創世記1:1〜2:4a 「神が創造された」

 創世記というのは、書名は日本語では創世記ですが、もともとのヘブル語聖書は「はじめに」という名の書です。1章1節を見ますと。「初めに」という言葉ではじまります。最初の言葉もそう。書名も初めにですから。世界の初めの初めについてこの書は描こうとしているということがわかってきます。

 一体この世界が何故存在するのかということに対する神の言葉。創世記というのは、基本の基本。信仰のベースのベースです。ですから、信仰の歩みを始めるためには、この創世記は必ず読まなければならない書物です。

 創世記は、この世界が存在する理由の極めて重要なことを指し示しております。1章1節。

 初めに、神は天地を創造された。

 宇宙のすべての始まりの初めに、神は創造をなされた。主語が大事です。神が造ったということがすべての始まりであると聖書は告げます。これが起点であって、その他ではない。

 自然が生成された、物体が最初にあってそれが秩序を生み出したというわけではない。と宣言するのが聖書です。神が創造した。

 創造という言葉はヘブル語で「バラ」という言葉です。無から神が創造されたことを指し示します。このバラという言葉は神が主語になる場合しか使いません。神の創造というのは人間にはできない特別なことなのです。

 創造という言葉は、人にあてはめて使うことは無いと思います。聖書を知らない人は、創造という言葉を人間の行動に対して使いますが、キリスト者は使いません。それは特別なことだからです。人間は、すでにある「モノ」を使って何かを形作るということはできますが、「無からの創造」はできない。それは神にしかできないこと。だから、創造という言葉は特別な言葉として扱われるのです。ヘブライ人への手紙11章3節にこのような記述があります。

 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 物事の起点は神。神の意思によって、この世界は動いている。今日生きているのも神を起点として、神に生かされている。今日ここにいるのは何らかの神の意思によって、神がミッションをもしかしたら授けておられるかもしれない。今日私たちが出会ったのは神の意思によって。そう考えて行きますと物事の意味と重さが全く変化するのがお分かりかと思います。神を起点とするとそれだけで人生が変わるのです。

 「初めに」という書物である「創世記」を読んだ私たちが「初めに」神を起点として、つねに物事の「初めに」神を考え神のご意思を探るのであれば、その人は神から祝福されないはずが無い。このことを悟り、実行できる時間や自由が与えられている私たちは幸いです。

 創世記、第一章第一節に出て来ます言葉は、すべて極めて重要です。聖書全体がここで語られているとも言えてしまうぐらい大事です。ですから、言葉一つ一つにこだわってまた見ていきたいと思うんです。

 初めに、神

 神という言葉、これは実は複数形で記されている。何故唯一の神なのに、複数形で記されているのでしょうか。エロヒーム、エルという言葉の複数形です。これが三位一体の神への暗示だと言う説もありますし、神の栄光を神の威厳を現すときに、複数形を使うことによって神を賛美しているのだという人もいます。どちらも否定できません。

 どちらの考え方にも私たち納得できるところがあるからです。与えられている信仰はまさに、キリスト、神、聖霊。これが神々ではなくて、神である。一体であり、唯一の神。父と子とは一体。キリストの霊である聖霊もまた神。この事を体験的に教会は理解しています。さらに、神を讃えて神が崇められることを心から喜びます。神を讃える信仰が私たちの信仰です。

 また、1章1節には「天地」という言葉が出て来ます。

 天という言葉も、実は複数形がつかわれているんですね。ユダヤ教では伝統的に、第一の天、第二の天、第三の天と表現するようです。第一の天は、鳥が飛んだり、私たちがこの肉眼で見れる。まぁ、私たちの生活空間でもある天、空ですね。第二の天とは、私たちの生活空間ではない、未知の領域でもある宇宙空間です。それから第三の天。これは、全く神の領域であり私たちにはほとんど分からない領域。しかし、確かにあり、ここに私たちはやがて迎え入れられるという天です。

 それから、地という言葉です。地は私たちのまさに生活空間であり、ここが私たちへの神の救済の物語が繰り広げられる場所であり。地は神の業がまた起こされていく場所でもあります。

 2節の言葉にもまた、深い意味があります。

 地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 混沌という言葉には原文では「混沌とした状態、何も無い状態」という意味が実は重ねられてつかわれているんですね。今読んでいるのは新共同訳ですが、かつての口語訳はより原典に忠実に翻訳していたと言えます。口語訳を読みます。

 地は形なく、虚しく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

 地は形も整っていなくて、おそらく物体がちゃんと定まっていないような状態で、虚しい。何がなんだか分からない状態だったということです。闇がさらに面にあるんですから、もう人間の想像の絶する世界がそこにあったのだということです。秩序も希望も何も無いようなところです。

 しかし、そこに希望が現れます。

 神の霊が水の面を動いていた。

 水というのは生命力をあらわす有機的なものであり、命の種とも呼ぶべきもの。命を生み出す土台ですね。その命を生み出すものの上に、神の霊がとどまり、水の表面を動いていた。動いていたという言葉は、親鳥が雛を守る行動に出るときに使うような動詞が使われています。子供を守るイメージですね。神は命を創造していくために、水の面を動いていた。

 神の霊がとどまるところ、必ず新しい兆し、新しい何かが生み出されるということが起こる。神がおられないところ、物事は混沌として解体していく。秩序がなくなり、バラバラになっていく。神の霊のもとに私たちがとどまらない。そんな歩みをしていますと、人生が形になっていかない。何かが生み出されていかないのです。しかし、神の霊のもとにとどまるならば、神が親鳥のように命を生み出し、新しい出来事を生み出し、秩序を生み出し、物事が前に進むということが起こってくるでしょう。

 神の霊のもとに私たちが留まるということは、具体的に言えば、礼拝に集まる。祈りのためにあつまる、御言葉を読み学ぶ。御言葉によって生きる。黙想の時間を持つ。簡単で単純ですが、こういった事が徹底的に守られていくところ。神の霊がとどまります。

 神の言葉に忠実に、神に跪く生活の中に、聖霊が宿るということが起こるのです。ペンテコステの時、弟子たちが聖霊の満たしを経験したのは、家の2階でみんなで集まって祈っていた時です。難しいことをしていた時では決してありません。信仰者としての基本の基本。祈りと御言葉です。この霊的な呼吸に立った時。目一杯霊的な空気を吸い込む時、そこに神の霊が注がれるということなのです。これが秩序を生み出し、物事を前に進め、私たちの人生に新しいことをつぎつぎと起こすのです。

 親鳥である神が雛を守るように、その人を守り、新しいものを生み出されるのです。

 これが私たちの希望ですね。何か私たちにとって良いことが起こったり都合の良いことが起こることが希望じゃない。神の霊が留まること。神の霊が水の面をうごめいている。ということを期待できるこの信仰が希望なわけです。

 創造の出来事が創世記1章に記述されていきますが。神は言葉を発せられて、「神は〜と言われた」ということをもって創造をなさいます。言葉によって神は天地を創造なされました。この言葉の内容は、宣告であり、命令であります。3節。

 「光あれ。」

 そして、神がおっしゃられた命令どおり物事が実現します。

 こうして、光があった。

 命令、宣告をなされて、それが実現してしまう。という世界。これは人間が実現できる世界ではありません。ローマ帝国の皇帝などは、その権威から一言発すれば命令が実現するということがありました。けれども、その王の権威とも比較にならないほど、神の言葉には権威があり命令された事が実現する。手下が一生懸命働くわけでもなく、何の媒介も無しにおっしゃられたことがすべて実現する。それが神の全能さですね。

 私たち現代人はどちらかというと対話的な生を理想としているところがあるんじゃないでしょうか。頭ごなしに命令されることをとことん嫌う傾向がある。それはかつての歴史的な経験から痛みを味わったということもあるでしょう。基本的に、人から命令されるのを嫌います。

 しかし、神の命令は人間の命令ではない。問答無用という次元ではもない。神の言葉は実現する。神のご意思は達成される。それがこの世界を生み出された神のお力であり、権威である。この神を拝し。この方に祈り、この方への祈りはイエス様の御業によってすべてがとどけられるようになってしまった。だから、この祈りが聞かれるということが恐ろしいほどに大きな恵み、恩寵であることを知るのです。神が命じられたら、その一声で物事は動く。それが私たちの信じております神様の実力なんだということです。

 光があった。と記されておりますが、この光というのは太陽の光ではありません。天体が造られるのは第四の日だからです。この光というのは、暗闇の中に輝く神の栄光。コリントの信徒への手紙第二4章6節にこのことの記述があります。

 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 神の栄光。神の光。それは肉眼で識別できる光ではない。絶対的な闇の中で、絶望の中で、私たちの心に希望の灯火を灯す光です。

 イエス・キリストのご存在を知った時から私は光を得ました。

 心の中に絶対に失わない光。神を見る光を与えられました。この方が神であり、この方についていく。この方にゆだね、このキリストの歩みに従うことこそ、神への道。神に至る道を開いて下さるこの方が心に。キリストが示された。これは光である。

 神は光を見て良しとされました(4節)。光と闇とを区別をなさいました。光があると闇が浮き彫りになります。その区別をつけられるのは神がそのように区別をなさったからなんだということです。ヘブル語で聖なるという言葉は区別されたという意味もあるのだということを覚えておいてください。すなわち神は光と闇とを区別をなさるかた。善と悪とを区別をなさる方。民を選び分かつ方であるということでもあります。

 夕べがあり、朝があったというのは、ユダヤ人の感覚では夕方から一日が始まるという感覚があります。

 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。

 名前を授けるということは、その名前を授けた対象に対して権威を持っている。そんなイメージがあるんですね。神は、この光と闇とを区別されて、そこに名をつけ、光と闇に対して権威を行使することができる。

 創世記1章が書かれた時代というのは、実は真っ暗闇の中をイスラエルの民が歩んでいた時代でした。書かれたのは紀元前6世紀頃であったと言われています。紀元前6世紀といえば、バビロン捕囚の時代です。

 イスラエルは紀元前10世紀頃ダビデ王によって建国されました。その子供のソロモン王によって大いに栄えました。その後南北に分裂し、北は滅び、残った南王国ユダが、ついにバビロンによって滅亡させられたのが紀元前6世紀。国は崩壊し、捕虜としてバビロンに連れ去られました。

 そのバビロンの地で「お前たちの神は偽物の神だ」と何十年にもわたって言われ続け。実際に、捕虜ですから何の力も持てない中で、怒りに涙し、倒れ伏して砂を握るような生活を続けていたのです。その時に書かれたものであると言われています。

 だから、ここに出て来ます混沌とは、ヘブライ語で「トーフ・ワ・ボーフー」といいますが。混沌な状態と、何も無い状態という意味の言葉が重ね合わされて日本語では単に「混沌」と訳されているのですが。彼らの感覚からすると。国がもう崩壊し、ボロボロになってもうそこから立ち上がることもできない状態。もう一度国を立ち上げることなんて絶対にできないでなさそうな。

 そんな絶望的な状態をさす言葉でもあるのです。力も財も何も無い。トーフ・ワ・ボーフー。混沌で何も無い。一体ここからダビデ王国をどうやって復活させるのだ。何のプランも立たない。絶対的な絶望感の中。力あるものたちは「お前の神はどこにいる」と常に責め立てる。

 そういう悔し涙を噛み締めなければならない中で、光あれ。と神がかつてのように、この世界を創造なさった時と同じように。もう一度あの全能の力をもって。神の光を。暗闇に輝く光を。神の栄光を輝かせてくださるはずだと信じて、第一の日に神が絶望の中に、まったき暗闇の中に光を造り出してくださる方であることをここに記したわけです。

 光あれ。

 という神の言葉。神の宣言。神の命令。神がそう私に命じてこの国を立て直し、この屈辱を挽回し、神の力を賛美し、神のもとに涙してひざまづく日が必ずくるはずだと信じて、ユダヤ人はこの言葉を残したのです。

 幸いなるかな。イエス様の十字架によってこのヤハウェなる唯一の神と結びつくことを許された私たちは、この神の前に、光を生み出すことがおできになる神の前にひざまづくことができます。涙とともにへたりこむこの生活に、「光あれ」と神がおっしゃられた。神の栄光が示される。その時が来ます。その時を信じたいと思います。アーメン。