マタイによる福音書26:69〜75節 「赦されている」

 ユダによって裏切られ。最初からイエス様を有罪と決めている、処刑すると決めている集団のもとに、連れて行かれてしまいます。その光景は預言が成就していく光景でした。

イザヤ書53章7節。

 苦役を課せられたて、かがみ込み

 彼は口を開かなかった。

 屠り場に引かれる小羊のように

 毛を刈るものの前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。 

 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。

 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか

 わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり

 命ある者の地から絶たれたことを。

 大祭司カイアファという人の屋敷につれて行かれてイエス様は裁判の席に立たされました。不利な証言を次々に集め、証言といっても偽証というしか無いものを集め何とか死刑にしようとします。といっても、イエス様は善なる良い業ばかりをされておられたので、なかなか死刑に値するような罪は見いだせなかった。そこでイエス様ご本に話させ、その言葉尻を捕らえて死刑に処すことを考え始めました。

 このカイアファという人の屋敷には沢山の人が入ることができました。イエス様が捕まえられる時に逃げ出した弟子も、特にペトロがこのカイアファの邸宅にいました。イエス様の安否を気遣う思いをもってそこにいたのでしょう。イエス様の仲間であったなどと知れ渡ったら命が危ないので、そういう命の危険をも犯しながらイエス様がどうなってしまうのか、そのことが不安で見に来てしまったのでしょう。でも、ペトロには何もできなかった。傍観者としてそこにたたずむしかありませんでした。声も上げることもできない。近くでキリストが皆の悪意にさらされて追い詰められているのに、何もすることができない。無力の極みです。

 皆が「殺せ、殺せ」というような憎悪の思いを心に抱き、イエス様にその刃を向けようとしていた。イエス様お一人が冷静で、感情に流されるようなことは全く無く。憎悪に対して憎悪で報いるようなことは決してしないで。むしろその憎悪の炎など全く意に介さないかのように、1人静かに裁判の席に立っておられた。そして言うべきことをおっしゃられた。マタイ福音書26章64節。

 あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。

 このイエス様の言葉によって裁判が決しました。神を冒涜したという証拠を裁判に就くものたちは得たわけです。自分が神のようである。神の右に座する。自分を神として扱った。人間が神になどなるはずがない。人間が神であるということほど明確な偶像崇拝はない。神を冒涜した。絶対に言ってはならないことを言ってしまった。そう大祭司は思った。これでイエスを心おきなく有罪にし、刑罰を処することができると。26章67節。堰をきったかのように、人々の悪意がイエス様にむかっていきます。

 イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。

 なぶりものにされているイエス様のすぐ近くでただ傍観しているしかなかった弟子。ペトロ。

 イエス様の近くでイエス様が傷んでおられるのに、何もできない。この姿は私の姿と重なる気が致します。この世で、キリストは人の傍らにおられる。とりわけ貧しき者、困窮のただ中にあるものたちの傍らにおられる。キリストはその人々の苦しみを背負われて、その苦しみに寄り添うために、その場所に御自身を置いておられる。しかし苦しみのただ中にある者を知りながら、その人に手を差し出して助けを送ること、それさえ出来ていない。キリストはあの方の苦しみをご自分の苦しみとしておられ、あそこにキリストがおられるのに、それを傍観している自分がいる。

 しかし、それに気付いても行動に移せない自分がさらにいる。十字架に向かうイエス様の周りにいる弟子たちの姿は私の姿です。キリストがおられるのに、無視している私の姿。怖くて、小さくなって、いつ自分が被害を受けるのではないかということを恐れて、ブルブル震えている。本当は神のみを恐れれば良いのに。他の何も恐れるものは無いのに。神がすべてはじめから終わりまで導いておられるのに。イエス様に導かれてここにいるのだから。

 ペトロは傍観しながら、もう立っていることができずに、中庭で座り込んでいました。すると、そこに1人の女中が現れて言った。何もできない。どうしたらいいんだと、下を向いているしかない。ペトロにとってはできれば現れてほしくない人がそこに現れる。1人の女中が来る。彼女はペトロにとっては最も近寄ってほしくない人だったでしょう。彼女はペトロに向かって。

 「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」

 といいました。しかし、ペトロは自分を守るために、イエス様との関係は無かったときっぱりと言い切ってしまいます。70節。

 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているか、わたしには分からない」と言った。

 イエス様はかつてこういうことをおっしゃいました。マタイ10章33節。

 だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。

 この言葉に応えるように、ペトロはこう言いました。マタイ26章35節。

 たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。

 あれだけ燃えて、イエス様についていくと言っていたペトロ。人の心が燃えているかどうかというのは甚だ信用なりません。すぐにその炎は消えます。しかし、こんなことも全部イエス様にとっては折り込み済みのこと。分かっておられたこと。最後の晩餐でイエス様はペトロにおっしゃった。26章34節。

 はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしのことを知らないと言うであろう。

 まるで小学生が命かけて誓うよ!って言ってそれをすぐ破るような。大のオトナが、しかも忠実そうに見えたキリストの弟子が。使徒と呼ばれている人が。こんな失態を晒すなんて。

 しかし、イエス様はそういうペトロをこそを大切にされておられるんです。そういう不甲斐ないペトロにこそ、天の国の鍵を託されました。マタイ福音書16章18節。

 あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

 すでに赦しがある。キリストのまなざしがある。キリストが迎え入れてくださるという前提がある。その時、裏切りは裏切りで終わらない。恥ずかしさは単なる恥ずかしさで終わらない。不信仰は単なる不信仰で終わらない。すでにある赦し。キリストの十字架を受け入れると。人間の恥ずかしさが露呈する場面。不信仰が露呈する場面。何の言い訳もできない時。

 その時が、神の憐れみがそこに満ちる時となる、神の思いがそこに満ちた時となる。赦しの偉大さが人間の弱さを通してさらに鮮明に映し出されることになる。恥ずかしいことの背後に、恐ろしいほどまでの力をもって、絶対的に人を受け入れようとされている神の思いが際立ってくる。

 こんなペトロをも後の教会の礎、ローマ教会の要石。私たちの現代の教会までこのペトロがいなかったら続いていない。このペトロの恥が露呈されるこのところから、神の恵みが赦しが溢れでている。このペトロに自分自身を見る人。このペトロこそ私だと思う人。ペトロは怖くなって、誓って知らないとまで言ってしまった。さらに、怖くなって、呪って知らないとまで。呪うというのは自分が言っていることがいかに確かなことであるかを人にアピールする方法のようです。絶対にイエス様など知らないと言ってしまった。三度にわたって。

 このペトロの恥ずかしさに皆が共感し、ペトロのように自分もキリストを裏切るものであり、もしも、力をもって迫られたらその時はペトロのように「知らない、知らない、知らない」と言ってしまうのかもしれない。そんな心もとない自分の信仰しかない。まさにキリストがおっしゃられたカラシ種のような吹いたら飛んでしまうようなものしか無い。しかし、そのようなものを迎え入れて教会を建て上げるためにお使い下さる。それがキリストなのだ。そうペトロの姿を見ていると受け止めるしか無い。

 こんな不甲斐ないこの私から一体教会がどうやって出来上がっていくのだろうか。何度キリストに心の内に語りかけられ、目を覚ませと言われ、キリストからこう生きよという道が示されているのに。それに従い得ない自分。社会にでても、キリストがあそこに、あのひとを助けようとされていると薄々気づきながらも素通りしてしまった自分。まさにキリストがおられるところを知らない、知らない、知らないと言ってしまった自分。こんな自分によって教会が、誰かが集まる。誰かが神と出会う。そんなことおこがましくて考えられない。

 そう思ったとしても、いやしかし、そういうあなただからこそ。そういうダメな部分が多々あるからこそ、そこから神の憐れみが溢れだす。欠けから神の憐れみがあふれだす。

 私はペトロが泣き崩れるその姿から、キリストの光が溢れだしているのを見ます。泣いているその後ろに絶対的なキリストの赦しが、十字架が輝いているのを見ます。イエス様がこれでもこのペトロをも受け入れてくださっている姿を見ます。鮮明にその美しさ、絶対に揺るがない、神のペトロへの思い。

 何があっても揺らぐことはない光。彼を教会の礎とすることをキリストはお決めになられた。ペトロが何度知らないといおうが、キリストは絶対にペトロをあきらめない。ペトロから救われる人がつぎつぎと出てくること。神の国がどんどん広がっていくこと。彼の涙に一緒に涙して、、、神を見いだす人が次々と現れてくることをキリストは見ておられた。

 ペトロを通して、ペトロのこの不信仰から、私たちの不信仰をさえもキリストはご覧くださる。キリストを知らないと言った事。行動した事。それらをすべて赦しているよとの思いが伝わってくる。そして、私たちによって誰かにこの十字架の福音を。神に受けいれられているという驚くべき喜びを。肉が滅びようとも、この世が滅びようとも、キリストの僕として歩むこの幸いを。

 ローマ教会の中心的人物となったペトロですが。伝承によると、ローマ教会で迫害が激化した時、ペトロは命からがら逃げ出した時があったとのことです。しかし、そのローマから離れ逃げる道の途上で、ローマに向かうイエス様の姿を彼は見たと言います。ペトロが向こうから来られるイエス様に「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエス様は「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えたと言います。ペトロはそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻りました。

 この話でもやっぱり、ペトロは逃げるんですね。主の御心があっても。三度知らないと言ったということ。これは繰り返されるんですね。悲しいですが。ペトロは大事なときに、主を知らない。主の御心は知らないという行動をとってしまう。ローマのリーダーとなってもやっぱり、キリストの道に従いえない部分が残っていた。しかし、イエス様は変わらず、このペトロに伴走するといいましょうか。ご一緒してくださるんですね。ペトロよ一緒に来なさいと。

 イエス様のご愛は変わらない。徹底的に変わらない。赦して、赦して、赦して。ご自分を捧げ尽くして、捧げ尽くして、捧げ尽くして、信じるものと一緒におられる。なんという安心感なのでしょうか。あのペトロのとなりにおられた方が私たちの主ですよ。この愛に応えたいです。アーメン。