マタイによる福音書27章15〜26節 「無言で耐える主」

 私は長年、少し疑問に思う祈りというものがありました。それは「イエス様を十字架に掛けたのは私でした。」という祈りです。確かに言いたいことは分かるのです。神に対する私の罪の身代わりとして御子が捧げられたのだということ。そのことは受け入れることができます。

 しかし、自分があの十字架にむごたらしい仕方で、イエス様をむち打ち、イエス様を無理やり立たせ、イエス様につばきを吐きかけて、侮辱し、イエス様の手に釘を打ち、イエス様の足に釘を打ち、イエス様を殺す。そこまでのことはしたくないし、したことはないと思っていました。

 しかし、この「イエス様を十字架に掛けたのは私でした。」という祈りをする人は、まさに直接イエス様を暴行したのは私ですと言わんばかりの祈りをしていたのです。

 この祈りの言葉は、今も私に問いかけをもって迫ってきます。「あなたは一体どこに立っているのか」十字架にイエス様が掛けられた時。あなたがその場にいたとするのならば、あなたはどのように振る舞ったであろうか。この祈りは私にいまも問いかけてきます。

 本日の聖書をご一緒に読むにあたって、一体自分はどこにたっているのかを一つの問いとして心に抱きながら読んでいただければと思います。

 まず、登場人物の確認をしておきましょう。ユダヤを当時統治していたローマの裁判です。〆枷修砲けられている被告人のイエス・キリスト。∈枷修寮覆縫ぅ┘考佑鯱△譴討た最高法院の議員達。祭司長、律法学者、長老、群衆。ローマの地方総督ポンテオ・ピラト。また、ピラトの妻。ぅリストの代わりに釈放されるバラバ。

 大きく分けてこの四者の登場人物に分けることができます。まずイエス様はどうされておられたのかを見ていきたい。

 イエス様は、ローマ総督の裁判の席につく前に、最高法院で裁判を受けて、有罪とされ死刑に値する罪を犯したと断定されて、唾を吐きかけられて、こぶしでなぐられ、平手打ちをされ(侮辱の意味がある)。さらに、自分がメシアであるのならば、目をつぶって平手打ちを受けて、それが誰であるのか当ててみろというような、最大級の侮辱を受けて。さらに、一番弟子のペトロによって「知らない、知らない、知らない」と三度裏切りの言葉を受けて、心も体もボロボロの中このローマ総督の裁判の席につけられました。そこで一言、ピラトがイエス様に問いました。マタイ27章11節。

 「お前がユダヤ人の王なのか」

 するとイエス様は。

 「それは、あなたが言っていることです」

 という意味深な答えをなされて。あとは沈黙を守られるのみであられました。一切この後に言葉を発しておられません。このローマ総督の前で結審してしまったら。すべての刑が確定してしまうということを意味しました。だから、多くの被告人はここで弁明を重ねて、自分の潔白を必死で述べるはずなのです。しかし、イエス様は一言の弁明もせずに黙っておられたのでした。

 民が殺せ殺せと叫ぶその中、ここで黒だと判断されてしまったら、もう立つ瀬が無い。何とかしてこの逆境をはねのけるためにはどうしたらよいのか、普通人間がこの場に立たせられたらそう考える。

 「こうだ」「お前は有罪だ」と判断されてしまっていたら、それを覆すのって相当難しいですし。黙っていたらもう、原告が言っていることが事実であるととられてしまう方向に話が進んでしまうのではないかと思ってしまいます。

 「私がもしこの場に立たせられていたら。」と考えてみてください。もう、諦らめの境地というか、すべてを諦らめてすっきりした表情になっているということがもしかしたら可能であったかもしれない。それとも、わめきちらして自分の無実を死ぬまで訴えるということもしたかもしれません。しかし、イエス様はそうはなされませんでした。見ているものが違うのです。自分の無実などを求めているわけじゃない。神の救いを見ている。人を救う業を見ている。

 もうイエス様はゲッセマネの園で徹底的にお祈りをなされた時から、その時に天の父のご意向が絶対に揺らがず、ご自分が人類の罪のための、犠牲の小羊として捧げられることを受け入れられていました。その時から、ずっと民を愛するため、民の救いのため、すべての人を天の父と結びつけるため。あらゆるとらわれから人々が解き放たれて心晴れやかに神に祈ることができるようになるため。今、私たちが信仰生活で得られるものすべてのため、私たちの命を神が獲得してくださるため。神の側に私たちが移されるため。そのために覚悟して、徹底的に自分が立つべき場所にお立ちになられていたのです。誰がなんといおうと十字架への道のりがご自分に定められた道。

 心は、人を愛する思いが勝っていたに違いありません。目の前で殺せ殺せと叫んでいる人間たちのためでもあったのですから。

 バラバがここに出てきます。彼の幸いも願われたに違いありません。ピラトがここにおります。異邦人であったピラトがここに居合わせたということは大きなことです。神の救いの御手が異邦人にも、のばされていく。どんな人にものばされていく。神様とかかわりなきといえる人がやがていなくなるほどに。神の手は伸ばされていく。その一人として神がかかわってくださる一人としてピラトがここにいる。ピラトの事を呪うような気持ちはイエス様には無かったのではないか。

 ピラトの立場に自分がいたらどうでしょうか。ローマの総督としての立場を持ちながら、統治するユダヤ地域を平和裏に治めなければならない。暴動などもっての他。ローマの統治力を示さねばならない。過越の祭りの時には、ローマがユダヤに憐れみを垂れるという意味を込めて、犯罪人を一人恩赦する。犯罪人を無罪放免野に放つことをしていたのです。ここに出てきますバラバという人は有名人だったのです。熱心党であったと言われています。熱心党というのは、ローマの統治ではなくてユダヤの統治に、ダビデ王朝のような王国を再び再建するのだという意識に燃えている人です。この人達は度々ローマに戦いを挑んでいたようです。

 ある意味、ユダヤ教の一部の熱狂的な人達からは指示を受けるような、ローマ側からすれば逆賊の犯罪者ですが、ユダヤ主義者からすればヒーローのような人です。このような人を野に放つのはローマ帝国からすれば大きな損失になる。しかし、ユダヤ人に対しては寛容な姿勢を持っているということを示せる。ローマの懐の深さを示せる。ということで。恩赦を行っていた。

 ピラト自身はイエス様に判決を直接下したというわけではありません。妻の言葉に彼は心動かされていました。

 「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」

 というように、妻の「この人は正しい人」という言葉にピラトは心が傾きつつあった。不利な証言をつぎつぎとなされているのにもかかわらず黙り込んでいる、この不思議な人物。どう見ても犯罪を先導したり犯すような人には見えなかった。だから、あえてこの恩赦という習慣を利用して、無罪に見えるイエスが解き放たれることを願った。

 もしも、ここまで迷うのであれば、この裁判で少なくとも死刑という判決はくださない、という権限はピラトにあったはずです。圧倒的多数のユダヤの民でしたが、ピラトには軍がついておりました。ピラトの判断を理解してくれる人もいたはずです。正しいことを正しいとした。正しくないことを正しくないと判断した賢明な総督として、支持してくれる人。しかし、彼は群衆の声を恐れた。

 この恐れに取り憑かれてしまった。このまま暴動に発展したら、ローマから何を言われるか分からない。自分の総督として統治能力を疑われて、この地位が剥奪されてしまうかもしれない。ならば、1人の小さな命を犠牲にしてもかわまない。自分の総督としての立場が守られることを通した方がよい。民もそう言っている。すべての責任は私にはない。民にこそ、この責任がある。民の判断に従えば、自分はこの地位を守ることができるし。民衆の指示も獲得できるだろう。27章24節をご覧ください。彼がイエス様が無実であると考えていたという決定的な文章があります。

 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」

 彼は目の前の無抵抗の力のない1人の人の命を犠牲にして、自分を守ったんですね。圧倒的なローマの力を持っていた人が、無力の人を犠牲にしてしまった。それが彼の結論。

 私たちはピラトのように力があるというわけではありません。しかし、ピラトのように自分を守ろうと考えるところは大いにあるのではないでしょうか。自分の心の中にあることを曲げても大衆に迎合して、自分は本当は正しくないと思っていることに対しても周りの人がそうだというのならば。

 目の前にイエス様のように力なくうなだれる人がいたとして、もしその人と自分が関わってしまったら自分が大変な目にあうんじゃないかと思う。目の前でうなだれる人を見なかったように見過ごす。その人の人生は自分とは関係ない。こういう風になってしまったのは私じゃなくて誰か他の人の責任だ。

 しかし、私たちの神は誰一人例外なくすべての人を愛する神。その神がおられると信じるのであれば、愛の神はその人をも愛していたはず。キリストはもしかしたら、私の目の前にいる誰かの傍らに一緒に苦しんでおられたのではないか。先週ご一緒に振り返りました使徒ペトロの話。復活のイエス様は迫害を受けているローマの信徒のために帰るとおっしゃられていたけれども、自分はそれを見過ごしにして逃げようとしていた使徒ペトロ。しかし、彼はローマで迫害を受けている1人の中にイエス様を見出して帰ることを決意するのでした。殺されることさえ覚悟で。

 1人圧倒的な逆境に立たされて、どうにも立っていくことができない状況の中で苦しんでいる。そういう人の姿、イエス様のお姿。その姿は私たちの社会の中でも見ることができる。そのような人達がいることを知りながらも、私の問題ではない。お前たちの問題だと言って、なんとか切り抜けて自分の安全を確保しようとする。ポンテオ・ピラトの姿は、自分の姿かもしれない。しかし、そのもののためにも十字架を背負おうとされるイエス様。

 最高法院の議員達とその論調に同調して、とにかく何がなんでもイエス様を処刑するという方向に物事を持って行こうとする人。人間の一つの思考パタンの典型として、理想を何か設定してそれに持っていくために現実を犠牲にしていくというものがあります。こっちに持って行きたいから全部こっちに向かうように物事をあつめて拾ってくるというものです。

 誰かに対して簡単に価値判断をする時、たとえばあの人はどうだこうだとかいう噂話をしているような時。多くの場合、この人をこういうふうに見たいという先入観、頭の中で作り上げているもがある。人をそんなに簡単に人が判断できるはずはありません。というよりも、神以外誰が人を判断することなどできるのでしょうか。

 最高法院は、祭司長や律法学者、長老は、イエス様が気に食わなかったのです。彼らを批判したからです。何の権威もユダヤ教組織からあたえられていないのに、やたらと人を引きつけて信奉者を次々と生み出している。最終的には、自分がまるで神と等しいものであるかのような発言をした。もうイエス様こそが彼らにとっては許せない、野放しにできないもの、という先入観を造り、それを人々に伝えたのです。

 隣人に対して偽証してはならない。という十戒の言葉を祈祷会で読んでいます。隣人に関して本人のいない場所での噂話はすべて偽証にあたる。そんなことをまた十戒を通して確認させていただきました。イエス様は、マタイ25章40節でこのようにおっしゃられていました。

 はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の1人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。

 良いことも、悪しきことも、隣人に対してしたことは天の父、イエス様に対してしたことになる。本日出てきました群衆のように、イエス様のことを悪人だと仕立て上げるような発言はしたことが無かったとしても。。。

 誰かの噂話をして、しかもそれが本人の名誉を傷つけるようなものであったり、マイナスなことであったりして。とにかく誰かを悪者にするために発言を繰り返していたことはないか。あなたが悪者にしようとしたその人がイエス様ご本人。殺せとまでは叫ばなかったかもしれない。しかし、悪意をぶつけたのはその人に対してというより、イエス様に対してです。

 ときはなたれたバラバ。自分が何故救われたのか、良く理解できません。ただただ、慣習として伝えられているものに従っていつの間にか自分が解き放たれて救われたのです。イエス様の愛も、イエス様の絶対に揺るがないその眼差しも、イエス様の沈黙も。なぜなのか、彼には理解できなかったでしょう。しかし、既に彼はイエス様が身代わりになられることで救われてしまっていたのです。そして、救われてしまってから。そこから彼は自分が何故赦されたのか。そのことの意味をすこしずつすこしずつ噛みしめていったに違いありません。ことあるごとに、キリストが鉤爪と骨のムチで叩かれて、茨の冠をかぶせられて、釘打たれた、自分のかわりに十字架につけられている姿を思い出したに違いありません。ことある事に、どうして静かにこの身に負うべきものがキリストにうつってしまっていたのかを考えたに違いありません。処刑しろ処刑しろと叫ぶ群衆の中、1人イエス様がじっと見つめていたものは何だったのか考えたに違いありません。天の父を見ながら、天の父が救おうとされている1人1人のために、静かにすべてを背負う決意をされているイエス様の姿を見たに違いありません。

 バラバのように、救われてまだまだ神の愛が分かっていないかもしれないけれども、自分がどこにいくのか知らないけれども。使命の大きさも分からないけれども。でももう既に救われてしまっているというその中で、生きることができる。

 ピラトの中に自分を見いだす。最高法院の議員達の中に自分を見いだす。バラバの中に自分を見いだす。この罪人たちの中に自分を見出したものは幸いです。イエス様はそのすべての人のために十字架を静かに耐えて救いを達成してくださいました。

 信頼の祈りを捧げ続けて生きて行きたいと思います。アーメン。