ガラテヤの信徒への手紙4:1〜7節 「父、子、聖霊」

 今年の4月から、教会が古代から受け継いでおります使徒信条を念頭に置き、聖書から聞いております。本日は特に「父、子、聖霊」という三位一体について共に聞いて行きたいと思います。三位一体という言葉は、日本人でも良く使う言葉になりましたが、その本来の内容であるキリスト教的な三位一体論というものをきちんと理解している人は少ないと思います。これはキリスト者しか、結局は理解しきれないものであると思います。父なる神と、子なるキリスト、聖霊なる神が、三つの位格を持ちながらも一つである。という説明を受けたところではて何のことだろうかというのが関の山かもしれません。

 しかし、聖書を通して普段から御言葉を聞いているものにとっては、これはよく分かる内容なのです。実際に神様とのかかわりにおいて、この三者を意識しないと信仰は体験できません。父だけでもない、子なるキリストだけでもない、聖霊なる神だけでもない。その御三方が一体で一つであると分かってはじめて、神とつながっているということがよく分かるようになる。そんな不思議な教理です。

 三位一体なる神については、本日引用されていますガラテヤの信徒への手紙4章だけでは不十分ですし、この三位一体なる神は聖書を毎日読み続けるなかで見えてくるものであるということも覚えていただきたいと思います。今日はしかし、ガラテヤの信徒への手紙4章に書かれていることに注目をしたいと思います。

 ガラテヤというのは地名です。今のトルコです。その地域に複数の教会が設立されていました。その教会の設立にかかわったのがパウロでした。その地方の諸教会の中に誤った考え方を広めるものたちが出て来ました。その誤った教えに対して、「それは違うよ」ということを目的に書かれたのがガラテヤの信徒への手紙です。

 誤った教えを広めていたのは、ユダヤ主義者と呼ばれる人々です。元ファリサイ派の人で、モーセの律法を守ることに徹底的にこだわる人々でありました。パウロはこの人たちへの反論を書き送りました。

 このユダヤ主義者の問題については使徒言行録の15章を読めば明らかになります。折角ですから読んでおきたいと思います。おおまかに使徒言行録15章1〜11節までをお読みします。

 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。

 異邦人が割礼を受けるということは非常に大変なことでありましたし、犠牲をともなうものでありました。それをすれば新しくこのコミュニティーに加わるための通過儀礼になるし、これによって神の前での正しさが保証された。というように思いやすい。何よりわかりやすいですね。体にしるしが刻まれた方が、「私はこの時から神のものとなったのだ」と思いやすい。しかし、そういった人間の体に刻めるものとか、人間の行為とかそういったものによって救いが確保される。というやり方は福音に反します。そうパウロは理解しているわけです。救いは信仰のみ。信じる、これ以外にない。

 パウロとペトロはこの問題のために立ち上がりました。ペトロの言葉を読みたいと思います。15章7節以下。

 議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。

 彼らにというのは、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言っている人たちに向かってです。

 「兄弟たち、ご存知の通り、ずっと以前に神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人の同じことです。」

 この会議で使徒たちの間で、またガラテヤの信徒たちの間、全教会で大切なことが確認されました。それは「救われるためには、何が必要か」「福音の本質とは何か」ということでした。そして、この会議で確認されたのは「人は信仰のみによって救われる」というシンプルな真理でありました。

 しかし、律法を意識して生きているユダヤ人たちのことも配慮するために、使徒言行録15章においては、行動において確認されたことがあります。幾つかのことについては律法通り守ろうとしている人たちに迷惑をかけないように異邦人も守ろうと決めた。それは使徒15章29節。

 すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。

 律法という旧約聖書の基準を持たない異邦人と、律法をすべての基準として生きてきたユダヤ人との間に争いが起こらないように、以上のことはしっかり異邦人も守れと命じて、この会議は終わったわけです。ですから、これはやはり行動によって救われる救われない。これをしたから義人であり、これをしないから義人ではないという発想からもう抜けでなければならないということだったのです。

 行動を中心に物事を考えて、それを追い求めて行く。そういうあり方であったら、教会に来る必要は無い気がします。良い人になっていく、そういうだけの宗教だったら、教会にあえてくる必要はありませんし、もっと良い働きをしている集団はあるはずですから。そちらに行った方が良いかもしれない。

 しかし、私たちが宣べ伝えている内容というのは、信仰だけによって、帰ることのできなかった神のもとに帰っていくことができるという福音です。信仰によって神とつながって、信仰によってキリストとつながり、キリストに倣って行くと、神の心がこの心に注がれてくる。神の霊が私たちのところにお越しくださって、私たちを造りかえて行く。もはや行動を正して、自分を良くしてから神に認めていただいて神のわざがその人に起こるというような、行動が先という論理に従う道ではなくて。信仰の論理によって、信仰によって神と結びつくことによって、私たち人間の力ではなく、神の力によって人が変化していくという道が示されたのです。

 律法の行いは救いをもたらす条件ではありませんが。救いに至るためのプロセスとして、必要なものでありました。何が善で何が悪なのか。それをはっきりと指し示すから、それはキリストへ人を導くための養育係としての務めを果たしました。私たちもかつては行動の原理で動いていました。異邦人である日本人も、神を知らない人であったとしても、「善い人にならなきゃ」というようなものを心に抱えていきてきましたでしょう。知らぬ内に、行動の論理が私たちの内に入っていて、その基準を守る人が善人、義人。であるかのように考えてきたのです。しかし、そうでは全くない。キリストにすべてを委ねる。キリストの霊が注がれて、キリストが分かるようになってきて、キリストに従っていくことによって、神が願っている正しいことを実現していく。そういう道が示されている。信仰の論理によって、信じるということによって物事をはじめていく道が今や示されているのです。

 この二つの道を分けるわかりやすい指標があります。それは本日のところに書かれていることです。全体を眺めていただきたい。

 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。

 ガラテヤ地方の人々への言葉ですから、必ずしもユダヤ人が前提ではなくてこの言葉は異邦人に向かっている言葉です。異邦人は他の神々に仕えてしまっていた。その時の行動基準というのは、行動によって正しい正しくないと認められるという、行動の論理であった。それは諸霊に仕えるということでもあったのだと。そして、その状態というのは奴隷状態であったと、パウロは説明します。

 しかし、キリストへの信仰に生きるようになってからは。

 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。

 キリストへの信仰のみによって生きるようになったものには、「アッバ、父よ」と呼ぶ心があたえられて、それはもはや行動の論理ではない。信仰の論理によって、信頼によって歩むようになったのだと。

 イエス様って本当に独り子として、父に対して自由に行動されました。安息日に麦の穂を積んではならないと周りの人が批判しているのに、弟子たちが空腹であったときには、取って食べよと命じられた。それは、親が子を愛するように、何がまず最優先なのか、それを良く分かっておられたからです。

 子供にとっては律法を守るということももちろん大事ですが、天の父の思いが一体なにかを探ってそのとおり行動するということの方が先なのです。子供を愛するように動く。こうあるべきかなんていうことももちろん大事で無視できないですが、しかし、それ以上に目の前にいる子供をどう守るかが大事です。その父の思いをそのまま実現しているので、イエス様は時に堂々と律法を破ったわけです。心が大事だ。聖霊の支配が大事だということです。マタイによる福音書の恵み深い箇所をご一緒に読みたいと思います。12章1〜8節。この箇所に福音とは何たるか、信仰によって歩むとはなにか、天の国がここにありとはどういうことか。私たちはどうあゆむことができるのかということが教えられている。

 そのころ、安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている。」と行った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も共の者たちも空腹だったときに何をしたのか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない備えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかっただろう。人の子は安息日の主なのである。

 イエス様こそが神殿であり、人の心こそが神殿であり、そこに聖霊がやどり、祈りをささげ、その神殿を通して行われること、それが愛に満ちているのであれば、それは表面上律法を破るように見えてしまっても何の問題もない。神の心を実現するのであれば、本当は一番にどうすべきなのかが分かる。

 人を縛り付けるような行動基準。律法、戒め。そういったものが実は中心にあるのではないのだ。信仰が人の歩みの中心にある。その信仰によって生きるときに、行動がどうこうということよりも、恵みによって上から注がれるその神の心。その神の心である聖霊。その聖霊によって心にどうすべきなのかが示されてくる。だから、行動によって正しくなろう、などと思う必要はもう全くない。神の思いに応えるためには、神のお気持ちを受け入れるためには、神の聖霊にゆだねるためには、そのことだけを考えて、イエス様に寄り添うように聖書に耳を傾けていれば判断がつくようになる。

 行動をいつも気にしてびくびくしているのは奴隷です。信じる思いで、信頼で、神のお気持ちに寄り添う思いで、アッバ父よ。お父ちゃん教えてくださいと、イエス様が天の父をお父ちゃんと呼んでいたように呼びかけて、信頼によって、もうビクビクしないで、自分が正しいか正しくないかということは、あとで神が保障してくださるので、恐れずに、父に聞きながら行動をしていけばよいのです。

 父、子、聖霊を信じる信仰というのは、「アッバ、父よ」と呼びかける信仰の中に、その神髄がある。そう呼びかけて歩んでいると、父に、イエス様に、そしてそのお気持ちを心にしめしてくださる聖霊に、私たちは信頼をささげなければ歩めない。その方に信頼をささげた時に、真に自由に、安心して、しかし大胆に、人を恐れず神を恐れる歩み。キリスト者としての歩みをしていくことができる。もう奴隷は嫌です。子であるべきです。子!アーメン。