ヨハネによる福音書 3章16節 「一人も滅びないように」

しるしを見て信じる信仰。奇跡的なことが起こって、それで神を信じるという信仰があります。それから、キリストによる罪の赦しを信じる信仰があります。時に、人はただ単にしるしというものを追い求めてしまう時がある。とにかく、自分にとって良いことや、これは絶対に神がおられるとしか思えない特別なこと。そういうことを求めるこころというのは、多くの人にあります。

 しかし、しるしを求める信仰ではなくて、キリストによる罪の赦しを信じる信仰こそが、まことの信仰です。なぜなら、その人は、神と自分との関係が回復されて、神様がご一緒してくださるその中に生きることができるから。

 神に祈る。すべてを神とともに考え行動する。そういうふうになっていく。それは、ただ単に自分にとって都合の良いことや奇跡を求める信仰とは比較にならないものです。これこそが救いですね。生きるにも死ぬにもキリスト。と使徒パウロは教えてくれました。主と共にあれば、生きることも良い。死もまた良い。

 例えば、皆様が毎日聖書を読んで神のご存在を感じ取り、神がこうお求めではないかと思いながら今日を生きる。それは奇跡を信じるよりも、尊いことであると思います。神と共に歩むのですから。

 本日の聖書箇所はニコデモというユダヤ教の最高法院の議員とイエス様の対話の場面なのですが。その前に、触れておかなければならない重要な前提というものがあります。それが今言いました。しるしを見たから信じる信仰というものについてです。しるしを見たから信じる信仰についてイエス様はそれを良しとされなかったということですね。2章23節以下をお読みします。

 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要が無かったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかを良く知っておられたのである。

 イエス様の周りに沢山の人が集まってきましたが、この人たちはやはりはじめは「自分が何を得ることができるか」このことに終始しているのですね。どんな人も同じかもしれませんね。私も教会に来た時、自分が何か新しいものを得られるだろうと思ってきた。で、確かに得られるんですが。奇跡とかしるしといったもので、自分に都合の良い奇跡が起こるという、当初願っていたものとは違うものを得ることになる。

 それは先ほども言いました。罪の赦しです。神との関係の回復です。祈れるということです。神と一緒に歩めるということですね。それは必ずしも自分にとって都合の良い奇跡が起こるということではありません。

 イエス様は人々の心の中にはやっぱり、しるしだけを求める信仰が中心にあるなと感じ取って、人々を信用はなされなかった。それがこの話しの大前提なんです。

 しかし、イエス様は本日登場しますニコデモという人には、重要なことをお教えくださいました。ニコデモの心の中には聞く態度というものがしっかりありますね。これすべての入り口です。信仰の世界でも、そうですが、信仰の世界のみならずすべての基本です。聞く耳を持つということですね。聞く耳を持っていない人は学びませんし、何を言っても無駄ということが多い。

 ヨハネ福音書3章2節を読みますと、ニコデモの聞く姿勢がわかります。

 「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしをだれも行うことはできないからです。」

 ニコデモは神がここにおられる。ならば、この方からお聞きしなければ。この方にご一緒させていただかなければ。と思ったのですね。

 ラビとイエス様に呼びかけています。ラビというのは、ユダヤ教の指導者であり、学者である。そういった内容を指し示す言葉であり、尊称、敬意を払う言葉でもありますね。このニコデモ自身が実はラビであり、律法の教育者でもあり、最高法院の議員でもある。いつもはニコデモがいろんな人からラビと呼ばれていた。しかし、自分こそこのイエスに聞かなければと思って自然にイエス様を「ラビ」とお呼びしたのでありましょう。

 1節を読みますと、ニコデモはファリサイ派に属する人であったとも書かれていますね。ファリサイ派には特徴的な考え方がありました。ユダヤ人として生まれた人は、ユダヤ人であることによってすべて神に救われるということです。

 しかし、そのことを洗礼者ヨハネが否定しました。その批判した洗礼者ヨハネと同じ路線をイエス様は辿っておられますね。洗礼者ヨハネは、単に血筋が良いからということで、神の民となるのではないとはっきりと言いました。砕かれた魂こそが重要であると。洗礼者ヨハネの言葉に触れておきましょう。

 マタイによる福音書3章9節。

 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

 ニコデモの考え、ファリサイ派の考え、イエス様の考えとは対立する部分があります。だから、おそらくニコデモは、そのことに関して議論するためにここに来たのでありましょう。そういったことはイエス様にはすべてお見通しでした。

 このヨハネ福音書の3章。イエス様とニコデモのやりとり。実はかみあっていません。ニコデモはこう言います。

 「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしをだれも行うことはできないからです。」

 その言葉に対してイエス様は。3章3節。

 はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国をみることはできない。

 と言われたんです。

 はっきり言っておく。というのは「アーメン、アーメン、まことにあなた方に言う」というのがギリシア語からの直訳になります。これだけは確かだと念を押す形で言われたんですね。それだけ大事なことだというわけです。

 しかし、とにかくこの会話はむちゃくちゃ不自然ですね。ニコデモは、「あなたこそが神の教師です」ということをイエス様にぶつけて。しかも敬意をもって、尊敬の言葉を重ねている。その言葉に対して、、、

 「人は、新たに生まれなければ・・・」

 これ聞いて妙な会話ですよね。ニコデモはイエス様を立てよう、敬意を払おうとしている。しかし、イエス様は御自分が高められるというか崇められるということに感心は無く、ニコデモの心の中にある問題意識に直撃していくんですね。本当に救いを得るためにはどうしたら良いのか。ニコデモの心の中にはそれが中心にあった。非常に正しい動機。イエス様はニコデモのこの心を良しとされてニコデモの言葉にまじめに答えてくださっているんですね。

 ニコデモは気付いていた。ファリサイ派が言っている救いの概念と、イエス様が言っておられる救いの概念とは少し違うぞ。それは一体どちらが正しいのか。心の中に色々葛藤を持った上でイエス様に近づいていた。

 そのニコデモの欲求にダイレクトの何にもほとんど聞かれていない状態で応えてくる。それがイエス様、神様。

 神の導きってこういうものが結構多い。こちら側がいろんな思いをこめて、こうあってほしいとか、こうしてください。とか神に祈りますが。それが何の説明もなしに突然、神様の方法で実現されて。それが自分が思っていたことと違っていたりして。しかし、突然神からの応えが舞い落ちるようにして与えられる。思っても見なかった時に。

 ニコデモは単にイエス様と挨拶を交わした。しかし、その段階でニコデモの正しい志が見ぬかれて。救われるためには、新しく生まれるしかないのだというイエス様は思わずそのニコデモの心に答えてくださっているんですね。核心の核心を突然聞いてしまうのです。

 こんな姿を見てても、やっぱり人間って志だなって思いますよ。どういう青雲の志を持っているかですね。それに神様はやっぱり答えられるんですよ。人間はそれ以外の外堀をなんとか取り付くっていこうと度々考えてしまうものですが。心がいかに。心にいかに正しい志をいだいて、また神に向かっているか。真剣に求めているか。それが問われているし。それに神は答えてくださるんだということですね。

 人は、新たに生まれなければ、神の国をみることはできない。

 新たに生まれなければ。というのは、上から新しく生まれなければ。という意味が原文にはあります。上からというのは天からという意味、神からという意味、もちろんそういう意味があります。

 それから、さらに上からくだされるものはなにかといえば、それは聖霊ですね。聖霊を受けて、霊的にうまれかわらなければ神の国を見ることができない。神の国というのは、神の支配とも翻訳できます。

 神のご支配、それは目に見えませんね。それを見るために必要なのは何ですか。それは信仰ですね。信じないと見えない神の支配は見えてきません。

 この世界は人によって見え方が違います。キリスト教基礎講座で歴史をご一緒に学んでいますが。中学校の歴史教科書を推薦図書としてあげていますが。しかも、私はあえて、意見の違う両陣営の教科書を使っています。それを見ても明らか、歴史は人によって見え方が違うんだということが分かる。人は見えているものが、その心によって、霊によって違うんですよね。

 神の霊である聖霊を受けて、上から生まれ変わってものを見ている人と、そうでない人は物事の見え方が違う。神の支配が見える、見えない、分かれますね。

 人は上から生まれ変わらなければ、神の支配を見ることはできない。

 これが私なりの翻訳です。

 これに対してニコデモはこう答えます。3章4節。

 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょうか。」

 新しく生まれるとおっしゃいますが。そんなこと私にはもうできませんよ。

 そこでイエス様が3章5〜6節。

 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

 また「はっきり言っておく」を繰り返されます。これがどれだけ大事なことなのか伝わってきますね。何度もこれだけはということを言われているわけです。これは大事だから聞いてくれよと何度もイエス様はおっしゃられる。ニコデモさん。これだけイエス様に真理を直接、丁寧に切々と語られて羨ましいです。

 水と霊。水は以前創世記で触れましたね。物質的な命。生命の源を表すときに水という言葉を使うんでしたね。この肉体において生まれることを水によって生まれるというのですね。そして、霊によってというのは、聖霊が注がれることによって新しく霊的に生まれる。心が一新されると大雑把に言い換えても良いかもしれません。信仰が与えられて心が一新されて、信じる信頼に生きる。霊的に生きる。6節。

 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

 というのは、今言いましたことの繰り返しですね。

 そして、更に聖霊ということにつながっていくんですね。聖霊がどれだけ重要かということですよ。7節。

 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこに行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

 風というのは聖霊のことですね。ギリシャ語でプニュ―マ、これは風とも霊とも言います。聖霊は、思いのままにふくのだから、人は霊によって新たに、上から生まれるのだとイエス様はおっしゃられたんですね。

 ニコデモは、それに対して「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いました。ありえない。

 霊が注がれ生まれ変わるなどということは聞いたことがない。ユダヤ教で新しく生まれるということはある。それは異邦人がユダヤ人になった時。王になった時。バル・ミツバ、いわゆる元服の時もそう。結婚した時、ラビになったとき。そういう決められた場面で新しく生まれたと考える。

 そして、何より血筋によって担保されている救いじゃなきゃ理解できん。そんな風に思ったことでありましょう。ユダヤ教の神学が硬直化して、確かに制度的にはしっかりしていて。こうやって救われる、こういう段階を経て、生まれ変わる。神のお取り扱いを受ける。新しく生まれるということがはっきりしていたのでしょう。しかし、そうやって人間が決めてしまっているものは、神が願っているものと随分違うものであったことが分かります。

 神は、思いのままに聖霊を吹かせて、その霊が注がれることによって生まれ変わらせ。神の支配を見えるようにして、救うというのです。だから、誰かに限ってとか、こうでなきゃだめ。ということじゃない。聖霊を吹かせ、聖霊によって信仰を与えて、信仰を与えた人をどんな人でも救うのだということですね。

 そして、だからこそ、今日の結論の言葉。朗読の箇所に入るわけです。3章16節。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 聖霊が注がれて信仰を告白し、神の支配が見えるもの。そういったものを神は思いのままに導く。風は想いのままにふくのだ。ニコデモは後にイエス様の真の弟子となりますが。この時は、今までのユダヤ教の枠組が邪魔をしてイエス様のことを理解しているとは言えません。でもこのニコデモをイエス様は信頼して、聞く耳を持つもの。徴ではなくて、真に信仰を、心を求めるものに御自身をお示しくださったのです。後にイエス様の言葉を噛みしめて、イエスを信じる信仰に至りました。そして、イエス様が十字架にかけられた後、遺体を引き取りに行く一人となったのでした。聖霊の業が彼のうちで花開き真の信仰にいたりました。アーメン。