マタイによる福音書19章23〜26節 「何でもできる」

 2016年度から、教会が古代から受け継いでおります使徒信条を、聖書の御言葉にふれながらたどっていっています。使徒信条は私たちの教会でも毎週告白しております。これは2世紀後半に存在しましたローマ信条をもとにつくられたものです。ローマ信条というのは、新約聖書にも出て来ますローマの信徒たちが洗礼を授けるために、洗礼を受けるものたちが学び、自分の信仰の告白として用いていたものです。もっとも古い教会の信条ということができます。この信仰を告白するところにキリスト教会が立ち上がってきました。4月から8月。夏までの間に使徒信条をご一緒に学びつづけてまいります。

 前回は創世記の一章一節に注目しまして、「天地の造り主」である神様について聖書から聞きました。本日は「全能の神」ということに注目するようにということで、本日のマタイ福音書19章が選ばれています。

 ここでもうすでに違和感をお感じのかたもおられるかもしれません。マタイ福音書の19章16節からのところには、「金持ちの青年」についての話がのっている。だから、「全能の神」ということが話の中心にはたしてあるのだろうか。

 それでは、まずはじめにどこに神の全能さについての記述があるのか。ピックアップしたいと思います。それは26節です。イエス様の言葉。

 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」

 神は何でもできる。ここですね。神の全能さが描かれているところは。

 それではどんな文脈で「神は何でもできる」という話になったのでしょうか。

 金持ちの青年が出て来ます。それから、弟子たちが近くにいます。金持ちの青年は自分が永遠の命を得ているという確証が無いために悩んでいたようです。イエス様が永遠の命についての話をなさるもんですから、それが在るのであれば私は神からそれがいただけるのであろうか。いや、今それを得ることができる確証が私にはない。どうしたら良いのだろうか。そういう純粋な問いをもってイエス様と対話をしておりました。

 金持ちである。裕福である。ということは当時のユダヤ教社会においては大いなる祝福でありました。この青年はルカ福音書にも記述がありまして。ルカ18章18節によれば、会堂管理者であったとのことが記されています。

 宗教的なことを、聖書を読んだり祈ったり。それを何よりも大事にする。またそこに富があつまる。そういう構造があると人々は信じていましたので、会堂というユダヤ教の大切な建物の管理者であるこの青年は金持ちだった。

 この青年にはイエス様へのリスペクト、信頼の心がありました。なぜならば、16節に彼の言葉がでてきますが。

 「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」

 とイエス様に呼びかけましたが、先生という言葉は日本語だとただ先生という言葉だけになってしまいますが、もとのギリシャ語にかえっていきますと。ここは先生だけではなくて、「善い先生」というふうに書かれているんですね。善いというのは、これはその存在自体が尊いお方という意味合いがある。尊い先生。とでも言ったらよいでしょうか。そういう尊敬の念を込めてイエス様に教えを乞うているわけですね。

 で、イエス様はどのようにお答えになられたかといいますと。17節。

 「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」

 尊いことについて、私に尊い先生と言ってもういちど聞き直す必要はない。それはすでに語られていることである。すでに十戒の中に示されているではないか、尊きことが。

 余談ですが、礼拝で十戒を唱えることについて検討をしてほしいという提案を私はしております。どうなっていくかはこれからのことですが。どう歩むべきか。基本中の基本のことがもう記されているし。永遠の命に至るその道筋がもうそこに示されていたんですね。それがイエス様の認識ですね。永遠の命を得たいのであれば、十戒を守れ。とイエス様は言われたわけです。16節。

 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』

 金持ちの青年は、これらのことを表面上は守っている。そのように思っていたんです。しかし、もっとも大事なことを守ってはいなかった。今、イエス様がおっしゃられたところは、十戒の中の隣人との関係性における戒めです。しかし、十戒の中心は神との関係において人間がなすべきこと。それが第一の戒めから第四の戒めまで記されていることです。

 第一の戒めは、主が唯一の神であることを受け入れること。そして、第二の戒めは、偶像を造ってはならないということ。全能の救いの神がおられるのに、目に見える神の像を造り出すという愚かな行為に至らないようにということ。第三は神の名をみだりに唱えないこと。神の名を唱えるというのは祈りにおいてでありますが、祈り自体が悪いというわけではありません。祈りを自分勝手に、自分の名が高められるためであったり、神を自分のために利用するように用いようとする。そういった分別の欠いたことをするなということですね。そして第四、安息日を守ること。神の前での安息を守ること。礼拝を守ることです。

 この神との関係の基本があって、第一の戒めから第四の戒めがあって、はじめて人間と人間との関係の戒め、第五から第10の戒めがある。神との関係を守ってこそ、隣人関係が良好に保たれる。

 しかし、この若者は、表面上は十戒を実行できていると自分で思ってはいたけれども、実行はしてはいなかった。なぜなら、父なる神以外に、富に信頼していたから。富を神としてしまっていたから。

 裕福であることは祝福なんです。しかし、その富を神のように信頼してしまったら、神が造られたこの世、その戒めに反し、根本的に神に造られた人間として間違った歩みをしている。だから、その富の呪縛から逃れるために、21節。

 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 とおっしゃられたのです。もっとも大事なことを最も大事にするために、自分が今神よりも大事だと思ってしまっているものを手放したらどうだと。

 この一連の流れを弟子たちは、横で聞いていて、大混乱ですよ。富というのは祝福。富んでいるものは、神に守られて神の国に近い。そんなふうに考えていたんですよ。しかし、23節。

 「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。

 いや、これまでの常識。思っていたこと、全部が覆された。金持ちは神の国に近いと思っていた。そうじゃないというのであれば、一体どんな人が神の国に入るのか。全くわからない。というわけです。そこでイエス様は言われたわけですよ。本日の冒頭にふれた言葉。神の全能さにかかわる言葉。

 「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」

 救われるのが誰だか全くその基準が分からなくなっちゃったんですよね、弟子たちは。それも無理からぬことだと思います。天の父、イエス様はこの世で人々が考えていることと全く逆の基準で物事を話されたり、私たちの度肝を抜くような本質的な話をされますので、思っていたことが間違っていたんだといことに良く気付かされる。

 人間にはできないが、神にはできる。人間の側に救いを達成する要素はないが、神の側にそれがある。人間の側がいくら努力したところで、その努力はらくだが針の穴を通るという無理なことのように、人間の努力によって神の国に入ることは絶対的にできないが、神にはそれができる。人間を救うといところにおいて、神の全能さが現される。

 この人は救われる。この人は神に近いのではないか。そういう思い込みが人間にあったんですね。

 「この人は神に近いんじゃないか」という認識はまるで救いについて分かっていない人が言うこと。

 キリスト者がこういうことをたまに言うのを聞くのでがっかりすることも多いですが。。。神がその人に寄り添えば、どんなことでもその人はすることができます。それまでどんな生活をしていたとしても。それが神の全能さです。その神の全能さに私たちは信頼を置いているのです。人間にではありません。

 どれだけ、弟子が裏切り続けたことか。イエス様のことを理解できなかったことか。どれだけ不信仰は発言を続けたことか。しかし、その人たちが神の国を述べ伝える人となった。らくだが針の穴を通ったんですよ。それが神の業です。

 私たちがキリスト者として歩み始めたのも、らくだが針の穴を通ったという出来事ですよ。救われるゆえんなどどこにも無い。 

 うちの母親が言ったというか匂わせたというか、ことがあります。私たち父親と母親が善行を積んだから、うん、いいことを重ねてきたからあなたがこういう聖職者と言われるような職についたのかもしれないね。。。

 なんて。。。救いについて全く分かってない。なんて面と向かっていえませんでしたが、とにかく分かってない。私がキリスト者にさせていただいたことなんて、らくだが針の穴を通ること。人間には絶対できないこと。こっち側がいい人間かどうか、そういうこととは全く無関係ですね。牧師として立っているということも全く、自分が善い人かそうでないか、とは無関係です。神がそうされからですね。

 このあとで、ペトロさんはとっても恥ずかしい言葉を残しますね(汗)。いつも恥ずかしい話ばかり残されてペトロさんはかわいそうだなと思いますが。。。27節。

 すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」

 救いは全部神の業に依存する。神の全能さに依存する。人間の側の善行では全く無い。と言っておられるのに。。。

 私は善いことをしてきました。神に自分をささげてきました。などということを恥ずかしげもなく言ってしまう。全然本質をとらえてないですよね。しかし、これもキリスト者の恥ずかしい姿が指摘されるような場面ですよね。神の恵みによってとかいいながら、まだまだ人間的な良さみたいなものに信頼をおいた行動や発言をしている。神がそばに、神に委ねる、神が行動してくださる。そのことへの全幅の信頼を置くことを怠って、人間の善に依存し出すんですね。

 でも、こんな理解しないペトロに対してイエス様はおやさしいですね。自分を献げてイエス様について来たこと。それは正当に評価をされるよ。と教えて下さいました。29節。

 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。

 キリストのために自分をささげて持っているものを手放していく、そういう人は確実に祝福を受けるよ。とお教えくださる。それは物質的にもそうでしょう。恵まれて満たされる。必要な業のために神様が財を備えてくださる。百倍もの報いをうける。

 キリストの十字架の御業の偉大さ。その前に圧倒される思いがいたしますね。こちら側の能力とか才能とか善なるところとか正しさとか、そういったものにこの世の歩みは依存している。そんな気がしながら、自分の小ささをなかなか誇れないといいますか。いまだ自分が大きくなろうとか、善になろうとか。そういうところで立ち止まってしまうことも多い気がします。

 が、キリストが求めておられることは、この神の全能さ、十字架の御業によって神につながっているということに信頼しろということですね。とにかく信頼をささげつづけ、人間の側のものに決して依存せずに、自分の持っている財や才能等に依存せずに、何にもできないものとして自分をささげていく。するとそこに百倍もの実りを与えてくださる。そういう歩みなんですね。

 これなら、今ここから。何にも持っていないこの自分から。はじめることができるんじゃないでしょうか。キリストが救ってくださる。その全能の力にのみ依存して、何もなくてもよい、幼子のようでよい、しかし、キリストの全能さだけに信頼して、歩もう。

 28節。

 人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。

 新しい世界で、イエス様が支配者として統治される時。この頼りない、イエス様の心を理解しない。善行で人は救われるのではいと言われても。自分の善行を誇ってしまうようなそんな弟子でも。しかし、その弟子をこそ、ただただイエス様に信頼を捧げ続けるというその道の先に、イスラエルの12部族を治めるという責任を授けてくださる。

 このはじめは信頼できない弟子たちを育て育み、神の民として導く。そのイエス様の決意。神の全能さ。用いられるべきものでない、その実力を有していないものをも神はやがて用いられる。全能の力。そこにのみ信頼したい。アーメン。