ヨハネによる福音書20章24〜29節 「見ないのに信じる」

 マグラダラのマリアに御自身をあらわされた後、弟子たちにも復活されたイエス様は現れてくださいました。日曜日の夕方のことでした。弟子たちは恐れにとらわれて部屋に鍵をかけて閉じこもっておりました。というのも、自分たちも逮捕されるのではないか。イエス様と同じように裁判にかけれてしまうのではないかという恐れを抱いていたからです。20章19節。

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。

 イエス様は閉じられた扉を通り抜けて弟子たちにお会いになられました。この時のイエス様のお姿は全くこの世のものとは別次元のものです。しかし別の姿といっても、弟子たちにイエス様であるということはわかったのですから、形もおそらく同じように見えたでしょう。手と脇腹をお見せになっているので、そのとおり見えるものとしてあったのでしょう。しかし、全くの別次元の体ですね。普通の人間は、扉を通り抜けることは絶対にできません。

 私は、復活についての意識を心の中にしっかり形作ることこそ、この世のことを恐れない弟子となる道であると思います。ですからこの復活への意識についてもう少し詳しく見ていきたいと思います。詳しく復活について解説しているパウロの手紙があります。その箇所を今日はご一緒に味わいたいのですが。コリントの信徒への手紙1の15章35〜49節です。

 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞くものがいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。

 復活は植物の発芽にたとえることができる。同じようなものであるとパウロは説明します。「蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。」

 すなわち、死ななければ体の復活はないのだということですね。そして、今の体と、復活の体にはなんらかの連続性、引き継がれる部分があるのだということ。事実、復活のイエス様の体には十字架における傷の跡が残っていました。

 また、パウロはこの世界にあるいろんな動物の肉について言及しています。コリントの信徒への手紙一15章39〜40節。

 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。

 動物の肉はそれぞれ同じように見えたとしても、それぞれ全然違う組成でできている。そういうふうに、今のこの世における人間の肉、体と、復活した後の肉、体。それらの組成は違うのだということをこの聖書の箇所は述べている。

 さらに、天上の生活と、地上での生活は全く違うということ次元の違う話であること。この世での輝かしい姿と、天上における輝かしさとは全く別次元の別基準になるのだということ。この世では注目されないようなことが天においては注目されうる。だから、全く小さな存在でしかなかった、この世で花開くとは程遠い人であったとしても、天上においては違うはずです。

 コリントの信徒への手紙一15章45〜47節。

 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属するものです。

 最初のアダム、最後のアダムはキリスト。初めのひとは肉をもって土の塵から造られた体。しかし、最後のアダムであるキリストは霊の体をお持ちになった。それによって、最後のアダムと同じようにされることをもって人間は完成する。キリストの弟子のゴールはこの復活を与えられるということ。これが明確なゴール。そして、その後に神と生きる新しい世界が待っているといことです。

 復活の体にはしかし、釘と槍の傷跡がありました。それによって、復活は事実であること、この方は間違いなくイエス様であること。十字架を経てここにおられるのだということを弟子たちは認識しました。復活のイエスは幻ではなくて、そこに存在する方、しかし全く別次元でそこに在る方であることを知ったのです。

 復活のイエスが、心の中の出来事、人の内起こった思い込みなんじゃないかと考える人がいます。人間の心理的作用で、人の心の内で起こったことだと。それは違うというか、そんなものを信じてどうなるのと言いたくなりますし。そんなものを信じたって人の力になりません。

 また、それは聖書の記述とは何にも関係の無い人間の推論となります。聖書は明らかに、これは事実として起こったのだということ、私たち人類のまさに目の前で起こったことであるということを述べているのです。そして、私たちが本当にこれを受け入れた時に、死を恐れない信仰に至るその道が開かれると言ってよろしいでしょう。

 イエス様は、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」とおっしゃられました。これは「シャローム」という言葉。イスラエルの挨拶です。この言葉には深い意味が込められている。神の平和です。メシア、救い主による平和。イザヤ書9章6節を引用させていただきます。

 ダビデの王座とその王国の権威は増し

 平和は絶えることがない。

 王国は正義と恵みの業によって

 今もそしてとこえしえに、立てられ支えられる。

 万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

 メシアの力、神の国の力。実際に人々と共におられる神の力。それをイエス様はお与えくださるのです。いくら弟子たちが心を閉ざしていようともその中に入って来られて。そこにシャロームと、平和を。救い主が与える平和を宣言してくださる。万軍の主が平和を実現してくださる。だから、恐れる必要は何も無い。

 恐れと信仰というのは真逆です。恐れのある所に神への信頼はない。信仰は恐れを閉め出します。なぜなら、全能の神を信じ、全能の神が私に関わってくださるということを心底信じるのが私たちの本来の信仰であるからです。

 弟子たちは、復活の主を目前にしていても、不信仰の罪を犯しております。イエス様にガリラヤに行くようにと言われていたのに、弟子たちは行きませんでした。恐れがあったからです。

 イエス様があらかじめ言っておられた、復活を信じませんでした。イエス様を見ても、ルカ福音書の記述によれば、幽霊だと思って恐れを覚えております。

 しかし、復活の主を真に信じることをもって恐れが閉めだされ、死をも乗り越える信仰がこの弟子たちの心に与えられていきました。罪のただ中にあったとしても、大丈夫。キリストのところに来たということだけで大丈夫。ただ、キリストのおっしゃることを心に受け入れて、復活のキリストを信じ。その復活が自分に成ることを、幼子の心で信じれば良いのです。そこから力が出ます。

 12弟子の中にトマスという人がおりましたが、トマスは復活のイエス様が弟子たちに現れた時に、その場所にいませんでした。さらに、その復活のイエス様を見なかったので決して信じようとはしませんでした。20章25節。

 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 トマスは、証拠を見なければ信じることはできない。という実証主義者というか、すぐには人を信用することができない人だったようですね。その彼のために、一週間ガリラヤに向かうのが伸びたようです。ガリラヤに行けというのが神様から命じられた命令であるのに、一週間を無駄にしてしまったわけです。しかし、天の父はそのことで怒りを燃やされる方ではない。私たちは自分が納得しないとか、心が開かれないために随分の時間を無駄にしているということがあります。しかし、神はそのある意味無駄な時間にも付き合ってくださって、自分の力で信仰を告白できるようにと待っていてくださるんですね。

 次の日曜日にまさに、一週間前に他の弟子たちがイエス様と出会ったのと同じシチュエーションを神様はご準備されて、家の戸に鍵をかけて閉じこもってトマスと他の弟子たちとが家のなかにいると、同じようにイエス様が扉を通り抜けて、復活の体で現れてくださって、トマスのところに来て、同じように「平和があるように」と宣言してくださったのです。

 そして、トマスに言いました。20章27節。

 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、わたしの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 おお、実証主義のトマスよ。証拠を見ないと信じないのだな。ならば証拠をみせてあげようとばかりにイエス様は優しくこの頑ななトマスに分かるようにそばにお越しくださったわけです。他の弟子たちもやさしくトマスを見守っている。イエス様がお越しくださるシュチュエーションを造って、トマスに伴走しながらみんながトマスが復活の主に出会うことを願い、その場を準備していたんですね。

 トマスという人は頑なではありましたが、本当に素晴らしい人でした。勇敢な人でありました。イエス様が命を狙われている状況のなかでも、自分も一緒に行ってイエス様と一緒に死んでも良いとまで言いました。(ヨハネ11章16節)

 分からないことは分からないとハッキリと言える人。物事を冷静な目で見ることができ、また納得できないことは納得できないといえる人でした。(ヨハネ14章5節)

 人情にあつく、勇気があり、分からないことは分からないと言える。その素晴らしいトマス。しかし、その良さゆえに、彼は頑なになったのです。そんな心もイエス様は解きほぐすために、この時をご準備くださった。そして、極めて大事な一言をトマスに、弟子たちに残してくださったのです。29節。

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じるものは、幸いである。」

 こういう人は一度信じると強いですね。そして、見ないで信じるということを彼は今回のことで全面的に受け入れたのでしょう。もはや恐れは吹き飛び、世界に出て行って伝道をする人となったのです。トマス行伝というものが残されていますが、それによるとこの疑い深いトマスは、インドの果てまで伝道に行ったといいます。約4500キロメートルですよ。世界の果ての果てですね。

 見なければ信じなかったトマス。絶対に見ないと受け入れないと言っていた人が。イエス様が言っておられたことが真実であり、そのイエス様が見ないで信ぜよと命ぜられたので、まったくこの先に未来が在るかどうかわからない。あんなところに行くの無理だというその先をも見ることができる。見ないのに信じる人に変えられたんですね。ハレルヤ。キリストを信じる信仰の偉大さよ。

 もうね、わたしはこのトマスを見ると、他にもトマスのように頑なになっている人いっぱいいるじゃないですか。でも、その人達は、やがて大きな働きをする。拒んで、まぁ神に出会うためにとても沢山の時間を費やしているような人、その人はタメを造ってるんじゃないでしょうかね。トマスを見ているとそうとしか思えません、彼は頑なだったけれども、その分信じてからは恐ろしいほどに大きな働きをしたんですね。

 見ないで信じる。ここに聖霊が、神を知る知識が。見ないで信じる信仰が皆さんに与えられているのであれば、確実に聖霊がそばにおられる。ならば、見ないで神に信頼して勇敢に進み出る日々を送ることができるんじゃないでしょうか。信じたいと思います。アーメン。