マタイによる福音書28章1〜10節 「おはよう。恐れるな。」

 イエス様は十字架にかけられて、死に、確かに葬られました。なぜ死なれたのか。それは私たちの罪のため。神に犯してきた罪の結果、人類の代わりにイエス様が十字架にかけられた。ボロボロになったイエス様のお姿をこの受難節の間、ご一緒に心の内に見てきました。皮膚は裂け、肋骨が見え、辱められて、みせしめに、十字架刑にかけられた。イエス様にとってなによりもお辛かったことは、この瞬間「神に捨てられた」ということでした。神に捨てられるということの重さは、すべてが真っ暗になるという言葉で表現されます。十字架にかけられている間、あたりは真っ暗になったと聖書には記述されています。太陽が見えなくなった。その暗さもありますが、それ以上に神に捨てられているという暗さです。希望がすべてついえた。ということを意味するのです。

 しかし、イエス様は最後の瞬間まで御自分の意識をしっかり保たれて、十字架上で言葉を残されました。

 昨日もご一緒に味わいました。ローマの兵隊たちに対して。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」信仰を告白した強盗に対して。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」子供を十字架刑で失う、イエス様の母マリアに対して。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」その横にいたマリアとは血のつながりのないヨセフに対して。「見なさい。あなたの母です」とおっしゃられた。

 神から見捨てられ。人が背負うべき罪の負債をすべて負われて。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」恐るべき苦しみの中で。「渇く」とおっしゃられ。しかし、この十字架によってすべてが「成し遂げられた」それゆえ、最後にはすべてを天の父に委ねられて。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」とおっしゃられて確かに死なれました。

 イエス様の遺体を引き取りに1人の男が現れます。マタイによる福音書27章57節。

 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。

 アリマタヤのヨセフという人は、ユダヤの最高法院の議員でした。彼は金持ちであったと記されていますのは、彼は現代の日本で言えば国会議員のような立場であったからです。その彼がイエス様の遺体を引き取りに来ます。

 ちょっとまってくれよ。イエス様を有罪と認めたあの最高法院の議員の中にイエス様を支持するものがいたのか。あの時の裁判でなぜイエス様を支持する人は反対しなかったんだ。そういう疑問が湧いてきます。

 最高法院は70人の議員と、1人の議長によって構成されています。議長は大祭司です。この中の1人でありましたけれども、イエス様の裁判の時には、このアリマタヤのヨセフという人は呼ばれなかったんですね。なぜかといえば、イエス様を有罪にして殺すということを最高法院は内々に先に決めていたので、イエス様を支持する人を呼んでいたら面倒くさくなるから、呼ばなかったのです。だから、アリマタヤのヨセフは自分は最高法院の議員でありながらも、自分のあずかり知らぬ所でことが進んでしまった。煮えくりかえるような思いを抱えていたに違いないと思います。しかし、もうあとのまつりです。イエス様が死んでしまったらもう何もなすすべなし。

 アリマタヤのヨセフの言葉は残されていませんが、残されていないことによって、そこに彼の絶望、悲しみが表現されていると言っても良いと思います。死すればイエスに関わる出来事の全てが終わる。イエスの死は終わりを意味していた。

 静かに、彼は遺体を引き取りに来た。自分がイエス様の弟子であるということがおおっぴらになってしまったら彼にとっては不利ですが、しかし、イエス様のご遺体を放置しておくことができずに、それを引き取ると名乗り出たのですね。

 アリマタヤのヨセフは、金持ちで余裕がありましたので、将来自分が入るべき墓は立派でした。自分が入るべき墓にイエス様の遺体を横たえます。亜麻布でくるんで、遺体を綺麗にして、そして、墓の入口に大きな石をころがして蓋をしておきました。

 そこには、マグラダラのマリアともう一人のマリアがおりました。彼女たちは安息日があけたら、イエス様のご遺体を丁寧に香料と香油を塗ってせめてもの葬りをしようと考えていたのです。安息日に、土曜日にすでに入りつつありましたので、ユダヤ社会では日没からが次の日ですから。タイムリミットが迫っていた。もう遺体の処理をするということさえできませんでした。遺体の処理は労働にあたるから、安息日にはしてはならないことです。

 イエス様が十字架で亡くなられたことで、弟子たちの人生、これからの展望、すべてが吹き飛んだ。イエス様がおっしゃられたことも何もかも吹き飛んだと思います。記憶の彼方にいってしまったと思います。イエス様は「復活する。」ということを事前におっしゃられていましたが、そのことも弟子たちはどこかに吹っ飛んでしまっていた。

 しかし、敵である祭司長やファリサイ派の人々はイエス様の言ったことを覚えていたんですね。弟子たちがイエスの墓を荒らすかもしれないから、兵隊を出動させて墓を守らせてくれとピラトに要求するわけです。ピラトは、その要求に応えて番兵を出します。番兵達は、横穴式の墓に横たえてある蓋にあたる石にロープをはって、封印をしました。誰もはらないようにです。ローマの兵隊が上から命じられ封印をした。ローマのマークを刻んだ。蝋や粘土でローマのマークを徴しシーリングする。それを破るものは、死刑に処せられました。そのシーリングが破られたら、その墓の番をしていた兵隊も死刑になりますし、それを破ったものも死刑になるという決まりでした。だから、絶対に破られることはないはず。なぜなら、それを破った人間がどうなるか。考えると破れないものであったのです。

 しかし、驚くべきことに28章1節。

 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。

 墓が開き、マリアともう一人のマリア、番兵がここにいるわけです。しかし、彼らはここにいたらまずい。なぜなら、先ほどもいいましたが、ローマが封印した墓です。そこに居合わせた人は、命の保障が無い。正当な理由がなければ処刑されてしまうことでしょう。4節に。

 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

 というのも仕方がありません。あってはならないことが次々と起こっている。主の御使が現れて、その御使は顔はいなずまのように輝いて、衣が真っ白で雪のようでありました。神々しい、人間が触れることができない、不思議なしかし美しい光景が目の前で展開していっている。そして、石がゴロンとどかしてあった。直径二メートルぐらいはあった岩で厚みは30センチぐらいある。一トンぐらいあるでしょうか。それがゴロンとどけてある。信じられない。天使は言います。5節。

 恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

 神の驚くべき御業が起こった時に、人間は恐ろしくなる。いったいこれからどうなるんだろうか。想像もできない未来が待っている。人が主導権をもつのではなくて、神が主導権をもって物事を進めて行かれる。恐ろしくなります。しかし、恐れる必要はない。神の業なのですから。

 天使という存在は面白いですね。ここである意味で、皮肉のようなことを言っているとも言えますよ。

 かねて言われていたとおり、

 何度もイエス様はあなた方におっしゃられていましたよね。もしも私が天使だったら、ここを強調してしまうかもしれない。言っていたじゃないですか!?(笑)って。忘れてしまっていても、でも、大丈夫神が覚えておられて、神がその業を進めて行かれるのです。

 牧師として、前に進むのが、牧師としての歩みが怖くなってしまうような時ありますよ。これからどうなるんだろうって。しかし、「かねて言われていたとおり!」

 もうこの言葉は自分的には永久保存の言葉ですよ。かねて言われていたとおり。いつもあなたがたと共にいると言っておいたですよね!ってイエス様に怒られそうです。

 でも、天使とか神様、イエス様にこういう皮肉を言われる人ってとっても幸せですよ。あなたに言っておいたじゃないですか。なんでそれを心から信じないんですか。でも、あなたを助けます。

 天使は告げます。「復活なさったのだ!」と。急いで行って弟子たちに告げなさい。イエス様はガリラヤで弟子たちとお会いになると!8節。

 婦人たちは、恐れながらもお大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった。

 喜んで立ち上がって、走っていく。その時、婦人たちの目には嬉しさのあまりに涙が流れていたに違いないと私は想像します。

 聖書を読んでいて、イエス様と出会って、自分の罪が示されて、なんと神様のご好意を今まで見過ごしにしてきただろうか。神が語りかけてくださっているのに、無視してきた。いろんな人を通して私に実は語りかけてくださっていた。しかし、それを無視してきた。

 しかし、それでも私は赦されて迎え入れられていた。だから、教会に来ている。何度自分は神に背いたことだろう。何度神様がおっしゃられている約束を信じなかったことだろう。

 しかし、聖書を読んでいると、そんな私の近くにイエス様はお越しくださる。そんな私を見捨てないんだ。そう思えてきて、涙と共に飛び上がるように嬉しい思いになる。その結果、私もこうして伝道者としての歩みをはじめたわけです。やっぱりはじめは嬉しさのあまり飛び上がって、それで走りだしたって感覚なんです。薄っすらと目に涙を浮かべながら神がお越しくださったって走りだすのですね。

 教会の中がこういう人達でいっぱいになったらなぁと思います。イエス様に出会って、そのことを誰かに言わないではいれなくて、喜びのあまり人のところに走っていく。

 墓から走りだして喜んで、涙を浮かべつつ走っていくと、その道の途上でイエス様に出会うのです。天使たちはガリラヤで会えると伝えよと言ったので、ガリラヤでしか会えなんじゃないかと思うのですが。

 違うんですね。イエス様の復活の知らせを聞いて、そのことに心躍らせて、なんとかそれを人に伝えようと走りだすと。その旅路の途中で出会うんです。イエス様御自身に。

 イエス様って、いつもにくい演出というかですね。驚かすようなことをしますよね。こういう所で必ず出会えるんだというようなことではなくて、思いがけなく、えっ、というところでイエス様と出会うんですね。特に復活の事実を心で受け止めて、喜んで走りだす時に、出会うでしょう。

 9節

 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

 もう婦人たちはおいおいと泣いていたんじゃないでしょうかね。足に抱きつくぐらいですからね。そしてひれ伏す。イエス様は「おはよう」とおっしゃいましたが、これはギリシャ語で「カイレテ」という言葉です。「喜べ!」という意味です。復活を告げるために喜んで必死で走って弟子たちのところに行こうとしたら、途中でイエス様御自身に出会って。イエス様がもっと「喜べ」って迎えてくださるんですね。

 復活のイエス様との出会い。その証言者は女性でした。これはとても大きなことです。女性は当時の社会では証言能力がなかった。数に数えられないぐらいですから。現在は違いますよ。女性の方が強い(笑)。もしも、復活の記事を捏造というか、嘘なのに本当であるかのようにして人に伝えようとするのならば、当時のユダヤ社会の伝統からすれば、復活は男性に証言させるはずです。捏造ならですよ。そちらのほうが信ぴょう性が高いと判断されたでしょう。しかし、そうはしなかったんです。なぜなら、女性が初めに出会ったということが事実だから。そのままの出来事をここに書いたんですね。脚色はしないで。とにかく伝えられていること、女性たちが復活のイエスと出会ったという事実をここに記したんですよ。

 復活の出来事を今日信じて、そして、神のもとに帰って神のものとして歩みを始めましょう。見えない神である聖霊が皆様の人生に満ちて、この婦人たちのように皆様が歩み出すそのところで、あらゆる場所でイエス様と出会うことができるようにと切に祈ります。

 最後にローマの信徒への手紙を引用させていただいて、この救いの素晴らしさを確認して終わりたいと思います。ローマの信徒への手紙4章24〜25節。

 わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪ために死に渡され、わたしたちが義と認められるために復活させられたのです。

 義というのは正しいということです。義というのは神の前に立てるということ。神との交わりが回復させられる。みなさんの祈り全部が神に届く。神がご一緒してくださる。キリストに信頼を置けばその瞬間から皆様と神様とはつながります。アーメン。