ヨハネによる福音書19章25〜27節 「神の家族」

 イエス様の十字架上の言葉に、信じるべきものが集約されています。主が痛みの中で魂を注ぎ出し発せられた言葉です。遺言です。約束の言葉です。永遠に受け継ぐべき言葉です。

 本日はその十字架上の言葉。第一から、第三の言葉までを見ていきたいと思います。そして、この第三の言葉が、本日の母の日につながっているということをもご一緒に確認できればと思います。

 ヨハネ福音書19章の十字架上の第三の言葉を中心に扱いますが、おさらいとして第一、第二の言葉にも触れておきたいと思います。

 まず、第一の言葉です。ルカによる福音書23章34節。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 十字架の上で、イエス様を拷問した兵士たちに向かって発せられた言葉です。赦しの言葉。この言葉によって救われたという人も多いのではないでしょうか。

 私もこの言葉で人生が変わりました。神を見出しました。神を見出した瞬間からすべてが変わりました。そして、今こうして牧師として歩んでいます。御言葉を伝えるということだけのシンプルな歩みです。

 神の赦しはこの言葉によって全人類に向けられていることは明らかです。キリストを傷めつけたこの兵士さえ赦しの内にあるのですから。キリストの赦しは底なし沼のように深い深いものです。どんな罪でもキリストの十字架のもとに行けば赦される。だから共にキリストのもとに行こう。祈りをもってすべての人と神のもとにひざまずこう。そう生涯を通して思いつづけることができる。それが十字架の上で発せられた第一の言葉でした。

 第二の言葉。ルカによる福音書23章43節。

 はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。

 信じるものに救いを確実に約束する言葉。イエス様の右につけられていた強盗に救いを宣言なさいました。あとどれくらい彼の命はあるのか。死に向かう人です。必ず。

 必ず死ぬその人に対して、救いを確約できる。それがキリストの救いなんです。必ず死ぬ人に救いです。

 今日この場をあとにして、そんなことあってほしくはありませんが。このあと命を失ったとしても、あなたがイエス様を信じて、すべてを委ねるならば、必ずイエス様がおられる所、神がおられる所、神の支配のもとに行くことができる。救われる。そう約束できる。そういった言葉をイエス様は残してくださったのです。だから、人が命を絶たれるその最後の一秒までその人の救いを諦めることは決してできません。

 そして、十字架上の第三の言葉。それが本日朗読された言葉です。ヨハネによる福音書19章26〜27節。

 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」

 「見なさい。あなたの母です。」

 私は長い間、このイエス様の「婦人よ」という言葉の真意がよく分かりませんでした。なんという他人行儀な言葉なんだろうかとずっと思っていました。「婦人よ」などという日本語の呼びかけの言葉などありません。そもそも、日本語で女性の方とか、いうような、呼びかけの言葉で、、、女性か男性かを意識した人の呼び方はほとんどしないから、この雰囲気が良くわからない。

 しかし、ユダヤの習慣に詳しい人に言わせると、この「婦人よ」という言葉は尊称だと言います。おそらくそれが正しい。日本人はこの言葉は尊称には聞こえないけれども、パレスチナの文化やユダヤ教の文化を踏まえて考えると尊称としか考えられないということです。しかし、ある程度距離をおいたというか、尊敬の念は込めているけれども、お母さんというほど近しい関係性の中にある呼び方ではないということです。

 イエス様は特別な意味をここに込めて「婦人よ」と呼びかけた。日本人が誤って理解するように、すごく冷たい言葉として発せられたのではなく、暖かい言葉として「婦人よ」という言葉が発せられたのです。ではどういう意味があるのか。ご一緒に見ていきたいと思います。

 まず、この十字架の場面の状況設定から見ていきたいと思います。ヨハネ福音書19章25節をご覧ください。

 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。

 十字架のそばには、四人の女性たちがいました。イエスの母、母の姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリア。弟子たちは逃げてしまっていましたが、彼女たちは十字架によりそっていました。

 むごたらしい光景がそこにありました。イエス様は血を流し、その周りにいた兵士たちはイエス様の着物をクジ引きをしてわけあっていました。兵士たちはこの十字架の意味がわかりませんし、犯罪人の処刑ですから、犯罪者の心の中には無関心です。無関心ゆえに残酷になることができました。

 イエス様のお母さん、マリアがその場にいました。子供の命が失われるその瞬間を目の当たりにしなければいけない。それはこの世で経験する他に比べることもできないほど大きな痛みです。自分の身が引き裂かれることよりも苦しい。

 目の前に傷んでいる息子を見ながらそれをどうすることもできない。何もできないということで、さらに心が引きちぎられる。さらに、イエス様は兵隊たちに囲まれて蔑まれて、言うなれば敵になぶりものにされて、むごたらしい姿で、その最後を迎えようとしておられる。

 マリアに対して預言がかつて与えられました。その預言が現実のものとなってしまいました。ルカによる福音書2章34〜35節。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 この聖書に記されているマリアに対する預言が現実のものとなりました。

 あまりにもむごたらしい仕打ちを受けている子供の姿を見ている。その母親の姿を十字架の上からイエス様のほうが見ておられる。そのイエス様の心の痛みも非常に強かったのです。母の痛み。この母マリアは息子を失ってからその後の人生はどうなるのでしょうか。イエス様は自分の痛みよりもマリアがどうなるかを十字架という恐ろしい処刑のさなかにお考えくださっていました。この姿も真にこの人は神の子だとしか言えない。そんなお姿です。自分の痛みよりも母です。

 これからの母の人生を守るためにも、イエス様は十字架の上から、自分と母ではなくて、弟子であるヨハネと母とを結びつけるということをお考えになられたのです。

 この時のマリアの年齢はおそらく40代中盤です。私たちにとって40代中盤というとまだまだこれからという印象が強いですが、当時の社会においてそうでは無かったようです。今で言えば60代以上。そのぐらいの様相であったと考えるのが妥当ではないでしょうか。引退後の歩みと言ったらよいでしょうか。だから、子供がいなくなってしまったら、どうやって生活していくのか。そういうことが不安になるような年代だったのです。だから、イエス様は母のことを思って言葉を発せられるわけです。もう一度本日の箇所を読みたいと思います。ヨハネによる福音書19章26〜27節。

 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 愛する弟子というのはヨハネ福音書ではこの福音書を書いたヨハネということになっています。自分で自分のことを愛する弟子と書いたんです。ヨハネは。

 死の間際に語った言葉なので、これはイエス様の遺言にあたるものとなります。母であるマリアと、弟子のヨハネが、親子関係という絆で結び付けられました。そして、ヨハネはそれを受け入れて、マリアを母として自分の家に迎え入れた。そんなふうに書かれています。

 これからどうなるか分からないそのマリアをヨハネという頼もしい弟子にお委ねになられた。

 イエス様とマリアとの関係というのは、イエス様が公の生涯に入られて変化していきます。御自分がメシアであるということを公言されるようになってからは全く変わりました。

 肉の上での母というものではなくて、少し距離を置いた関係となりました。というのも、それは血のつながりよりも、もっと尊いつながり、信仰によって神と人とが繋がるというその世界にマリア自身が入るため。あえてイエス様はマリアに距離をとられた。

 公の生涯に入った時のイエス様のお言葉を見ておきたいと思います。その時も十字架の上でと同じ言葉をイエス様はおっしゃられているんです。ヨハネによる福音書2章4節。

 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

 明らかに距離をとっています。母ではもはやないかのような対応です。またルカによる福音書においてはイエス様がどういう方向性でマリアとの関係を考えていたのか、また目指しておられたのかということが分かります。ルカによる福音書8章19〜21節。

 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上とご兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

 血肉による関係以上に、神と信仰において結ばれるその関係性こそをイエス様は大事にされているということが良くわかります。当時のユダヤ人の発想は、やはり血のつながり、自分がユダヤ人であることが何より大事でしたし、十戒にも「あなたの父母を敬え」という言葉があるように、親を大事にすること家族を大事にすること。それが何より大事なことだったのです。ですから、イエス様がこうやって、自分の肉の母よりも目の前で一生懸命に神様のことを聞こうとしているその人とのことを母、兄弟と呼ぶということは受け入れがたいことだったに違いありません。

「いやいやいやイエス様、御自分のお母様をまず大事になさってください。」

 という思いを周りの人々は思ったに違いない。しかし、イエス様が目指しておられたのは、まず真に神と人とが繋がるということ。それ以上に優先されるべきことはない。だから、お母様が来ようが、兄弟が来ようが関係なしに、まず目の前の神の言葉を聞こうとしている人を大事になさったのです。

 教会に来るとき、親兄弟がいるからここに来ているという人がいます。確かにそうやって導かれることは大事なこと。しかし、そこからやっぱり前に進まないといけない。親がここにいるからではなくて、自分が神と結びつき、自分が神の言葉を聞きたいからここにいる。主の言葉をしっかり聞いていれば当然そのような関係になるはず。

 心のそこから聞こうとして目を覚まして神の言葉を聞こうと耳をすましている。そういう人をイエス様は御自分の母、兄弟としてくださるのです。

 逆に言えば、そうではなくてただつながりだけでここに来て、神から言葉を聞こうとしていない。そんな人がいるのであれば、その人は今一度自分の立ち位置、神に対して自分がどんな態度をとっているのか考えた方が良いかもしれません。

 イエス様はマリアに対して十字架の上から、「婦人よ」とおっしゃいました。これは女性に対する尊称で、べつに冷たくあしらったからこう言われたというわけでは全くなかった。ある程度距離をとりながら肉の母ということをわきにどけて、信仰によってつながるように。

 そしてその母がこれから歩むべき道をイエス様はお示しくださったのです。ヨセフの家に世話になって、1人の神を信じるものとして、他の弟子たちと同じように神とつながって神とのつながりの中でこそ生きるべきこと。

 1人の人として神とつながる。これこそが救いです。マリアはイエス様のお母様だからといって特別扱いを受けるようになったというわけではありません。使徒言行録を見ますと、1人の信徒として描かれています。使徒言行録1章14節。

 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

 神とのかかわり合いに生きるようになり、イエス様と親子であるということはもちろん消去されるものではありませんが、何よりも天の父との関係を大事にして祈るようになっている。

 私は、信仰の道に足を踏み入れた当初、できれば自分が使徒的なといいますか。イエス様と顔と顔とを合わせるような親しき関係性がほしい、使徒のようにイエス様をこの地上で目の当たりにできていたらなぁ。またイエス様の兄弟のように、イエス様の母マリアのようにイエス様を見ることができていたらなぁ。そうすればもっと自分は信仰深いものになるのではないかと思っていた。しかし、天の父への信仰というのは、単にそばでべったりすれば良い。親子のように、まさに母親が小さな乳飲み子を抱っこするようにべったりすれば良いというものではないのだということを学ばされます。イエス様はあえて距離さえとられるのです。1人の人が真に神への信頼によって、神を主としてその神の前にひざまづくことができるように。天の父はもちろん父だけれども、それは崇めひざまづき、主であるという意味で父なわけですね。私たちの甘えがすべて通って全部こちら側の言うことを聞いてくれる。そういった意味での父ではないわけです。むしろこちらがわの言い分ではなくて、天の父の思いがすべて成就する。それを心から受け入れていくのです。

 今日、ここで1人の人間。たった一人の特別な人ではない他の人と同じ神の前で小さな存在であることを受け入れる。小さな小さな1人の信仰者として神とつながり、特別な存在と周りが思うような高められた状態ではなくて、それで良い。ただただ神とつながる。小さな存在として神とつながる。マリアが特別な母として神とつながるということよりも、1人の信仰者として神とつながったこと。そして、もはや血肉によるものではなくて信仰でつながった仲間たちと家族となり。その家族によってささえられるという道。その道をマリアが歩むことをイエス様はのぞまれたのです。

 自分が変化して特別になることを求めるものですが、そうではなくて、たった一人の名も無き信仰者でかまわない。しかし、神とつながり、そして信じるものたちと信仰によって家族の交わりを形成できる。これこそがイエス様が私たちに望まれていることです。マリアは、イエス様の復活の後ほとんど出て来ません。しかし、それで良いのです。特別でなくて良いのです。小さな1人の信仰者として神とつながれば良いのです。それが神の御心です。アーメン。