使徒言行録2章14〜21節 「油注ぎ」

 神から注がれる聖霊。見えない神の力。油注ぎ。それが弟子たちに与えられました。皆で祈っている時でした。炎のような舌が現れて、弟子の一人ひとりの上にとどまった。炎というのはエネルギーをあらわすものです。舌というのは語るべき言葉。大胆に人前で語ることができる。そういう力が弟子たちに与えられたということです。

 本日朗読された使徒言行録2章14節を御覧ください。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。

 それまで人目を避けて小さな部屋にその身を隠していた弟子たちです。もしかしたら、イエスの弟子であるということがバレたら大変な目にあうのではないかという、恐れにとりつかれていた弟子たちです。その弟子たちから恐れが取り払われて、大胆に人前に立つことができるようになった。しかも、小さな声でぼそぼそと語りだしたということではないんです。どんな人にも例外なく届くようにと、大きな声で語りだしたのです。もはや恐ることをせずに。

 今まで静かにしていた人が、急に元気に立ち上がって語り出すもんですから。それを見ていた人は、酒に酔っているのではと思ったんですが。それは無理からぬことです。元気になるはずが無い人が元気になった。なにか特別な薬でももったのではないかと思ったわけです。しかし、ペトロが聖霊を受けて語りだした言葉は、酔ってへべれけになった人の言葉では全くなくて、非常に理知的であり、しかも聖書をしっかりと踏まえた言葉であったのです。ヨエル書に記されていることがいまここで起ころうとしているとペトロは引用しました。2章17節。

 神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

 老いも若きも男も女も、あらゆるものを飛び越えて、すべての人に神の霊が注がれる。

 これまでは、すべての人には注がれるわけではなかった。特別な人、エルサレムの神殿にこそ、神の栄光が現されるのであって、神と関係を持つためには祭司との媒介が必ず必要であると考えてきた。そういう前提があったからです。そういう制約というか垣根はとっぱらわれて、すべての人に聖霊がのぞむんだ。そうペトロはヨエル書を用いて宣言したわけです。

 時が来て、一同が一つになって集まっていると、聖霊が吹いて、人々にのぞむ。それを代々の教会は経験し続けてきた。教会において起こっていることはすべて聖霊の御業。この業は時に、大きく膨れ上がり、時にその働きを小さくする。しかし、ずっと神の業が行われている。その事に対する信頼をもって教会は歩んできました。

 その霊は他の誰にでもなく、信仰をいただいたあなたにのぞんでいる。それを強く意識し、その聖霊の働きを信仰によって心の中にみて、勇気づけられて、人前に立つことができるようになり、福音を告げ知らせるものが起こされて、教会の教えが語り伝えられて来ました。

 どこの誰かではない、この私に聖霊が注がれている。この私に炎の舌が。この私に、神は行けと行っている。この私に神は民を託し、送り出そうとしている。そのことを受取る民が起こされてここまで歩んできた。

 聖霊を受けて歩みだした民は、特別なことをしていたというわけではありません。私たちと同じことをしていた。集まって祈っていた。ただそれだけです。しかし、それこそが極めて重要なこと。神に対して常に心を裂いて、神に向けて祈っている。私たちがそれをするのであれば、御言葉を読んで心をそこに裂いて、そして祈りに専心している。そういう所、ある時神が時を選んで、聖霊の満たしを与えるのです。

 私は本日、詩篇1編言葉を思い起こしました。2〜3節。

 主の教えを愛し

 その教えを昼も夜も口ずさむ人。

 その人は流れのほとりに植えられた木。

 ときが巡り来れば実を結び

 葉もしおれることがない。

 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 心と、その存在全体を神に向けていると、ときが巡り来る。「こうすべきだ」ということが示される。その時に特別な経験をするかもしれない。ここに書かれているように、炎のような舌が自分に降るということ経験するかもしれない。外国語が急に話せるようになるという奇跡の出来事を経験する人がもしかしたらいるかもしれない。

 しかし、どんなことが起こるにせよ。公明正大に、何も恐れずにキリストがお与えくださった福音を証しする。その心が聖霊の力によって与えられていく。それは、神の臨在を心の底から求めるものに対して例外なく誰でも。牧師と呼ばれるような人に対してだけじゃない。誰にでもです。それをペトロが教えてくれました。

 一つ、皆様にお願いです。固定的な発想を持たないでいただきたい。この人はいつも祝福されて、この人はいつも敬虔だ。そのように言いたくなるような人。すばらしい人は確かにいるんです。しかし、そういう人だけじゃない、って聖書は私たちに語りかけてくれているんじゃないでしょうか。

 わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は予言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

 誰にでもです。神の霊が注がれることを心から願い、体全体を神に向けて歩みを始める人。神の前で静まって祈っている人。聖書を必死で読み続けている人。そういう人に聖霊が注がれるはず。信仰における確信にもとづいて、行動をはじめるのです。

 あの人は敬虔だ敬虔じゃない。などと判断している人は、自分が動くということを忘れてしまっている。人を判断している場合じゃないんです。自分が動くのです。

 人にではなくて、神に全身を向けて、神から聖霊を受ける。そうしたら、自分がなすべきことを探して、自分がなすべきことのために奔走するはずです。

 神の前に立った時、問われるのは人のことじゃないんですよ。自分がどう神に仕えたかです。

 ペトロは自分へのこととして受け止めたんです。だから、人前に立って、大きな声で語り出すっていうことができた。聖霊が注がれる前までは、小さくなって家に閉じこもって部屋の戸に鍵をかけていたんです。

 ペンテコステの出来事。不思議な出来事が起こりました。各国の言語で弟子たちが語りだした。外国語を突然話せるようになって。神の偉大な業について語りだした。この出来事に対していろんな思いを持つことができる。

 私は聖書を読み始めた当初。ペンテコステの出来事を知って、へぇ、こんなことが起こるのか。不思議だなぁ。とただ単に意味も分からずにとられていました。また、ある人は、いやいやこんなこと起こるはずが無い。こんなの嘘ででまかせだと言う人がいるかもしれない。そこまで言わなくても、うーんわからない、ありえないことですね。とも言う人がいるかもしれません。

 しかし、最も大事なことは何かといえば、この出来事を通して神様御自身が何をなさろうとしておられるのかということなんです。この出来事を人間の常識で判断してやろう。そんなふうに思ったところでそういう考えを持っているだけでは、この出来事から力を得るなんてことはありえないでしょう。

 教会におけること、聖書をめぐる物語。すべて、「わたしがこれを判断してやろう」という思いでいるとそこから何の力も得ることはできません。それは人に対する態度だってそうでしょう。「あの人のことを評価して、良いか悪いか」などと思っているうちは人と関わることや教会にいることが全くおもしろくないと思います。

 そうではなくて、この背後にある神の思いは何か。神は何をなさろうとされているのか。そのことを探ると、そこから力を得るのです。いつも神の思いを探り、神にむかって、神にむきあって、神とがっぷり四つ。そうなった時に、人には聖霊がそそがれて、恐ろしいほどまでに時に力が授けられるのです。世界に出て行く力を使徒たちは与えられたように。

 弟子たちは、外国語を話しだしましたが、その時に話していたのは、どんな言葉だったでしょうか。

 2章9節につづく一連の流れを御覧いただくと。

 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、メソポタミア、ユダヤ

 この人達はアラム語という言語を話しておりました。

 カパドキヤ、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア

 この人たちはギリシャ語でした。

 エジプトとキレネに接するリビア地方

 この地域もギリシャ語でした。

 また、ローマから来て滞在中の者

 この人々はラテン語を話します。

 ガリラヤ出身の人々が話していた言語はアラム語であったと言われています。ですから、ギリシャ語と、ラテン語は分からないはず。なのに語りだした。

 ここには大きな神の意図があります。神御自身が、どこぞの国という限定をおかずに、このアラム語と、ギリシャ語、ラテン語という言語で伝わるように外国語で弟子たちに語らせたということは。。。全世界の人々に神はキリストのことを伝えることを願っておられるということです。

 当時の世界では聖書の地図をみていただければ分かりますように、地中海沿岸の地方が全世界だと思っていますので、アラム語、ギリシャ語、ラテン語、全世界の人々に神は手を伸ばされて伝道をはじめようとされておられるだということを受け取ったのです。

 弟子は神の心を受け取ったのです。それがこの奇跡で最も重要なこと。「あいつらは酔っ払っている」というなんとも心ない批判など脇目もふれずに、神の全世界に対する熱情。神は、世界の人々を愛そうとされておられる。キリストの福音を伝えて、それによって世界の人々を変えようとされておられる。恵みで満たして、神がどんなお方であるか、世界中に知らしめようとされておられる。今こそ、神が選ばれたその時なのだ。

 そう受け止めた弟子たちのフットワークは軽くなり、神の思いに突き動かされて前に出て行く歩みをはじめたのです。

 もう一つ、聖霊降臨の出来事で指摘しておかなければならないことがあります。それはペトロが語った説教と大いに関係があるのですが、ペトロは聖霊に満たされて大胆に語りだしました。その語った内容は、神の霊がすべての人に注がれるという非常に大きな恵みについてでありました。しかし、同時に、大事なことは、2章36節以下のことです。

 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。

 イスラエルの人々、エルサレムにいた人々、このペトロの言葉を聞いている人々にとって、これは非常に耳が痛い言葉。

 キリストを十字架にかけたのはあなたたがたなのだ。

とペトロは指摘している。神の独り子を殺してしまった。神の心もわからなかった。神は人々を愛そうとお考えになられていたけれども、それらを全部踏みにじって、無視するどころか暴力によって傷めつけ、侮辱し、殺してしまった。徹底的に罪の中にあり、全く神のお心など理解していなかった。それがあなたがたであったのだと指摘されたのです。

 聖霊によって示される時というのは、非常に自分にとっては痛いというか、図星というか、指摘されたくなかったことと言うか、その場で泣きたくなるようなというか。芯の芯をつかれた、ど真ん中をつかれた、ついてほしくないところをつかれた。そういう言葉を聞く。人間って痛い思いをしないと全く変わらない。圧倒的な恵みの中で、そこはついてほしくなかった痛々しい人に見せたくない罪深さ、どす黒い思いというのが指摘される。

 しかし、そこから大変革が起きる。神の心を知って、神の心を実現するために自らを委ねる歩みがはじまるのです。あのかつての使徒たちのように。アーメン!