはなかそう。絶対に赦されない。だから自分で結論を出す。この命をささげてお詫びする。

 この段階では、罪の赦しがそこにあることをユダは知ることはできなかった。

 「赦しがそこにある」これを信じることができるかできないか。それは決定的な違いです。赦しが無いのならば、自分で自分の落とし前をつけなければならないとなる。もう立ち上がれず、命をささげて自分で自分の決着をつけるということになりかねない。

 しかし、前提として、「もう赦しがある」ということを受け入れている人は、何があったとしても何度でも、何十回でも、何百回でも立ち上がることができます。「もう赦しがある」のだから。

 失敗は失敗でなくなる。裏切りも裏切りでなくなる。赦しを知った弟子たちは裏切りましたが、立ち返ることができました。

 裏切った弟子たちは、自分の命さえおしまずイエス様のために捧げる恐ろしいほどに力強い使徒となりました。裏切りは裏切りでなくなります。「すでに赦しがある」からです。

 罪の赦しというこの深い赦し。最後の最後で私たちに安全を提供してくれるネットのような。ネットと言ってしまえば有機物で味気ないですが、絶対的に命の保障を与えるこの救いというもの。赦し。これがあれば地獄の底の底にズドーンと落ちて、もう誰も救えないというようなどす黒い現実の中に例え落ちたとしても、もう一度立ち上がることができる。

 刑務所で教誨師をしている先生方から私はこの力を感じますね。あの方々にだけ語れるキリストの赦し。もう、再起不能と周りが判断し、死刑に処せられるしかない。そう判断されたとしても、その人が赦しを受け入れるのならば、その人は底の底で命を受け取るのです。

 宗教改革者のルターは次のように言いました。

 大胆に罪を犯せ、しかし大胆に悔い改めよ、そして大胆に祈れ。

 神以外何も恐れなかったルター。王侯貴族の力。軍事力。言論の力。ルターは何も恐れず、自分が何かをしでかしてしまうのではないかというような恐れも一切持っていなかった。神だけを恐れた。そこで大胆に悔い改め、大胆に祈って神に近づく。

 もちろん、神様がお嫌いなことを率先してしろということではないと思います。時として、私たちは判断を迷ったり、どうしていいのかわからなくなって意識しないで罪を犯すということがありうる。

 そういうことを恐れてしまっていたら、何もできない。もしも、自分がこれをしたら誰かに迷惑をかけたり、失敗して大変なことになるんじゃないか。そういうことも恐れていたらきりがない。自分がどこで罪を犯すかということは分からない。だから、そんなことを恐れていないで、大胆に罪を犯せとルターは言うわけですね。それは底の底で私たちを救い上げてくださる、罪の赦しという恐ろしく懐の深いネットが張り巡らされているから。だから、大胆に罪を犯せと大胆にルターは言い切るわけです。

 52節の言葉を最後にご一緒に聞きたいと思います。

 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」

 この言葉があるからといって、警察や自衛隊がすぐになくなれば良い。軍事力が行使されないために、軍事力をなくせという話には私はなれません。やはり、秩序を守るためにある程度の力は現段階では必要だと言うしかない。しかし、剣では物事は決して、いや歴史的にみて絶対に解決に至るわけではないということは心に刻むべきでしょう。

 イエス様が軍事的な力をもってこの時イエス様を十字架にかけようとしていた最高法院を打ち負かしたというようなことが起こったとして。果たしてどれだけの人が神への真の信仰、信頼へ帰っていったことでしょうか。おそらくそんな力による勝利があっても人々は悔い改めて神に立ち返ることは無かったのではないか。

 人が本当に立ち返って幸いを得て救われる時というのは、力によって勝利するということではなくて、自らが神に対して犯してきてしまったことの重大さに気づいた時です。すなわち、どれだけ神のご恩を忘れて、愛に対して愛で応えてこなかったかということに気づいたその時に自ら神に帰っていくことができる。自らの不義理を認めることができた時こそ、強く強く、愛の偉大さに気付くのです。

 ちょうど、親不孝をしていたことに気づいた時に、親に愛されてきた幸せ者であったことに気付くように。

 十字架という神の御業のクライマックス、愛のクライマックスに近づくにつれて、弟子たちの赤裸々な、恥ずかしい姿がつぎつぎと描かれていきます。しかし、弟子たちは自分達のこの恥ずかしい姿の、このところにこそ、決して変わらずに愛し続けてくださったイエス様の姿を見出したのですね。

 絶対に救うという意思、御言葉が成就するため、犠牲の小羊として自分がささげられるため、すべてを耐え忍び、静かに歩みを進め、静かに一人一人を大事に思ってくださるその愛を見出したのです。

 大事な一人一人のために、誰も理解してくれなくても。弟子こそが真っ先に裏切る。こんな悲しいことがあろうが、関係なく救う。愛することをやめないイエス様の姿。そのおそろるべき愛の力を見出した。自分たちの恥ずかしい姿の、そのところにイエス様の愛を鮮明に見出していった。

 目の前の人間や環境が怖くなって、神がそばにいるのに逃げ出す人間。イエス様の時もそうでしたが、その1500年前のイスラエルの民が約束の地に入る時も同じことをしてしまっていましたよね。しかし、その背後に救いの計画はあった。それは失われません。

 救いの計画はある。恐れるものは神以外の他にあるのだろうか。皆様は救いの計画の中にある。何を恐れる必要があろうか。アーメン。